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おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"が綴る日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想。

「説教」の潜在機能が示唆する「やり場のない怒りが弱者へと集約される」メカニズム

■「説教」とは何か

  これから書く「説教」とは「学校の先生に説教される」という意味の説教です。

 僕は説教が大嫌いなんですが、誰かに説教されるのが好きだ、なんて人はある例外を除けばたぶんいないんじゃないでしょうか。また「オレは説教するのが好きで好きでたまらない」などと言っている人も、ある例外を除けばあまりいないと思います。なぜでしょうか。それは説教とは、「したくてするものではなくしかたなくするもの」、もしくは、「しかたなくしてあげるもの」ということになっているだからです。

  説教という行為は、上下関係のような立場性が関与しており、目上の者が目下の者に注意や忠告や小言を言い聞かせることです。つまり、説教とは「言い聞かせる」という言葉からわかるように、使役的で「強制」や「指示」の意味合いがあります。また、「説教を食らう」という例文の「食らう」には受動性の意味があります。そして「説教をもらう」という例文からは、説教をされる目下の者からすれば、説教とは「もらう」ものであり、説教をする目上の者からすれば「あげる」ものということになります。以上のことから説教というのは、強制的で一方向的な授受であるということがわかります。

 結論を言えば、説教とは「立場性を利用して目上の者が目下の者に強制的に注意や忠告や小言を一方的に言い聞かせる行為」ということになります。したがって、目下の者は異議申し立てができないかたち(双方向性が許されないかたち)になっています。

 説教に近い言葉で「叱咤激励」という言葉がありますが、叱咤とは「大声で叱りつけること」という意味で、また、「励ます」という意味もあります。激励とは「励まして元気づけること」という意味ですから、叱咤激励とは「叱って励ますこと」という意味になります。説教と叱咤激励の共通点は、強制的で一方的なところです。

 

■「立場性」を利用する

 説教をするには何らかの「立場」が必要です。相手より上に立っていなければ説教することはできませんから、自らに下駄を履かせる必要があります。下駄は何でもよくて、たとえば、先輩後輩、上司と部下、先生と生徒、親と子ども、高齢者と若者などの人間関係、経歴、実績、経験、成績、上手下手などの評価、俺はあいつよりカッコいいとかモテるなどの自己イメージ、俺はあいつよりマシだ、などの自尊感情などあらゆる属性や関係性や立場性が利用できます。とにかく「俺はあいつより上だ」と思えれば相手に説教することができてしまいます。

 

■「履き違えた善意」は「お説教」になる

 やさしさに満ちている人の中には、何か相手に良いことを言ってあげなければいけないとか、私が言わなければ相手は困ってしまうのでアドバイスしてあげなきゃとか、なにかと自分は善意で相手を助けてあげていると思っている人がいます。しかし、相手にとっては単なる「お説教」に聞こえる場合があります。

 善意とは利他的で他人のことを思いやることですが、説教や叱咤激励が本当に他人のためになっているのかという点について、十分に自覚する必要があると思います。なぜなら説教や叱咤激励は、強制的で一方的なので、異議申し立てができません。もし異議を言ったら、「お前のために言ってやってるのに何を言うんだ!」と憤慨するでしょう。

 つまり、アドバイスでも助言でも強制的で一方的な場合、それは「善意」で言っているのではなく、単に自分の立場性を利用して「お説教」を言っているだけなのかもしれません。「お前のためを思って言っているのに!」と感じてしまうのは、「自分が上で相手は下なのにコイツ何を言ってくるんだ!」と体面を汚されたからです。本当の善意で言っているならそのようには感じないはずです。

 

■説教の意義

 説教にもいい面はあるとは思います。でもそれは、説教する側がちゃんと説教の意味を理解し、相手の性格をちゃんと考えて効果が期待できるときに適切なタイミングで使えればの話です。これをうまくやるには相当のスキルが必要でしょう。ほとんどの人はそんなことは考えず、ただ漫然と説教をしています。

 

■説教の「感情処理」機能

 実は説教というのは、一方的で強制的なので、「感情処理」にはとても都合がいいんです。したがって説教する側が、鬱積した感情を晴らしてスッキリするのに説教を利用しようと思えばいつでも利用可能です。だったら利用しない手はないでしょう。

