おんざまゆげ

@スラッカーの思想

なぜ「努力」は「信仰」となり人を苦しめ続けるのか 〜 差別・不平等・努力信仰 の関係 〜

 

「平等」の二つの意味

 

 「差別とは何か」を考えるまえに、まず、「平等とは何か」を考えてみます。

 「平等」には大きく分けて、二つの意味があります。

 (1) 「同じ」(同質・等しさ)という意味

 (2) 公平(公正・正義)という意味

  (1)は数的・物理的・性質的な概念であり、(2)は政治的・法的・権利(人権)的な概念です。

  平等の概念はさまざまあるが、二つの意味系統にわけることができる。第一に、平等はある種の公平さ、つまり公平な扱いをさす。第二に、平等は同じということ、つまり同質性・均質性をさす。人を公正に扱うためには、人によって違った扱いをしなければならないときがある。いいかれば、人間をみな同じように扱ったからといって、必ずしも公正に扱ったことにはならない。公正さという意味の平等は、価値観を述べる言葉で、人間がどのように扱われるべきかを問題にしている。これは人間関係をさす言葉なのだ。これに対して、同じという意味の平等は、事実を主張する言葉で、人間には共通の性質があると語っている。(『脱「開発」の時代』p60

 

 よく「人間は不平等だ」と言っている人がいますが、これは「人間はみんな同じではない、人それぞれ違っている」という意味(つまり(1)の意味)で平等概念を使用していると考えることができます。平等を事実的な問題として考えているわけです。

 これに対して、「人間は平等である」と言うとき、これは事実的問題のことを言っているのではなく、事実としては様々に異なる人間を「公平な存在として平等に扱うべきである」という価値的・規範的な宣言を言っているのです。

 人間は知能、才能、道徳上の徳、身体の強健さにおいて異なっている。つまり、重要と思われそうな事実上すべての性質において、人間は違っているのである。

 仮に平等の原理がもっともなものだとしても、それは、人間はどのようにあるかを述べた事実に関する陳述として解釈することはできない。むしろ人間はどのように扱われるべきかを決めた原理として理解されねばならない。つまり人間は平等なものとして扱われるべきだということを大まかに述べた道徳法則として理解されねばならない。(レイチェルズ [2010:p198]

 

 

公平性としての平等

 

 一般的に「差別」が問題とされるのは、「公平性としての平等」に反するからです。

 では、そこで問題にされている「公平性」とは何なのでしょうか。

 かくして、公平性の要求とは、実のところ人々を扱う際の恣意性に対する禁止に他ならないわけである。それは、十分な理由がないのに、我々がある人をもう一人の人とは違う扱いをするのを禁じた規則なのである。

 もし人に異なる扱いをすることに十分な理由がないならば、その差別は容認できない恣意的なものなのである。(レイチェルズ  [2003:p18

 

 たとえば、Aさんを優遇しBさんを冷遇するとき、二人はまったく違う扱いをうけていることになります。二人の扱い方の違い(優遇と冷遇)を正当化するだけの「理由」がなければ、二人の扱い方の違いは恣意的であり「不公平」となります(つまり、このままではBさんを差別していることになる)。

 しかし、何らかの正当な理由があれば、その扱い方の違いは「公平」となり、Bさんを差別していることにはならないのです。

 

 ならば、二人の扱い方の違いを正当化する理由とは何なのでしょうか。

 扱いの違いを正当化するような適切な相違があるなら、人々を異なる仕方で扱うことに反対すべきでない……適切な相違がないならば、諸個体は同じように扱われるべきである。(レイチェルズ [2010:p198,p199]

 

 二人の扱い方の違いを正当化することができる理由、それは、「適切な相違」があるかないかということです。AさんとBさんに「適切な相違」があれば、二人の異なる扱い方は正当化され、逆に、「適切な相違」がないのなら、二人は同じように扱わなければならないのです。

 しかし、「適切な相違」の「適切さ」とはいったい何でしょうか。

 いったい何が適切で何が適切でないのか、今度はここが問題になります。

 諸個体の間の相違が適切であるかどうかは、我々が念頭に置いている扱いの種類による……諸個体の間のある相違が扱いの相違を正当化するかどうかは、問題となっている扱いの種類による(レイチェルズ [2010:p200]

 

 つまり、「適切な相違」の適切性は、二人の扱い方の「種類」によってその適切さが判断されるのです。

 以上のことをわかりやすくまとめると、次のようなになります。

  AさんとBさんは同じ職場に属しており、Aさんの「職務遂行能力」は高く、Bさんは低い。このときの扱い方の種類は「仕事」ということになります。そして、二人の職務遂行能力に応じてAさんは優遇され、Bさんは冷遇される。

