おんざまゆげ

@スラッカーの思想

『所有という神話―市場経済の倫理学』(大庭健 著)

 

所有という神話―市場経済の倫理学

所有という神話―市場経済の倫理学

 

 

 「市場経済」を倫理学的に考察した書。

  倫理学者である著者は、システム論と分析哲学を駆使した独特の倫理学を展開している人で知られているが、今回も『市場メカニズムを、自己組織システムの理論を援用しつつ解明し、経済行為を駆動している「所有」という観念の由来』を探究する。

 第一部では「市場」をシステム論的に分析。続いて第二部では「所有」の神話性を、第三部では「平等」を分析している。

 もともとバラバラに発表された論文の寄せ集めであるため統合性には若干欠けてはいるが、最終目標としての結論は「平等の正当化」である。

 著者の展開する平等論の特徴は、なんといっても「貢献主義」(能力主義)を否定するところにある。

 

 たとえば、こう思ったことはないだろうか。「私の能力、私の貢献、私の成果、私の努力…」といった場合における「の」とはいったい何をさしているのか。いったい「の」って何なのか。「の」にいかほどの根拠があるのか…。本書はこの疑問に応えてくれるのだ。

 著者は、貢献主義者の『この〈私〉は、私の固有性をもって「貢献」したのだから、私に必要なものを応分に取得する権利を持つ』という主張(貢献物語に依拠する能力主義)を次のように反論する。

 …私が私であるということは、他になきものとして再認的に同定して呼びかけてくる他者との関係において、束の間のココへと「与えられたもの」であると同時に、「課せられたもの」なのである。このように、私であるということ自体が、関係による贈与であり課題である以上、没・関係的な自己同一者として〈私〉を自己了解することは、まさしく「関係における生起の質が、項の特性として現れる」という、〈物象化〉の所産に他なるまい。そうだとすれば、「私の特性」なるものも、また近代が夢想したような意味での「私の所有」物でもありえまい。

 

 しかし著者は、『各自の〈能力/障害〉は、個人に帰属するのではなく、関係に帰属すると語ったところで、それだけでは、なんら事態の改善には繋がらない。』ともいう。

 たしかにそう思う。
 ここで展開されている議論をただちに政治・法制度に反映させることはできない。しかし、私たちがあたりまえだと思っていた「私のもの」が私のものではなかったと分かったとき、世界の見え方(神話)は一変(解体)するはずだ。ここからしか何も始まらないと思う。