 中世のキリスト教では、宗教的な説教をするために七つの大罪を利用しました。その七つの中には「怒り」が入っています。「怒り」というのは、心の内にこもった激しいエネルギーが膨れ上がって、それが我慢できなくなり、それを外に向かって爆発させることです。つまり、自制がきかなくなり、自分の精神的な内圧に屈する現象です。

 立場上、目上にいる者は、目下の者を自分の思い通りにコントロールしたいという欲求があります。もし自分の思い通りにならない場合、我慢できなくなって、能動的に「怒り」の感情が表出します。そしてその「怒り」をきっかけに、一方的で強制的な注意や忠告や小言を言い聞かせ、自分は相手より上だという確信を得るとともに、相手には無力感を思い知らせ、それと同時にいままで鬱積していた感情をも晴らそうとするのです。

 つまり、説教というのは、「お前のために言っているんだよ」と善意ぶったことをいいながら、その実、目下の者をコントロールできないというエゴイスティックな理由から、「怒り」という感情を抑圧することなく爆発させ、この怒りを利用しつつ目下の者を説教することによって、今度は自分がどこかで抱え込んでしまった不満や鬱積した感情を解消しているのです。これが説教のもつ恐るべき機能、説教という行為に隠されている潜在機能です。(この潜在機能が顕在化した現象が「パワハラ」であると思います。)

 

■しわ寄せは誰に向かうのか

 鬱積した感情がうまく処理できず、外に発散できなければ、そのモヤモヤした感情はどんどん溜まっていき、内攻して熟成され、恨みや怨念になっていきます。「積年の恨み」という言葉からもわかるように、恨みは発酵食品のように長期保存が可能です。でも引き金はいつでも引ける状態にあるので、ちょっとしたきっかけで怨嗟の的が見つかれば、溜まりに溜まった恨みを一気に爆発させることになります。したがって、恨みや怨念は攻撃行動につながる反社会的要因の最たるもになります。

 現代社会で生きている以上、子どもから大人まで行き場のない鬱積した感情は必ず溜まっていきます。社会で受け入れられる形でモヤモヤした感情をうまく処理できない場合、情緒的安定性が保てなくなり、静的にはうつ病などの精神的な病に罹ったり、動的には反社会的行動を行う可能性があります。

 複雑な成熟社会になっていくと、今までの方法に頼ることができなくなっていき、鬱積した感情をうまく表出するのがどんどん困難になっていきます。今までなら「家族」が大きな役割を果たしていましたが、今では「家族」に感情処理の機能を期待することができず、むしろ「家族」の崩壊によって鬱積した感情が溜まる要因になってきています。

 そうなると、お父さんは仕事仲間の間で感情を処理し、お母さんは主婦仲間の間で感情を処理し、子どもは友人同士で感情を処理するという分断がおこります。これを横のつながりの感情処理だとすると、縦のつながりで感情処理するのが説教や叱咤激励です。

 横のつながりも縦のつながりも、説教の説明で目上の者が目下の者に感情処理をしたように、鬱積した感情はどんどん弱者の方へと吸い寄せられていき、すべてのしわ寄せはあらゆる弱者へと集約されていくことになります。その結果、反社会的な行動が増加したり、いじめや不登校、ひきこもりやうつ病などの精神的疾患や自殺などのあらゆる社会的な病理の不安要因がどんどん増加していくことになります。

 会社では上司から部下へ、学校では先生から生徒へ、家族では親から子へ、会社の同僚の間では仕事の評価の高い者から低い者へ、主婦同士の間では夫の年収の高い者から低い者へ、子ども同士の間では喧嘩の強い者から弱い者へ、各弱い者はさらに弱い者へ…。

 すべては弱き者へと鬱積した感情がリレーされていき、耐え切れなくなった者が爆発することになります。もちろんあらゆる弱者は相対的なので、現代では誰がいつどこで爆発してもおかしくありません。地雷原はいたるところに埋められており、社会を生きるすべての人がその地雷原の一部なのです。

 

 

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