 この二人の異なる扱い方を正当化する相違(職務遂行能力の違い)は、「仕事」を行う上で重要な要素ですから、職務遂行能力の違いは「適切な相違」と判断できます。従って、AさんとBさんを職務遂行能力の違いによって、Aさんを優遇しBさんを冷遇するのは「仕事」という種類からして正当なことであり、二人の異なる扱い方は「公平」(差別ではない)ということになります。

 一方で、もし、AさんとBさんが同じ職場に属していて、Aさんの身長は180センチでBさんの身長は150センチだったとします。このときの扱い方の種類は「仕事」です。

 二人は身長の高さに応じてAさんは優遇され、Bさんは冷遇されたとします。この二人の扱い方の違いを正当化する相違(身長の違い)は仕事をする上でまったく関係がない(適切な相違ではない)でしょう。従って、二人の異なる扱い方は「不公平」ということになり、この扱い方の相違はBさんを「差別」しているということになるのです。

 

 

「差別」にも二種類の意味がある

 

 「平等」に二つの意味があったように、実は「差別」にもそれに対応したかたちで大きく二つに分けることができます。

 それは、「制度的差別」と「制度外差別」です。

 次の文章を読めば、その二つの違いを直感的に理解できると思います。

 …Aちゃんは目が覚めるようにかわいくて明るくそのうえ成績もいいのに、私はブスで暗くて頭も悪い。みんなそれを知って、Aちゃんをちやほやし、私から顔を背ける。それなのに、私は不満を訴えてはならないのだ。訴えた瞬間にみんなから腹を抱えて笑われるのだ。そして、この格差が死ぬまで続くのである。それなのに、私はこれを問題にしてはならないのである。(中島 [2009:p170]

 

 「私はブスで暗くて頭も悪いしかし、Aちゃんは目が覚めるようにかわいくて明るくてそのうえ成績もいい……この格差が死ぬまで続く……なのに、私はこれを問題にしてはならない」。

 この「私」と「Aさん」の格差(不平等感)を問題にする場合、この不平等感は「差別」になるのでしょうか。結論から言うと、なりえないのです。その格差がどんなに理不尽に思えても、そのような不平等感は「差別」として社会に告発できません。

 「差別」には、社会的に告発可能な「公認されている差別」(制度的差別)と、社会的に告発できない「非公認的な差別」(制度外差別)があるのです。

このような制度の外にある、あるいは「制度によらない」差別こそ、差別の最高の形態である。なぜなら、制度による差別であれば、制度を解消することによって解消することができるが、意識にもとづく差別のばあい、その意識を変えるには、意識という、もっともやっかいな相手を敵にまわさなければならないからである。意識は、利害損得に関わるだけでなく、倫理感や、美意識にかかわっている。なかんづく、後者の改造は、ほとんど人間の手には負えないものである。こういう差別こそ、本来の意味において、イデオロギー的と呼ぶことができると思う。(『差別ということば』明石書店 p162

 

  差別問題における最も悪質な点。それは、「差別はない」というタテマエのもとにおける差別である。制度上の差別が撤廃されたのち、われわれの前に立ちはだかるのは、こうした制度外差別であり、それを広く「心における差別」あるいは「差別感情に基づく差別」と呼んでおこう。ここには、考えようによっては、制度上の差別以上の悪が横行している。それは、欺瞞という悪、狡さという悪である。「いじめはない」と居直りながら、いじめを黙認している悪であり、結果としていじめに加担している悪である。(中島 [2009:p29])

 

 以上のことから、「制度的差別」と「制度外差別」の大まかな違いは分かったと思います。

 具体的に言いますと、「制度的差別」というのは、みんなが知っている公認された差別問題のことです。たとえば、「人種差別」「民族差別」「障害者差別」「女性差別」「年齢差別」といったような差別のことです。これらは、前述した平等の二つの意味のうちの「公平性としての平等」(政治的・法的・人権的)に反するので、制度的に解決すべき問題として社会や政府に対して告発可能な差別問題になりえるのです。

 それに対して、「制度外差別」(先ほどの「Aさん」と「私」との格差)は、社会的に公認された「制度的差別」にならないがゆえに、その格差(告発不能な不平等感)を個人的問題(プライベートな悩み事)として受け入れなければならなくなります。

