おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"が綴る日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想など。

「役立たない人は死んでいい」(相模原障害者殺傷事件)

 今回の事件(相模原障害者殺傷事件)に対して肯定的な感想をよせている「差別主義者」の反応は間違っていると思いました。「役に立たない人は存在しなくていい(殺害していい)」という優生思想は歴史的に否定された倫理的に間違った考え方です。どんなことがあっても正当化できません。

あと、出生前診断で胎児に障害が見つかったときに中絶するケースを持ち出してきて今回の事件を正当化しようとする人もいますが、そもそも中絶と殺人はまったく違う概念なので、それを理由に正当化することはできません。


それに加えて「役に立たないからダメ人間」みたいな考え方も間違っています。そもそも「役に立つ人」というのは「資本(企業)にとって役に立つ人=都合のいい人」という意味です。だから、役に立つからと言って「その人のその人らしさ(かけがえのなさ)」にはまったく関係がなく、もし、その人よりも役に立つ人がいれば別の人でも(あるいはロボットでも)代替可能なのです。何かの役に立つという発想は、何かの目的の手段や道具になっているということであって、他の便利な手段や道具があれば(機能的等価ならば)何だってよいわけです。

資本主義社会では生身の人間が労働力商品になってしまうので、「役に立つ人⇒有能な人材⇒その人自身に価値がある」という価値観の錯覚が生じます。相対的な機能価値と絶対的な存在価値がイコールだと思ってしまう誤謬です。この間違った価値観から、社会に役立っている機能価値の高い人は人間としての存在価値が高いので存在が許され、社会に役立たない機能価値の低い人は人間としての存在価値が低い「ダメ人間」なので存在が許されない、という結論を下します。

しかし、機能価値と存在価値をイコールで繋ぐことはそもそもできず、何かができる・できない、社会の役に立つ・役に立たない、という弁別とは無関係に人間の存在価値は無条件に肯定されるのが近代社会の人権思想(尊厳原則)です。人間を機能価値で評価すること(労働力商品と見做すこと)が許されるのは存在価値が肯定されている限りにおいてです。

人間は動物なので有性生殖で生まれてきますが、有性生殖には必ず個体差が生じます。これは人間の生物学的事実です。資本主義社会の労働市場では、有性生殖によって生じた個体差(によって生じた能力の違いなど)も労働能力の評価対象に含まれてしまいます。その人が後天的に獲得した能力(教育・育ち方・努力)だけが公平に評価されるわけではなく、自分ではどうしようもない遺伝的な要素も多分に関係してしまうのです。しかも、後天的な要素も自分では選びようのない環境(親の収入など)によって規定されている可能性が高いと思います。

従って、生身の人間を労働力商品と見做して能力主義的に評価することは非常に暴力的で差別的なのです。でも、資本主義を回すにはそのような暴力的なシステムを採用することが効率的だったので、人間の尊厳を脅かさないという条件のもとでシステムを作動させるというのが再配分を正当化するリベラリズムの社会設計でした。

しかし、グローバル化新自由主義の趨勢(価値観)によってそのようなリベラリズムが忌避されるようになってきています。生産性・効率性の低い人、活躍していない人、何かの役に立っていない人、つまり機能価値の低い人はその存在価値まで否定してしまう間違った価値観が蔓延しています。このように人間を機能価値のみで評価してしまうのは、根本的に倒錯した価値観であることに気づくべきです。

広告を非表示にする