おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「子どもを生むこと」についての雑記

「子ども…つくるの恐ろしい…」

 「子どもが欲しい」って当たり前?なのでしょうか…。

 僕は「子どもを生む」ということに関して、中学生の頃からずっと考えてきています。僕にとっては「子どもを生む」ということはまったくの「自然なこと」だとは思えない。なぜかというと「生まれてきてよかった」と思ったことがないからです。

 こういう世の中の価値観に逆行するようなヘンな考え方を支持してくれる人は、(僕の知る限り)ショーペンハウアーぐらいしかいなかったのですが、大学生の時に『しあわせの国 青い鳥ぱたぱた?』というドラマDVD図書館で発見し、借りて鑑賞してみたところ、なんと僕と同じことを言っている主人公がいたのです。

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  そのドラマは「家族(擬似家族)」がテーマで、主人公はOLを辞めた自分探し系のハナコ(田中裕子)という女性です。便利屋でアルバイトをしているハナコは、ある日、社長の愛人から「女性は子どもを産むものよ!」と言われる。それに対しハナコは「自分が本当に生まれてきてよかったと思えるまでは、子どもつくるの恐ろしいね」とひとりボソッと呟くのです。

 

 あと、もう一人います。

 ブラット・ピット主演の映画『セブン』で、サマーセット刑事(モーガン・フリーマン)が次のように言っているセリフです。

 「わたしにも恋人がいた。夫婦のように暮らしていて、子どもができた。もちろんずっと昔のことだ。子どもができたと知った次の朝、いつもと同じように起きて仕事に出かける用意をしているとき、思ったんだ…“恐ろしい”…ってね生まれて初めて。こう考えたんだ。こんなにひどい世界に生まれてくる子どもが、この先まともに生きていけるだろうかって。それで、子どもをおろそうといった。それから何週間もかけて説得したよ

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「子づくり」は「人間づくり」

 「子どもをつくる」という言い方じたいに、少しおぞましさを感じてしまうのは僕だけでしょうか。どうしても、「つくる」という言葉は「製作する」みたいな軽い感じがしてしまうのです。「つくる」という言葉には「雪が降ったから雪ダルマでも作ろうか!」みたいなあっけらかんとした響きがある。だから「子ども」は「つくる」ではないように思ってしまう

 「子どもをつくる」ということは、最終的には「人間をつくる」ということだと思います。ただ産んで育児をするだけではなく、躾をし教育をし、社会を生きる人間、社会を生きられる人間をつくる。

 躾けや学校教育の目的は、「社会を生きる人間」を養成すること。社会で働き、稼ぎ、税金を払い、消費し、結婚し、子どもをつくり、子どもが学校に通学し、社会を生きる人間になり、社会で働き・・・・という具合に循環していく。人間が人間になれるのは、そのような「人間をつくる」という「再生産装置」が機能しているからです。

 先ほどの例に当てはめるなら、ハナコの疑問は「社会(世界)ってそんなに良い場所か?」というもので、サマーセット刑事の危惧は、「子ども」がちゃんと「人間」になれるのか、というものでした。

  

子どもは親を、親は子どもを選べない(二つの選べなさ)

 親には子どもを生むにあたって二つの決定権があります。

 ・子どもを「つくる/つくらない」という選択。

 ・子どもができたとき「産む/産まない」という選択。

 これに対応する子どもの側の選択・決定権はありません。

 子どもには「生まれる(生まれたい)/生まれない(生まれたくない)」という選択肢がなく、圧倒的に受動的なのです。*1

 だから、子どもにとって親は選べません。生まれてきた子どもが中学生くらいになって「自分の親は何でこんな親なんだろうもっと違う金持ちの親だったらよかったのに」と思ったとしても ー もし、違う親だったらそもそも「自分」は生まれていないのだから ー これは仕方ないことなのです。

 一方、親も子どもを選べません。親が決定できるのは「つくるかどうか」「産むかどうか」だけです。一体どんな子どもが産まれてくるのかは、実際に産んでみないとわかりません。子どもが男の子か女の子か、子どもの生得的な性質(性格や容姿や能力などの生得的なものすべて)を親は決定できません。

 これは受精にまつわるランダム効果があるからです。卵子を一つに固定して考えると、それに対して精子数は約4億です。理論上、4億種類の人格の可能性が考えられ、その中の一つが現実化します。

 精子に背番号(1番~4億番)を付けるとすると、たまたま5番の精子卵子に飛び込んだから「あなた」が生まれてきたのであって、もし89番の精子が先に卵子に飛び込んでいたら「あなた」は生まれなかったのです。(今ごろ89番の精子によって生まれた人格が「あなた」になりかわって生きていたでしょう。)

 しかも、「いつ」セックスしたかによっても変わってきます。まったく同じ親(男と女)であっても、どのタイミングで作られたどの精子が何回目のセックスで受精したかによって、どんな子どもが生まれてくるかが違ってくるのです。

 

 以上をまとめると、「子どもは親を選べない」というときの選べなさは、必然性の選べなさであり、「親は子どもを選べない」というときの選べなさは、偶然性の選べなさということになります。また、親には子どもをつくるかどうかの選択肢がありますが、子どもの方は生まれるかどうかの選択肢はありません。この点は圧倒的に非対称です。