 つまり、「差別とならない差別感」が確実に存在しているのに、これを差別問題として告発することができず、すべてが個人的問題として片付けられてしまうのです。

 「制度外差別」は、前述の平等の二つの意味のうちの事実的な問題(人間の身体的な性質の違い)に関係しています。あたりまえのことですが、人間は生まれながらに(身体的に)人それぞれ違っていますが、この「人それぞれ違っている」という事実から、先ほどの告発不能な不平等感も生まれてきてしまうのです。ですから、人間が人それぞれ違っている以上、そのような不平等感を完全に消し去ることはできないのです。

 

 

「制度外差別」の理不尽さ

 

 「公平性としての平等」では、個々人の異なった扱いを正当化する「適切な相違」の適切性が問題になりました。しかし、よく考えてみると、個々人の「違い」は個々人が自ら望んで選んだものではなく、そのほとんどは生まれつきの「違い」と言っていいと思います。

 ある人の身長は180センチであり、ある人の身長は150センチだったりします。あるいは、ある人の知的能力は高く、ある人の知的能力は低い。そして、ある人は「美人」であり、ある人は「不細工」である……等々。

 こういった個々人の「違い」は本人が選んだものではなく、(なぜかは知らないが)生まれつき偶然そうなっていただけにすぎません。従って、事実的問題である個々人の「違い」に注目すると、人間はゆえなく絶対的に不平等なのです

 

 実のところ、公平性としての平等原則は、そのような事実としての不平等を許容しているのです。なぜなら、社会的・文化的価値観によって人間の個体差(身体的差異)に優劣の評価を付けること自体をその平等原則は一律に禁止しているわけではないからです。公平性としての平等原則が問題にしているのは、個々人の個体差や身体的差異を社会的価値で評価する際の適切性(適切な相違)のみだけです。

 そのような平等原則があるのは、自分には何の責任もない「事実としての不平等」によって社会生活上の営みが不利に働かないようにするための仕組み(ルール)を設計するときの規範を提供するからです。しかし、「社会生活上の不利」といっても千差万別、様々な不利が考えられますが、平等原則が関わることのできる「不利」は、あらゆる不利のなかのほんの一部分にすぎません。従って、事実としての不平等によって生みだされる不利のほとんどが、社会的に告発できない個人的に解決すべき個人的問題(「制度外差別」=「告発できない不平等」)になってしまうのです。

 

 学力や運動神経、労働などに関する「個人の能力」(メリトクラシー)とされるものは、近代社会においては「能力主義」という名のもとに公平性としての平等として許容されていますが、これこそが「制度外差別」の最たるものです

 近代社会においては、出自、身分、性別、人種などによる差別をしてはならないことが高らかに宣言されている。しかし、知的能力に基づいた差別だけは大手を振ってまかり通っている。大学も企業も知識や判断力などを基礎とする知的能力の優れた者を欲している。ピアニストになるのも、サッカー選手になるのも、凄まじい競争を勝ち抜かなければならないが、ピアノが弾けなくとも、サッカーができなくとも、軽蔑されることはない。だが、学力を中核とする知的能力の欠如者は、ともすれば「人間として劣っている」とみなされてしまうのだこの格差は誰も問題にしない。なぜなら、いかなる解決もないからである。知的障害者なら立派な(?)弱者、被差別候補者として現代社会では丁重に保護される。しかし、単なる低学力者は、いかなる保護もされない。この理不尽を前にしてしかたないと諦めるほかないのである。(中島[2009:p136])

 

 

「制度外差別」と「努力信仰」

 

 「制度外差別」(個人的問題)で悩んでいる人に対して、「もっと努力すればいいじゃないか」とか「努力が足りないからだよ」と言う人がいます。たしかに、本人の努力でもって原因を改善できるのなら、本人の個人的問題は解決することができるでしょう。しかし、もし本人の努力で解決できるなら、その問題はそもそも「制度外差別」などではないのです。

 「制度外差別」を個人の努力で解決できると思ってしまうのは、どんなことでも「努力すれば何とかなる」と思っているからです。

 以下では、「努力」と「制度外差別」の関係について考えてみたいと思います。

 

 

なぜ「努力」言説は必要とされるのか

 

 「努力」という言葉はどういった場面に登場し、どういったときに必要とされるのでしょうか。

 学校教育(学力)を例に考えてみます。

 

 (1) クラスの生徒全員がまったく同じ時間、同じ空間で同じ先生に教えてもらう。この条件でクラス全員がテストをうけたら、結果にばらつきが生じた。

  (2) Aさんは5時間勉強し、Bさんは2時間勉強した。結果、AさんよりBさんの方が成績がよかった。

 

 以上のような現象が起こったとき、ばらつきを改善させることを「努力」とよび、Aさんが勉強時間を増やすこと(5時間から10時間へ)を「努力」とよびます。

 つまり努力とは、人と人との間に存在する「差」(格差)を縮めようとすること。そして、社会的価値を高める方向へ近づけることです。

 

