おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"が綴る日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想。

「差別意識」とコノテーション 〜リオオリンピックで感じた違和感〜

 

メダルラッシュ

 リオのオリンピックが終わりました。(パラリンピックはこれから始まりますが

 日本選手は大活躍で「メダルラッシュ」と言われています。

 しかし、僕はノリのわるい人間(KYな人)なので、マスメディアの「メダルラッシュ」のお祭り騒ぎのテンションにはどうしても違和感を抱いてしまいます。

 メダルを取った選手に対しては素直に「素晴らしい」と感動しますし、心から「おめでとう」と言いたいし、表彰式のシーンで日の丸を見ながら君が代が流れたりすると、思わずジーンときてしまう時もあります。

 ただ一方で、どうしても、そんなにメダル、メダルって騒ぎ立てなくてもいいんじゃないか、とも思ってしまうのです。

 

「メダリスト」と「非メダリスト」

 「メダリストは素晴らしい!」とみんなで賞賛するということは、その裏を返せば、「メダルを取れなかった選手は素晴らしくない(残念だ)」ということになります。こういうことを言うと、「そんなことは言っていないメダルを取れなかった選手もベストを尽くしたんだから素晴らしいじゃないか」と反論してくる人がいます。

 そのように言いたい気持ちはすごく分かりますが、だとしたら、「メダリストは素晴らしい! そして、メダルを取れなかった選手も同じように素晴らしい」と常に二つを同時に言わなければならなくなりますが、マスメディアではそのようには言いませんし、テレビに出演するのもメダルを取った選手ばかりです。

 そもそも、「メダリストの素晴らしさ」と「メダルを取れなかったけどベストを尽くした選手の素晴らしさ」とは、意味的にも価値的にも違いますし、メダリストと呼ばれる選手のなかでも、「金・銀・銅」で意味や価値が違ってくるのだと思います。

 そのような価値的な違いや格差がなければ、「素晴らしい」とか「すごい」とか「優れている」とか「よい」という言葉(評価語)の意味自体が成り立たないのではないでしょうか。

 

言語の意味とコノテーション

 私たちが言語を使って「それは素晴らしい」と言う場合、ありとあらゆるものが混在した世界の中から「それ」と「それ以外」を区別し、その二つを比較したうえで「それ」に対してはプラスの価値を与え、マイナスの「それ以外」を言外に排除します。このときの「それ」をデノテーション(顕在的で直接的な意味)、「それ以外」をコノテーション(言外の潜在的な意味)と言います。

 私たちが言語(評価語)を使用するさいには、そのような区別・比較・排除を必ずしなければならず、負の「それ以外」を言外にコノテーションとして排除することによって、正の価値である「それ(=素晴らしい)」を「意味」として成立させることができているわけです。

 従って、「メダリストは素晴らしい」というメッセージ(正のデノテーション)の意味内容は、必ず「非メダリストは素晴らしくない」という負のコノテーションも含まれた形で同時に伝達されることになります。その二つを分離して正のデノテーションだけをメッセージとして伝達させることは、言語の意味作用からして不可能なことなのです。

 だから、「メダリストは素晴らしい」という賞賛の声がマスメディアによって増幅されればされるほど、「メダルを取れなかった選手は素晴らしくない(残念だ)」という負のコノテーションを読み取ってしまう人たちがそれだけ増えるということになります。この場合、負のコノテーションを誰よりも敏感に読み取ってしまう人は、現に「メダルを取れなかった選手」だと思いますし、その関係者の方々だと思います。

 

「社会的価値」とコノテーション

 「メダリストは素晴らしい」というデノテーションは(これはそのままの意味ですから)、たんに何も考えずにその意味に乗っかればいいだけの話です。しかし、コノテーションを読み取るにはある程度の想像力が必要になってきます。わざわざ言外の意味まで読み取ってしまう人というのは、「自然体」ではなく、それ相応の「構え」(読み取る体制)がなければ何も引っかかってきません。

 しかし、コノテーションを読み取る人というのは、自ら進んでその「体制」を身につけたというよりは、結果的にそのようになってしまった つまり、コノテーションを思わず読み取ってしまわざるをえなくなった、という人が多いのではないかと思われます。

 

 たとえば、次のような例が分かりやすいと思います。

 成績優秀な長女と、成績のあまりよくない次女がいたとして、このとき親は成績のよい長女ばかりを褒めていたとします。このような環境で育った次女は「私は成績がわるいのでダメな子なんだ」と思い込んでしまうかもしれません。

 親は次女に対して直接的に「どうして成績がわるいんだ!長女はあんなに成績がいいのに! あなたはダメな子だね」と叱責したわけではありません。しかし、成績がよい長女を「よい」という理由で褒めてばかりいると、次女はそこから勝手に「成績がよい」という評価のコノテーションに敏感に反応するようになってしまって、「成績がよくない自分は褒められないダメな子」という自己評価を育ててしまうことになるのです。

