もはやテレビから「相模原障害者殺傷事件」のニュースは消えつつある。
たぶんこの先、オリンピック一色になると予想されるので、事件は風化するのではと危惧しています。
自分なりに「障害者差別」について考えてみましたが、まだどうしても解決できない問題が一つあります。
まず、次のような質問にどう答えるでしょうか?
「目が見えるのと、目が見えないのと、どちらがいいですか?」
僕の場合は「目が見えた方がいい」と答えます。
これは、言い方を変えれば「目が見えないのは嫌だ」ということです。
上の質問の主旨は、「目が見えなくなった」という結果の話ではなく、それ以前に、「目が見えるのと、目が見えないのと、どちらがいいですか?」というのを問題にしています。
一般的に言って、「目が見える方がいい」(目が見えないのは嫌だ)と答えるのではないでしょうか。
もし、その質問に「目が見えない方がいい」(目が見えるのは嫌だ)と答える人がいたら、僕はまったくその価値観を理解できません。もしかすると、そのような境地があるのかもしれませんが、僕には今のところまったく理解不能です。*1
僕は、「目が見えるか、見えないか、どちらがいいですか?」と問われたら、「目が見える方がいい」と思っています。これはつまり、「視覚障害者になるのは嫌だ」と言っていることと同じです。
もちろんですが、僕は「視覚障害者」を差別してはいけないと思っています。すべての人間には人権があり、人間の尊厳は尊重されなければならず、すべての人間の存在価値は無条件に肯定されなければならないと思っています。
しかし、その一方で「視覚障害者になるのは嫌だ」と思っているのです。
「視覚障害者になるのは嫌だ」と思っていながら、「視覚障害者を差別してはいけない」と思っている。
これはどこか矛盾しているのではないか、と思うのです。
以下に、重度重複障害児の教育にかんする記述があります。
ここに登場するCさんは、肢体不自由なため、ほとんどベッド生活である。自力歩行はできないし、言葉を発することもできない。食べ物を飲み下す力が弱いため、鼻から胃に管を入れ、その管で栄養をとる。
そのCさんの大事な学習内容の一つは、外部からの刺激に対し少しでも反応を豊かにするということである。気持ちを表現できるようにするということである。まさに、『生きる力』を養っていると言えよう。
こういう記事を読むと、どんな子どもにもそれぞれに教育の目標は必ずあって、CさんにはCさんに合った教育目標があり、それが「外部からの刺激に対し少しでも反応を豊かにするということ」=「気持ちの表現」=「生きる力を養う」ということなのだとすごく納得できました。
しかし、「あなたは“Cさん”になりたいですか?」と問われたら、僕はなりたくないと答えます。「重度重複障害児」と「健常児」と、どちらか一方の人生を選べるとしたら、僕は「健常児」の人生を選ぶと思います。(だからといって、Cさんの人権や尊厳を否定しているわけではないですし、Cさんを勝手に不幸だと決めつけているわけでもありません。Cさんは幸福かもしれないし不幸かもしれない。そのようなことは当事者にしか決して分かりえないことです。)
以上のように、自分に正直になって考えてみた結果、次のようなことが分かりました。
僕は、「障害者を差別してはいけない」と思っている。
しかし、「障害者になるのは嫌だ」と思っている。
もし、僕の眼前に「障害者」がいたら、僕は「この人を差別してはいけない」と思いながら、できれば「この人のようにはなりたくない」とも思ってしまうのです。
そして次に、その「障害者」の立場に立ち、もし自分がその「障害者」だったらと仮定して、眼前の人から「この人のようにはなりたくない」などと思われていたら、と考えると、僕はすごく傷つきます。
したがって僕は、そのような立場の入替えを頭の中でやることによって、「この人のようにはなりたくない」という気持ちを押しとどめ、なかったことにしようとします。そして、「障害者になるのは嫌だ」「この人のようにはなりたくない」という否定的感情から、この人は「かわいそうな人」「不憫な人」「気の毒な人」という同情心が生まれてきたりもします。しかし、この感情も相手を傷つける感情なのではないかと思って、先ほどと同じように押しとどめ、なかったことにしようとします。
こうやって「障害者になるのは嫌だ」という気持ちを押し殺し、あたかも最初からそんな気持ちはなかったことにして、自分を騙しているのです。
僕は、「病気(癌など)になるのは嫌だ」とも思っています。
ずっと健康がいいと思っています。
もしかすると、「障害者になるのは嫌だ」という気持ちも、そのようなことの延長線上にあるのかもしれません。
以上、長々と書いてきましたが、この問題はまったく解決することなく、自分の中でずっと今でもモヤモヤしています。
*1:生まれつき目の見えない人は、目が見えたことがないので、もしかすると「目が見えない方がいい」と答えるかもしれませんが、僕は生まれつき目が見えるので、「生まれつき目の見えない状態」がまったくわからず、よって「目が見えない方がいい」という価値観も理解不能です。