 人と人とを比較し、そこに社会的価値にもとづいた優劣をつける。

 このとき「劣った者」が「優れた者」に近づこうとすること。

 これが「努力」とよばれているものです。

 

 しかし、そもそも(1)において、どうしてばらつきが生じたのか。あるいは(2)において、どうして勉強時間の少ないBさんは勉強時間の多いAさんより成績がいいのか。

 実は「努力」の言説では、そういった根本的な「差」についてはまったく言及しないのです。

 「制度外差別」が切実な個人的問題になってしまうのは、そのような「根本的な差」がどうしようもない「差」として個人の問題になってしまうからですが、努力の言説はその点をまったく考慮せずにスルーしてしまいます。

 

 

「努力」の限界

 

 「努力」とは、人と人とを比較し、優劣をつけ、「劣者」とされた者が「優者」を目指すときに使用される言葉です。従って「努力」という言葉は、「比較劣者」だけに必要とされている言葉ということになります。

  次に、先ほどの例をちょっと作り変えて以下のような例を考えてみます。

 

 (3) Aさんは5時間から10時間に勉強時間を増やした。Bさんは勉強時間を1時間からゼロ時間に減らした。Cさんはまったく勉強していない。

 このときの成績順位は、BAC である。

 

 こういうときに「努力」の言説は、「Aさんは努力したのに報われず、とても残念な結果になってしまった。しかし、もっと努力すれば報われるはずだ」と言います。そして、Cさんについては、「そもそも努力していないのだから仕方がない」と言うでしょう。

 「努力」の言説が効力を発揮するのは、AさんとCさんの違いだけに注目し、「AさんはCさんより成績がよい。従ってAさんの努力は報われたのだ」と位置づけるときだけです。

 ここからわかるのは、「努力」言説において「努力が報われた」と言えるためには、必ずCさんのような「比較劣者」が必要とされ、「CさんがAさんより成績が低い(劣者)なのは、Aさんの為した努力をCさん(劣者)はしていないからだ」、と実感できるときだけなのです。

 Aさんが勉強時間を5時間から10時間へと増やしたことを努力だと思えるのは、Bさんという「比較優者」へと近づこうとする上昇志向があるからです。しかし、AさんはBさんより成績は低い。この点だけに目を向ければ、Aさんの努力はまったく報われていません。しかし「努力」の言説は、Cさんとの比較において「Aさんの努力は報われた」という地平をつくりだし、努力は無駄ではなかったと結論づけるのです。

 

 一方、BさんはCさんと同じようにまったく勉強していません。なのに、BさんはAさんより成績がいい。この点については、「努力」の言説は何も言わないのです。そして、Aさんに対して「努力」の言説は、「AさんがBさんの成績へと近づくためには、Aさんは勉強時間を10時間から15時間へと増やさなければならない!」という途方もない更なる「努力」を要求するのです。

 そのような「努力信仰」は、「劣者」を恣意的に選び出し、その「劣者」との比較において「努力は報われた」とし、更ならる努力を要求し続けます。ここでBさんがそれなりに勉強時間を増やしたなら、BさんとAさんの成績の「差」はいつまでも埋まらないでしょう。

 

 しかし、そもそもAさんの勉強の仕方(努力の仕方)がわるいからではないか、と疑問を持つこともできます。「量」ではなく「質」を問題にするのです。しかし、Bさんはそもそもまったく勉強をしていないのだから、勉強時間の質(努力の仕方)を問題にすることはできません。

 たとえば、AさんとBさんがまったく同じように同じ仕方で5時間勉強したとして、このときでもAさんとBさんには成績の差が生じるでしょう。こういうときの根本的な差を「制度外差別」は問題にしているのです。

 そして、Bさんはまったく勉強せず、Aさんは10時間も勉強しているのに、どうしてBさんはAさんより成績がいいのか… つまり、どうしてAさんはBさんよりもたくさんの努力を強いられるのか、ということを問題にしているのです。

 以上のように、「努力」という言葉は「制度外差別」にまつわる個人的問題の理不尽さを隠蔽し、「努力すれば何とかなるだろう」という楽観的な見解にもとづく「努力信仰」を個々人に押しつけてしまう面があるのです。

 

 

「努力できる」条件

 

 次に(3)におけるCさんについて考えてみます。

 Cさんはまったく勉強していません。

 「努力信仰」にもとづく努力ゲームから降りているように思われるCさんに対して、努力ゲームをしている陣営はCさんを「怠惰」であると位置づけます。つまり、Cさんは努力できるのにしていないから「怠惰」であると断定するのです。

