おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"が綴る日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想など。

「社会的価値」から自由になって、「本当の人」に出会いたい。

  人間は生物である以上、他の生物同様、必ず個体差(自然的差異)が生じます。また、育った環境による学習過程によっても違いが生まれてきます。これら個体の生得的・後天的な違いによって、個体独特の「特異性」や「異質性」が形づくられていきます。

 個体の差異・特異性・異質性は生物有機体の根元的事実ですが、そもそもその個体の違いじたいに「優劣」が付いているわけではありません。たとえば、「身長が高い」という身体的特徴は、ただそれだけで「身長が低い」ということよりも優れた特徴であるというわけではありません。

 しかし、人間がつくりだした社会では、社会的価値(社会のモノサシ)によって、個体差から生じるそれぞれの違いに「優劣」をつけ、序列をつくりだすのです。そして社会では、年齢、性別、能力、性格、身体的特徴など…人によってそれぞれ違う個体的性質を社会的価値によって評価し、社会に役立つか、みんなから好まれるか、迷惑をかけていないか……といったようなモノサシを使って、人と違っているところ(異質性・特異性)じたいに良い悪い・優劣のレッテルを貼り付けます。

  個々人の違い・異質性・特異性は、当初は価値中立的で単なる事実的な違いであったはずなのに、その違いじたいを無理矢理に評価し、価値づけし、優劣をつけ、「できる・できない」を選別し、これらの評価結果を個々人に帰属化させることによって、「優秀で価値ある存在」と「劣った価値の無い存在」という虚像を構築するのです。

 

 因って問題なのは、人それぞれの違いに対して無理やり優劣をつける社会からいかに自由になるか、だろうと思います。つまり、本来「人はみんな違っているのがあたりまえである」ということをもう一度再認識して、人それぞれが違っていること、人はそれぞれ異質で特異な存在であるという根元的事実をもう一度しっかり考えることが必要なのだと思います。

 「ありのままの自分」を受け容れるということは、社会的価値判断から自由になり、本来人間はみんな違っているのがあたりまえであり、その人間の一人である「異質な自分」を受け容れるということです。また、多くの人が社会的価値(モノサシ)から自由になることによって、「他者」と「自分」は違いのある人間同士なんだと認め合うことができれば、個々人の多様なあり方や異質性、自分とは違う「ありのままの他者」を尊重することもできるかもしれません。

 

 社会的に価値づけられ、優劣を無理やり付けられてしまった人をそのままストレートに見るのではなく、社会的に価値づけられる以前の、異質なままでありのままの姿を見たい。そういう異質でありのままの姿を、人の本当の姿を見ることができなければ、本当の人に出会うことはできないと思う。一生、本当の人に出会わない人もいるかもしれないが、僕は本当の人だけに出会いたい。

  社会的価値に彩られた虚像のみで人を判断する人にはホトホト疲れました。本当の人に出会うためには、まず僕自身が本当の人にならなければならない。社会的価値の虚像を捨てて、異質なままの自分をある程度さらけ出さなければならない。僕はこの際、社会的価値を信奉している人たちからどう思われてもいいと思っています。バカにされてもいいし、蔑まれてもいい。そんなことより本当の人に出会うことの方が大事だからです。社会的価値の虚像に拘るあまりに、本当の人に出会うことなく死んでしまうことの方が恐ろしい。だから僕は、見栄も外聞も捨て、本当の人を探しています。

 

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