おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"が綴る日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想。

猛威を奮う「そんなの仕方ないじゃん!」派たち〜ロールズ先生を一瞬で黙らせる言葉〜

 さっき調べて分かったのですが、『正義論』が刊行されて今年で45年目なんですねジョン・ロールズ - Wikipedia)。

 今でも日本では「ロールズ産業」が続いているようです。

 たとえば今月、勁草書房から「ロールズ」と名のつく本が二冊も出版されています。

 

平等主義の哲学: ロールズから健康の分配まで

平等主義の哲学: ロールズから健康の分配まで

 

 

ロールズと自由な社会のジェンダー: 共生への対話

ロールズと自由な社会のジェンダー: 共生への対話

 

  

 しかし、「学問」(政治哲学)や「思想」のレベルでは今でも人気があるみたいですが、現実の政治(政策)レベルになると、そのほとんどが「無視」されているように思われます。たんなる「理想論」ということなのでしょうか

 

ロールズの全思想の核心」

 

 岩田靖夫さんの解説がすごく分かりやすかったので、以下に引用いたします。といっても、引用するにしてはかなりの長文になっています。(ちなみに、原文にはまったく改行がなかったので、こちらで読みやすいように勝手に改行を入れました。)

 

人間の社会はいわば二重の不平等の重荷の下にある。すなわち、一つは自然的な不平等であり、もう一つは人間の作り出した不平等である。後者はたとえば、同じ才能をもつ者でも貧しい階層に生まれついたために、その才能を活動させることができずに終る、というような事態である。

 このことをなくすために、人びとは富の極端な蓄積を妨げ、教育の機会均等を可能なかぎり拡大するなどして、同じ才能をもつ者が生まれついた時の社会階層にかかわりなくその才能を発揮しうる同じ可能性をもつように、少なくとも意図としては努めてきたであろう。すなわち、このような社会的、歴史的、後天的な差異が、一個の人格にとってはいわれのない差異であるが故に、これを抹消しなければならないという認識である。

 こうして、ある程度の努力の末に、社会的な偶然の及ぼす力を軽減し、形式的に平等の門戸を開いたとしても、その奥に自然的な差異というどうしようもない差異が控えているのである。この差異を消去することは不可能である。それ故、自然的な自由の体制をそのまま放置すれば、時の経過とともに必然的に富や権力の巨大な不平等が生起してくる。

 これは、公式的に平等や機会均等の体制を設立したところで、どうすることもできない現実である。この現実に直面してわれわれは、富や権力の配分を自然的な素質の差異に無条件に委ねてしまうのは不正である、と感ぜざるをえない。

 だがしかし、ここで一体何が不正なのか。この点に関するロールズの考えは、私見によれば次のようにまとめられてよいであろう。

 われわれが男に生まれたり女に生まれたり、西洋人に生まれたり日本人に生まれたり、生まれつき頭がよかったり悪かったり、力が強かったり弱かったりすることは、当事者にとっては全くの偶然事(contingency)である。この偶然の所与、この自然のくじ運を、全く理由のない出来事として、したがって自分がそれを受けるに値しない(undeserved)出来事として受けとめないならば、そこに不正が成立するのである、と。筆者の理解によれば、この考え方のうちにロールズの全思想の核心がある。

 なぜなら、人間が様々の自然的差異をもって生まれついてくることが偶然(contingent)であるという認識は、少なくともロールズの言う意味においては、事実認識であるかに見えて実は倫理的決断であるからである。すなわち、天与の才能に居直って、それを当然の事実とうけとめるか、それともそれは当然ではない(換言すれば、自分には本来それが与えられる理由がないから自分はそれに居直れない)とうけとめるかは、単なる所与から出てくることではなく、その人の人生観に由来することがらであるからである。

 その人生観とは、つきつめて言えば、自分を一番弱い者の立場に置いてみるという決断である。なぜなら、自然のくじ運が本来不当な出来事であるという見方は、くじ運に恵まれなかった者にとってはごく自然な見方であるからである。盲目に生まれついた者、身体障害をうけて生まれついた者、不充分な知力に生まれついた者、あるいはごく些細な弱点をもってこの世に現れた者でさえ、なぜ自分たちがこのような不利益を背負わなければならないかについて、不当の意識をもたぬことはないであろう。

 すなわち、天与の諸条件の不当性(undeservedness)の意識は弱者の意識なのである。そして、この同じ不当性の意識を、有利な条件を与えられた者もまた、というよりもむしろそのような者こそ、もたねばならない、とロールズは言っているに等しいのである。

 すなわち、ある幸いの星のもとに生まれついた者が、狂気の縁に立ったニーチェが言い放ったように、なぜこれほど自分は頭がよいのか、なぜこれほど力が強いのか、なぜこれほど美しいのか、と自らに問うたならば、ニーチェの心算とはまったく逆に、これには全く理由のないことが明らかになるのであり、したがって、この理由なき事実を当然のこと(すなわち理由のあること)とうけとめるならば、それは不正であると意識しなければならないということなのである。(『倫理の復権』p36−38 改行は引用者)

 

倫理の復権―ロールズ・ソクラテス・レヴィナス

倫理の復権―ロールズ・ソクラテス・レヴィナス

 

 

 

 

ロールズ先生を一瞬で黙らせる言葉

 

 それはずばり、「そんなの仕方ないじゃん!」と言い放つこと。

 「そういうふうに生まれてしまったんだから、そんなの仕方ないじゃん!」。

 そのあとに続く言葉は、「私だって頑張っているんだからさ」というもの。

 