  CさんはAさんのように努力したからといって、Bさんより成績がよくなるという保証はありません。でも、CさんがAさんより成績がわるいのは、Aさんのように勉強(努力)していないからだと断定するのです。このときに前提されているのは、Aさんは努力しているのにCさんは努力していない、という努力量の比較です。

 一般的に、誰かが何かをしてないとき、「できるのにしていない」のか、「できないからしていない」のか、という違いがあります。

 「努力信仰」の言説は、「すべての人間は努力できる」という命題を漠然と信じています。これが「努力信仰」の信仰たる所以ですが、そもそも「努力できない人」もいるということを考慮していないのです。

 実のところ、ある人が「努力できる」ということは、努力できることを可能にするような様々な条件によって支えられているのですが、この条件は本人の努力次第では改善できません。

 たとえば、「Aさんは勉強が好きでCさんは勉強が嫌い」というのも努力できるための条件です。あるいは、「Aさんの親は裕福なので塾に通えるが、Cさんの親は貧乏なので塾に通えない」とか、「Aさんは親切な教員と出会うことができたが、Cさんにはそういう出会いはなかった」等々。

 そのような「努力できる」条件は、本人の努力ではどうにもならない社会的条件や偶然によって規定されているのです。つまり、AさんとCさんとの条件的・偶然的「違い」は膨大に考えられるはずなのに、そういったことをまったく考慮せず、「努力信仰」は一律にみんな同じように努力できると信じています。そしてその信念から、努力できない者を「努力できるのにしていない人」と勝手に断定し、その人自体に「怠惰」の烙印を押してしまうのです。

 

 ところで、「努力信仰」はCさんを「怠惰」であると断定しますが、同じようにまったく努力していないBさんを「怠惰」とは言いません。なぜでしょうか。

 Bさんはまったく努力しなくても(なぜか知らないが)成績がいいからです。一方のCさんは、まったく努力しなくても(なぜか知らないが)成績がわるいのです。

 Cさんは成績がわるいから努力が必要とされ、その努力を怠っているから「怠惰」であるとされてしまいます。しかし、同じように努力していないBさんは、成績がいいので努力は必要とされず、よって、努力していなくても「怠惰」とはいわれないのです。

 このBさんとCさんの根本的な差を「努力信仰」はまったく考慮していません。

 「努力信仰」は、努力できるための条件をまったく考慮せず、「Aさんは努力しているのにCさんは努力していない」という努力量の比較をし、Cさんを「努力できるのにしていない人」と判断します。

 努力できるための条件には本人の努力では改善できないものがあるのだから、AさんとCさんとを一律に比較することはできないはずです。

 こういったことも「努力信仰」はまったく考慮しないのです。

 

 

「努力できない」ことは「自己責任」ではない

 

 公平性としての平等原理から零れ落ちてしまう問題

 これが「制度外差別」の問題でした。

 人間の個々人の違いは、有性生殖による個体差に由来します(あるいは、育ち上がった環境)。

 社会はその個体差を社会的価値によって評価し、「優位になる者」と「劣位になる者」が選別されます。このときに「劣位になる者」が著しい不利益を被らないようにするためにこそ平等原則はあるのです。

 しかし、すべての不利益を平等原則は救いません。ほとんどすべての不利益は救われず、個人的に解決すべき問題(制度外差別)となってしまうのです。こういう「制度外差別」に対して「努力」という言葉は何を言うことができるのでしょうか。

 

 まず、「努力が必要ではない人」と「努力が必要とされる人」という違い(努力の必要性の違い)が生じます。あるいは、「努力が少なくていい人」と「努力がたくさん必要な人」との違い(努力量の違い)が生まれます。

  社会的価値の評価・選別によって、「優者になった人」は努力は必要とされず、「劣者になった人」は努力が必要とされます。次に、努力が必要とされる人のなかで、たくさん努力できる人とそもそも努力できない人、という違いがあります。

 努力というのは、努力できる条件によって支えられており、この条件によって、たくさん努力できる人とあまり努力できない人という違いが生じるのです。

  努力が必要とされていない人は、努力をしていなくても「怠惰」にはなりません。しかし、努力が必要とされている人は努力をしていないと「怠惰」になってしまいます。努力が必要かどうか(あるいは、どのくらい努力が必要か)は、本人の生まれつきの要因(偶然や所与の条件)であるがゆえに、本人の責任ではないでしょう。また、努力が必要とされる人のなかで、努力ができるかできないかは「努力できる条件」によって違ってくるので、これもまた本人の責任ではないのです。

 

 

「容姿の美醜(格差)」という「制度外差別」

 