 

 つまり、コノテーションに敏感に反応せざるをえない人というのは、社会的に弱い立場に追い込まれて生きづらさを感じている人たちだと思います。「社会のモノサシ」として機能している「社会的価値」によって評価づけられて、この評価が「低い」と判断された人を「社会的弱者」とよぶならば、こういった社会的弱者は、社会的価値から生じる負のコノテーションに敏感に反応せざるをえない人たちということになります。

 

差別意識」とコノテーション

 以上のような私たちの言語使用にまつわる意味作用を考えると、「差別(意識)なき社会は不可能である」、ということになります。

 

 私たちが「よいこと」「よりよい者」「望ましいもの」を志向するとき、同時にその反対側に「よくないこと」「よくない者」「望ましくないもの」が必ず出現します。どちらか一方だけを出現させることはできません。つまり、「健康」にプラスの価値を見いだすことは「病気」「障害」にマイナスの価値を付与することであり、「正常」や「普通」を志向することは、「異常」や「普通じゃない」ことに否定的な価値を付与することになるのです。

 

tunenao.hatenablog.com 

 

 私たちは「健康」が望ましい価値であるとする社会に住んでいて、子どもが産まれたら「健やかに育って欲しい」と願います。これはあたりまえの自然な感情でしょう。しかし、「健康がよい」ということは、コノテーションとして「「病気」や「障害」はできれば避けたい」ということであり、「健やかに育って欲しい」ということは、コノテーションとして「病弱に育って欲しくない」ということになるのです。

 

 社会にはモノサシとしての「社会的価値」があって、このモノサシに従って私たちは社会生活を営んでいます。そして、「よいこと」とか「よりよい者」とか「望ましいもの」を目指すように学校で教育されます。このときに「社会的価値」が子どもたちにインストールされるのです。

 そのような社会のモノサシをインストールされた私たちが「誰か」を評価するとき、「素晴らしい」とか「能力がある」とか「デキる人」とか「優秀な人」とか「仕事が早い」とか「かわいい」とか「美人」とか「イケメン」とか……等々、これらの評価にはすべてにおいてピッタリと負のコノテーションがくっついていて、「それ以外」の人たちをすべて区別・比較・排除します。これは言語使用の「評価」にまつわる意味作用なので、言葉を使って何かを評価する以上、絶対に避けられないメカニズムです。

 

一億総活躍社会」のコノテーション

 最後に、「相模原殺傷事件」が起きたときに発言されていた日本障害者協議会代表の藤井克徳さんの言葉を紹介したいと思います。

 藤井さんの発言で注目すべきところは、「一億総活躍」というフレーズに違和感を表明されているところです。これは、「一億総活躍社会」というメッセージから生じる負のコノテーションのことを言っているのだと思います。

今回の事件と日本社会の風潮との関係について

 …経済的な力があるものが、あるいは効率のいいものが、つまり、「屈強な男性中心の社会」にだんだんとなりつつある 言い換えれば、効率がわるかったり、速度が遅かったり、生産力が弱いというのは、まるで価値がないような、そういう風潮がなくはないわけで、けっして今の社会全体の大きなベースの上に今度の事件がつながっているとすると、これは非常に複雑な背景ではないかと1130秒~1224秒)

 

一億総活躍」というフレーズについて

 …言葉」というのは「言う側の論理」とは別に「感じる方」に分があると私は思っています。たしかに一つのスローガンとして、短いフレーズで言語としてはとても単純な言葉なんですけれども、ただ障害者の側、私自身も障害者なわけですから、その側からすると、もうすでにその舞台には立てない、活躍できない人が現にいるんだという、そこの層を考えて言っているのかという……

 だから非常にデリカシーのなさということを強く感じるし、もっと言うと、活躍できない者は何か二級市民の称号を与えられるような、そういう響きさえもつわけで、私個人はあまりいい響きはもっていないし、障害が重くなればなるほど、あの言葉は悪い不協和音として感じているんではないかと思います

 おそらく今の若い世代には、ああいうフレーズはとても大きな影響があると思うし、逆に言うと、意識・無意識は別にしても、障害者の側だけの問題じゃなくて、若い人たちのなかにも「活躍できる人間」と「活躍できない人間」という二分法的な発想が生まれてくるのではないか。あるいは、生まれるとまでいかなくても、その萌芽というものがそこにはできてくるのではないか。

 だから、障害者の側からすればつらいし、あるいは、障害をもたない人からすれば、自分は活躍できる側にまわるんだという、言い換えれば、「活躍できない人」がいるということを区分けしてしまっている……一種の格差の源にもなるし、よく言われている「勝ち組・負け組」というものの原点という感じがします。(2910秒~3225秒)

 

www.videonews.com

 

www.videonews.com

広告を非表示にする