おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「差別なき社会」の不可能性

 相模原の事件で改めて「差別」について考えています。

様々なブログやSNSを巡り歩いてその意見を参考にさせてもらいました。

結果、やはり「差別主義者」はもちろん、単に「差別反対」と言っている人も間違っていると思いました。

 僕もむかしは素朴に「差別反対」と言っていたのでわかるのですが、「差別反対」と主張することは「正しい」ことを言っているのだから何も間違ってなどいない、と思っていました。でも、これは自分を棚に上げて言っているのです。

 

 中島義道さんの『差別感情の哲学』という本がありますが、この本は非常に痛烈です。人間は人を差別し人から差別されることから絶対に逃れられない、つまり、差別なき社会は不可能であると言っている本です。そのことの淵源を「感情(差別感情」に見いだすのです。

 

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

 

 

 この本から最も痛打されたのは、次のところです。

 

 これまで、「不快」「嫌悪」「軽蔑」「恐怖」という他人に対する否定的感情を差別の動因として考察してきた。しかし、こればかりではなく、われわれの抱く自分自身に対する肯定的感情も、同じように、いやそれ以上に差別の動因を形成する。単純にある他人を不快に感じたり、嫌ったり、軽蔑したり、恐るわけではない。じつに、その背景には自分自身を誇りに思いたい、優越感をもちたい、よい集団に属したい、つまり「よりよい者になりたい」という願望がぴったり貼りついているのだ。

 差別問題の難しさは、じつにこの「悪いものがよいものに支えられている」というところにある。われわれ人間がよりよいものを目指すところにある。…差別をなくすには悪をなくせばよい、というわけではない。差別問題は、人間の心のうちに住まう「悪」をよく見据え、それを退治すれば解決できるようなものではないのだ。

 われわれ人間が「よいこと」を目指す限り、差別はなくならないであろう。いや、「よいこと」を目指す人がすべて同時に差別を目指していることを自覚しないうちは、彼が自分は純粋に「よいこと」だけを目指し、他人を見下すことは微塵も考えていないという欺瞞を語る限り、なくならないであろう。(p114)

 

私たちは他人に対して否定的感情を抱くことがあります。この感情には抗うことが可能です。否定的感情を抱くこと自体は止められないにしても、その感情のままに人と接したら相手を害してしまうと考え、良心をもっている人なら心のなかで葛藤が生じるはずです。これが否定的感情に抗うこと、倫理や道徳の発生源です。

 

では一方の肯定的感情はどうか。

中島さんはこれも差別につながると言っています。これは愕然とした事実であると思います。私たちは日々、自分自身に対して肯定的感情を抱こうと努力しています。自信や自尊心、自己肯定感です。こういった価値肯定的な感情が人を差別する「差別感情」にわかちがたく結びついていると中島さんは言うのです。

 

私たちが「よいこと」「よりよい者」「望ましいもの」を志向するとき、同時にその反対側に「よくないこと」「よくない者」「望ましくないもの」が必ず出現します。どちらか一方だけを出現させることはできません。つまり、「健康」にプラスの価値を見いだすことは「病気」「障害」にマイナスの価値を付与することであり、「正常」や「普通」を志向することは、「異常」や「普通じゃない」ことに否定的な価値を付与することになるのです。

 

 差別意識をもたないことがほとんど不可能であるのは、小学校のころから、「よいこと」を目指すように教え込まれているからである。清潔であること、規則正しくあること、勤勉であること、傲慢であってはならないこと、弱いものを助けること、……こうした価値を教え込まれた子供が、これらを目指していない者、実現していない者を蔑むようになるのは自然である。(p161)

 

たんに「差別反対」「差別してはいけない」と言っている人はそのことにまったく気づいていないのです。健康志向で病気になんてなりたくないと思っている人が「障害者を差別してはいけない」と言っているとしたら、この根本的矛盾(差別なき社会の不可能性)をまず考えなければならないと思います。

 

 【そのことに気づいたジャーナリストの神保哲生さんのVTRが参考になります】

 

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相模原障害者殺傷事件・日本社会の中に潜む事件の遠因を考える

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