 個々人の身体的差異にもとづく「制度外差別」には、今まで述べてきたような「能力的格差」と「容姿の美醜」の格差問題があります。

 以前、一部のフェミニストが「ミス・コンテスト」は「女性差別」にあたるのではないかと問題にしたことがありました。そもそも「美を競う」という目的のもとに開催されるミス・コンテストにおいて、参加している女性の美醜を評価するということは、いったい誰を差別していることになるのか

 女性差別を告発し、摘発することに成功してきたフェミニズムではあっても、ミス・コンテスト問題は不発に終わりました。なぜかというと、その問題には「個人的問題は社会的(政治的)問題である」というフェミニズムのテーゼが通用しなかったからです。

 やはり、個人の容姿の美醜問題は、個人的に解決すべき問題とされてしまい、告発できない不平等感を個人の悩みとして引き受けざるをえないのです。

  以下はフェミニストの吉澤夏子さんの指摘です。

 井上章一は、美人でない女性が社会的弱者であるかどうかについて疑問を呈しながら、次のように述べている。「たしかに社会的弱者に対して、社会はある種のコストを払わなければなりません。貧しい人や身体障害者など社会がしかるべき配慮をもって、社会改革を行う必要があるでしょう。こうした弱者に対する保護という流れにそって、美人コンテスト粉砕を叫ぶ人たちがいると思うのですが、容姿の面における弱者はこれとも多少違うと思うのです。このようなことで社会がコストを払い、社会改革を行うのはおかしいと思うのです。やはり個人の内面のなかで、「ああ不細工だな」という悩みを処理しなければならないと思うのです」。

 ここで井上は、美人でない女性は、社会的弱者ではあるが、そのことは、貧しい人や身体障害者が社会的弱者であるということとは異なる側面をもっていること、それは、容姿の面における弱者は、そのハンディキャップを社会的な問題としてではなく、あくまで個人的な問題として引き受けなければならないからだ、という指摘を行っている。ミス・コンテスト批判に集約される問題は結局「個人的に解決すべき問題」である、というこの指摘は、フェミニズムの現代的困難――ひいては差別問題全体――を考察するときに、きわめて重要な論点を構成する。(吉澤 [1997:p122]

 

 

 「容姿の美醜(格差)」は「告発不能な差別」を生む

 

 「容姿の美醜」の問題は、個人に解決すべき問題(制度外差別)とされてしまうにしても、たとえば、就職試験の面接のような場面で、「容姿の美醜」の評価が「なんとなく」忍び込んでしまっていることはないでしょうか。だとしたら、これはれっきとした告発可能な「差別」になります。

 しかし、「容姿の美醜」の問題に限って、そのような差別は告発不能なのです。

 私たちの社会には、「美という評価基準」が適用されるべきではない領域にまで、その基準が暗黙のうちに影響を与えているという事実が存在する。この事実を差別として告発・批判することに正当性があることは明らかだ。たとえば、「美という評価基準」がモデルの採用試験に使用されることは社会的に許容されても、公務員試験に使用されることは許容されないだろう。

「美という評価基準」が適用されるべきではないところにそれが適用されている、こうした事実が社会のいたるところに存在していることを、いわば実感している。しかし、そうした事実が存在していると推定されるほとんどの具体的な場面で、そのような判断――つまり不当な差別があるという判断――を支えているのは、心証や状況証拠でしかない。「人を差別者として告発することができる程度まで」はっきりした、つまり第三者によって確認可能な客観的証拠を揃えることは、一般的には非常に難しい。(吉澤 [1997:p138,p140]

 

 差別を実感しているが、心証や状況証拠しかない。客観的証拠を出せない。こういう形態の差別は「まなざしの差別」とよばれているものです。「まなざし」を向けられる者は差別を実感し、「まなざし」を向ける者は差別を隠蔽できてしまいます。

 「まなざし」のある空間には常にそのような機制が働いており、人間の「まなざし」と「美の評価」(美的感受性)はどうしても分離不可能であり、認識(認知)と価値判断(評価)が分かちがたく結びついているのが人間の他者に対する「まなざし」なのです。(ゆえに「他者は地獄」なのです)

 従って、学力試験で能力を評価することと、面接試験で能力を評価することと、どちらも理不尽な「制度外差別」を生みだすわけですが、後者の方が「まなざしの差別」が働く分だけ、より理不尽であると言えるかもしれません。

 

 

「感受性」と「信念」の板挟み

 