 たぶん、ロールズ先生が「正義論」を書いていた時の「仮想敵」の一つは、そのような素朴な反論者たち、つまり「そんなの仕方ないじゃん」派の人たちだったと思います。

 ロールズ先生は、「そんなの仕方ないじゃん」派の人たちにたいして、どうしても、「そんなの仕方なくない!」と言いたいのです。そのようなやむにやまれぬ「気持ち」が、ロールズ先生をしてあのような分厚い本を書かせたのではないかと僕は思っています。

 

 

「そんなの仕方なくない!」

 

 僕は大学生の時にロールズ先生の「格差原理」(上記で引用した部分)の思想に出会い、とても感動しました。その頃の僕は、「自分が今の自分になったのはすべて自分の責任なんだ」と半ば思っていて、その一方で、「自分は自分を選べなかったし、そもそも生まれてくること自体も選べなかった」とも思っていました。

 ただその時の僕は、ほぼほぼ「そんなの仕方ないじゃん」に傾いていたと思います。

 

 そのようなときに、「そんなの仕方なくない!」と強烈に訴えている人がいたのです。ロールズ先生です。最初は難しくてよくわかりませんでしたが(今でもあまり分かっていないかもしれませんが)、ロールズ先生のやむにやまれぬ「気持ち」はすぐに理解できました。

 大学で講義してくれた先生は「正義論」の矛盾を指摘したりしながら冷めた感じで「こんなの無理じゃね?」みたいなことを言っていましたが、僕にとっては「正義論」の実現可能性なんてどうでもよくて、そんなことよりも、とにかく「それは仕方なくない!」と強烈に訴えている人が世界にはいるんだ、ということを知っただけで充分でした。

 

 

「そんなの仕方ないじゃん」の威力

 

 ロールズ先生の「熱情」は理解できました。

 しかし、それに反して「そんなの仕方ないじゃん」という冷めた言葉は、依然として非常に強力な説得力をもっていると思います。この言葉は冷めているようでいて、実はとても現状肯定的な言葉で、しかも、何もかもプラス思考で考えよう、という発想にもとづいています。

 その言葉には、現にいま生きている人の「実感」が素直にこもっていると思います。

 なぜなら「生きる」ということは、程度の差はあっても必ずどこかで「仕方ない」という感覚を引き受けざるをえず、何かを「仕方なく」受け入れて生きるというのが人生の現実だからです。

 でも、「そんなの仕方ないじゃん」と言う言葉には、わるく言えば「居直り」の言葉、あるいは、一種の「自己責任論」の言葉に聞こえます。

 

 

「宿命論的自己責任論」

 

 普段よく使用されている「自己責任論」は、本人が努力できるのにしていない、あるいは、本人がやろうと思えばできるのにしていない、という本人の「努力意志」を問題にして、ここから自己責任を導き出そうとします。

 しかし、「そんなの仕方ないじゃん」の「自己責任論」は、本人の「努力意志」とはまったく関係のない「宿命論的自己責任論」になっています。普通の「自己責任論」よりもレイヤーの深い根源的な「自己責任論」の言葉になっているのです。

 

 「そういうふうに生まれついたのはあなたの責任ではないが、それを自らの宿命としてすべてを受け入れ、すべてを自分の責任(宿命)として生きなければならない」。

 これが宿命論的自己責任論です。

 ある種の「宿命論」をもってくることによって、本人の自己責任ではないものを本人の自己責任に強引に変換してしまうのが特徴です。

 だから、「そんなの仕方ないじゃん」の「仕方なさ」の真意は、「そういうふうに生まれついたのはあなたの責任ではない…‥しかし、それを自らの宿命として受け入れるしかない」という苦肉の二重否定の開き直りとなって表れています。

 そこから「私だって(宿命論的自己責任論を受け入れて)頑張っているんだから、あなたも私と同じように(宿命論的自己責任論を受け入れて)頑張れよ」というロジックが生まれます。

 「宿命論」は、「強者」にとっては「理由」(正当性)を、「弱者」にとっては「慰め」を与えてくれると言われています。どちらにしても、宿命論は「強者」にとって都合のいい考え方です。

 明らかに社会的に不利だと思われる立場の人であっても、宿命論的自己責任論を支えにして生きている可能性が多々あります。この場合、「弱者」が「弱者」にたいして、「私だって頑張っている…だからお前も頑張れよ」のロジックが発動されてしまいます。

 従って、宿命論的自己責任論というのは、「強者」はそれによって容易に自らを肯定し、「弱者」は更なる「弱者」を叩くことによって、自らを正当化します。このすべては「強者」にとって都合のいい世界になってしまいます。

 以上のことから、宿命論的自己責任論に支えられた「そんなの仕方ないじゃん」という素朴な反論(現状を肯定的に受け入れる考え方)は、非常に強烈な説得力をもっているわけです。

 

 

猛威を奮う「そんなの仕方ないじゃん!」派たち

 

 私たちが抱く素朴な現状肯定論、運命論的自己責任論に「メス」を入れるために奮闘なされたのがロールズ先生だったと思います。

 しかし、残念なことに「そんなの仕方ないじゃん」派の優勢は、経済のグローバル化に伴うネオリベ思想の蔓延によって今や揺るぎのないものになってしまったと思われます。

 つまり、再分配政策を訴えたとして、「…‥は?…‥財源は?…‥社会的弱者?そんなの仕方ないじゃん!」となってしまったということです。これは恐ろしいことです。

 私たちはもう一度、ロールズ先生の言っていたことに立ち返り、あらゆることにたいする「そんなの仕方ないじゃん!」に対抗しなければならないと思います。

 

広告を非表示にする