 ミス・コンテスト問題についての吉澤さんの結論は、自分の「感受性レベル」では人を美醜で評価してしまうが、自分の「信念レベル」では人を美醜で判断してはいけない(差別したくない)と考えるというものです。この板挟み状態のままずっと考え続けなければならないというわけです。(これは、「障害者になるのはイヤ」だけど「障害者を差別してはいけない」のところで述べたことと同じです。) 

私自身は、ミス・コンテストという催し物などなくなった方がよい、と思っている。その理由は、女性に対してであろうと男性に対してであろうと、その人の容貌の美醜や身体的な特徴をめぐって、いろいろあげつらったりあからさまに評価したりするような言動は、著しく品性に欠けている、と思うからだ。

 私は、ミス・コンテストという社会的な現象に対してはそれを何となく品性に欠けるものだと思っているが、個人的な文脈では、いくらでも人の容貌の美醜や身体の特徴について、いろいろなことを感じまた語っているのである。ただ、それはいわばひそかにやるべきだ、という決断をしているにすぎない。(吉澤 [1997:p150,p151]

 

 

 「容姿の美醜」は努力の問題?

 

 以前、社会学者の古市憲寿さんがツイッターで《 テレビで中学生くらいの子たちが合唱してるんだけど、顔の造形がありありとわかって辛いから、子供たちももっとみんなメイクしたり髪型や髪の色をばらばらにしたほうがよいと思う 》と呟いて炎上したことがありました。

 そのときに古市さんが言いたかったことは、一口で言うと、「容姿も学力と同じように考えよう。そして、容姿も学力と同じように個人の努力の対象にしましょう」ということです。

なぜか容姿に関しては努力をした途端にサンクションの対象となる。メイクをしたり、髪を染めたり、制服のスカートを短くしたり、自分をよく見せようという努力は多くの学校で校則違反と見做される。

従って、学力とは関係の無い容姿に関しての努力は禁じられることになる。

人は結局、見た目を含めて選ばれるのだ。それならば、見た目を良くする努力がもっと認められても良さそうだ。学校で美容という必修教科を設けてメイク技法を教えたり、ファッションに関するイロハを教えてもいい。事実、見た目で人が差別される可能性がある以上、そのほうがフェアではないのか。 

mmtdayon.blog.fc2.com

 

 

 では、以下ではあえて「容姿の美醜」の問題を学力と同じように努力の問題として考えてみたいと思います。

 

 (4) Dさんの容貌は「美しい」

 (5) Eさんの容貌は「醜い」

 

 ここで「努力」の言葉を使用するとどうなるか考えてみます。

  努力の言葉は、Eさんの容貌は「醜い」のだから「努力」してDさんのように「美しくなれ」と言います。ここで言うところの努力とは、容貌を変化させることが可能な「メイク・髪型・ファッション」などを指します。(整形手術は日本ではまだハードルが高いのでここでは除外する)

  Eさんは容貌を変えるためにそのような「努力」が必要であると判断され、一方のDさんは、もともと「美しい」のであるから、そのような努力は必要とされません。

 そもそもどうしてEさんは努力しなければならず、Dさんは努力しなくてもいいのでしょうか…。

 簡単です。Dさんは生まれつき「美しい」からであり、Eさんは「醜い」からです。この違いを生んだのは、社会的価値による美的評価・選別であって、Eさんは自ら望んで「醜さ」を選んだわけではありません。しかし、Eさんはゆえなく「美しくなるための努力」が必要であると勝手に位置づけられてしまい、この努力を怠ると、「怠惰」とされるのです。

 一方のDさんは、まったく努力をしていなくとも「怠惰」にはならず、逆に、周囲から「美しい」と評価され承認されまくります。

 つまり、「努力」という言葉は、DさんとEさんの根本的な不平等感については何も言うことができず、かえってその不平等感(制度的差別)を隠蔽するように働くのです。しかも、その不平等感を前提にして、「劣者」(Eさん)だけに「努力」を強いり、この努力を怠ると、「劣者」(Eさん)だけに「怠惰」という烙印を押します。この努力の規範システムによって、Eさんは努力ゲームを強いられ、Dさんはそのようなゲームを免れています。この違いはまったくもって、生まれつきの自然的差異(偶然的産物)によっているのです。

 

  さらに、努力の条件の問題を考えてみます。

 

 (6) Eさんの容貌は「醜い」。努力によって「美しく」なった。

 (7) Fさんの容貌は「醜い」。努力したが「美しく」ならなかった。

 (8) Gさんの容貌は「醜い」。まったく努力していないから「美しく」ない。

 

 以上の例では、努力の言葉によって「努力が必要である」と判断されたうちで、努力が報われたケース(6)、報われないケース(7)、努力していないケース(8)です。

 よく考えると、努力という言説は(6)(7)の違いを説明できません。どうして(6)は報われて(7)は報われないのでしょうか。このときに、(7)Fさんは「努力が足りないからだ」と言うのが努力の言説です。ここから「努力信仰」は発動し、どこまでも努力することを推奨し、努力が報われないという現実を認めないのです。

 前述したように、どれだけ努力しても報われないことはあります。また、どれだけ努力できるかどうかも「努力の条件」によって異なっています。

 努力の言葉は(8)のようなケースを「怠惰」であると断定し、もともと「美しい」(4)のようなケースは「怠惰」とは言いません。そして、(7)のようなケースは更なる努力を要求し、努力できないと「怠惰」であると切り捨てます。だから、努力の言葉は(6)のようなケースのみを「報われた努力」としてこれを承認するのです。

 

 以上のことからわかるように、努力という言葉は規範的な言葉であり、「努力すること」を暗黙裡に強制する言葉です。《 人間はすべからくみんな努力できる。よって、努力すべきである。努力していない者は「怠惰」であり「ダメな人間」である 》。

 すなわちそれが、「努力信仰」テーゼなのです。

  しかし、努力はすべての人間に必要とされているのではなく、必要とされている人と必要とされていない人がいます。そもそも社会的価値の優位にある者は、努力は必要とされていないのです。そういう人は、努力をしていなくても「怠惰」とは見なされません。なぜなら、そもそもその人は社会的価値の優位者であって、努力が必要とはされていないからです。しかし、劣位の者は「劣位だから」という理由で努力が必要とされ、この必要とされる努力をしていないと「怠惰」になってしまいます。だから、努力しなければならない、と思い、「努力すること」が推奨(強制)される「規範」になるのです。

 

 

「努力信仰」は「制度外差別」の理不尽さを濃縮する

 

 どうして「努力」が推奨されるのか。あるいは、どうして「努力が必要とされる人」が努力をしていないと「怠惰」=「ダメ人間」という烙印を押されてしまうのでしょうか。

  まず、次のことは明らかです。

 人間のどうしようもない個体差を、社会的に評価し、個人間に社会的優劣の違いを生じさせる

 社会にそのメカニズムがあるかぎり、「制度外差別」はなくなりません。しかも、近代社会は封建的差別をなくすために、そのようなメカニズムを採用しました。その方が「自由」で「平等」だと思ったからです。

  この厳しい現実を前にすると、社会的に「劣位」に置かれたものは「やる気」をなくすだろうと思います。このようなときに必要とされるシステムが「努力」という規範システムだったのです。つまり、「努力によって何とかなる」という言葉、そのような「慰めの地平」が社会にはぜひとも必要だったのです。

 このとき、今まで述べてきたように、努力によって何とかなる人と、どうにもならない人がいます。慰めの地平を用意した社会は、「どうにもならない人」に対しては、いったい何が言えるのでしょう。このとき「努力」の言葉は何を言うのでしょうか。

 やはり、それでも「努力しろ!」としか言わないのが努力の言葉であり、これこそが「努力信仰」の信仰たる所以の真骨頂です。

  結果として、「努力ではどうにもならない人」、「努力ではどうにもならない領域」は残り続けます。ずっと濃縮された領域として「制度外差別」はそのままのかたちで残りつづけるのです。

 そして、まったく努力せずとも社会的評価を得ている優位者を見て唖然とするのです。何が違うのだろう。「あの人」はまったく努力しておらず、それでいて「怠惰」と見なされず、ただ道を歩いているだけで「美しい」とか「かわいい」という評価を受け続けるのです。

 この根本的な違いから生まれる個々人の不利益は、社会的にはまったく救われることのない個人的に解決すべき問題(「制度外差別」=「告発できない不平等感」)として受け入れなければならないでしょう。しかも、そこに「努力」が命じられ、努力していないと「怠惰」と見なされてしまうかもしれません。

 「努力信仰」(ある種の権力作用)は、「劣者」を強制的に「優者」へと駆り立てようとします。また一方で、努力によってはどうにもならない人たちをさらなる凝縮された「制度外差別」へと追い込むのです。

 

 

【本文で引用した本】

脱「開発」の時代―現代社会を解読するキイワード辞典

脱「開発」の時代―現代社会を解読するキイワード辞典

 

 

現実をみつめる道徳哲学―安楽死からフェミニズムまで

現実をみつめる道徳哲学―安楽死からフェミニズムまで

 

  

ダーウィンと道徳的個体主義―人間はそんなにえらいのか

ダーウィンと道徳的個体主義―人間はそんなにえらいのか

 

 

差別感情の哲学

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女であることの希望

女であることの希望

 

 

差別ということば

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