 だから、親による「子どもをつくる」という選択は「どんな子どもが生まれてくるかわからない」という偶然的な選べなさを選ぶ、ということになります。

 

「生んでくれてありがとう」の意味

  子どもが親に「生んでくれてありがとう」と感謝の意を伝えることがあります。(主に結婚式のようなシチュエーションで)。

 「生んでくれてありがとう」という意味は、「私を生んでくれてありがとう」ということです。あるいは「私を選んでくれてありがとう」と言い換えてもいいと思います。しかし、親の方はカタログから何かを選ぶようにしてメニューの中からあなたを選んで生んだわけではない。

 だから、子どもからの「私を生んでくれてありがとう」という感謝の意に親が正直に応えるのならば、「子どもをつくって産んでみたらたまたまあなただったというだけで、別にあなたを選んで産んだわけではないのです。ただあなたが生まれてくるきっかけをつくっただけです」と言わなければならないでしょう。

 しかし、子どもにとって親は必然的な存在なので、自分がこの世に誕生した理由を考えると、きっかけをつくってくれた親に感謝せざるをえません。

 もっと別様に解釈すれば、「私を選んでくれてありがとう」という意味は、どんな子どもが生まれてくるかわからなかったにもかかわらず、私を全面的に承認(肯定)してくれてありがとう、という意味として受け取ることができると思います。*2

  

偶然的で必然的な自己

  なぜ「自分」は生まれたのか

 自分が生まれてきた理由(原因)は偶然としかいいようがありません。あえて因果関係を遡及すれば、親がセックスをしたからと言えるかもしれませんが、しかし前述したようにそこには受精のランダム効果があったりするので、やはり偶然としか説明できません。だから結局、この世に生まれてくることを自分はまったく選べない。これは偶然性の選べなさです。

  自分はどうしてこの自分なのか

 自分は自分を選べません。もし選ぶことができるなら、もっと頭のいい・運動神経のいい・かっこいい自分がよかったのですが、こういうことはまったく選べない。人種も性別も生まれる場所も時代も選べない。だから、自分は自分を選べなかった。自分は、この自分として生まれてくる以外に、自分ではないのです。(自分は自分でしかない)。これは必然性としての選べなさです。

 

Only Oneの残酷さ

  自分は自分を選べず、自分は自分でしかない、という必然性としての選べなさは、見方を変えると、自分の替わりは誰もいないということです。だから、自分の唯一性(かけがえのなさ)と自分は自分を選べない(自分は自分でしかない)ということは同根なのです。

 かけがえのなさは尊いことだと思いますが、人生の生きづらさのほとんどはそのことが原因で起こっています。実はOnly Oneというのは、とてつもなく残酷なのです。

 かけがえのなさとしてのOnly Oneというのは、比較不可能・取り替え不可能な存在という意味ですが、社会を生きていて比較不可能・取り替え不可能な存在でいられる場所というのは、いったいどこにあるのでしょうか。

 まず、学校は比較されまくるし、会社も比較されまくりで取り替え可能な存在として扱われます。社会的役割はすべて取り替え可能ですし、恋愛も結婚も他者と比較されて判断されます。だから、人それぞれが「世界に一つだけの花」だとしても、誰からも気づかれない、誰にも発見されない可能性が高いのです。これは恐ろしいことだと思います。

 そもそもOnly Oneは特別でもなく、すばらしくもない。はっきり言って不幸の源です。「NO.1」になれない落ちこぼれは「Only oneがあるさ!」といって慰める(ウソをつく⇒抜け道を用意する)。これは本来の意味でのOnly oneではなく「偽善的Only one」です。

 NO.1に対してOnly oneを対置し、NO.1が無理だとわかるとそれよりも実はOnly oneの方に価値がある(特別である)と開き直り、「もともと特別なOnly one」と言ったりする。しかし、Only Oneとしていられる場所、Only Oneとして見てくれる人がほとんどいないのです。

 

 

「出会い」の可能性(一発逆転)

 もし、Only Oneが輝きを放つときがあるとしたら、それは「この人に出会えてよかった」と思えたときだけです。すべての人はかけがえのない存在でOnly Oneなのだとしたら、どんな人に出会ったとしてもそれは「奇跡」として体験されるはずです。しかし、奇跡的な出会いというのは人生のうちに数回あればいい方だと思います。

 つまり、「この人に出会えてよかった」と思えるような奇跡的な出会いの体験ができたときにだけ「世界に一つだけの花」としてのOnly Oneが発見されたということです。それ以外ではOnly Oneはずっと見過ごされる運命です。

 しかし、Only One的な出会いには、とてつもない可能性があります。極論的に言えば、1億人の人に裏切られ続けても、たった一人の信頼できる人とOnly One的な出会いができれば、今までのすべてを帳消しにできる破壊力をもっている。たとえ人生が地獄のような日々であっても、ちょっとした偶然によって奇跡のOnly One的な出会いがあれば、一発逆転式に「生まれてきてよかった」と思えるかもしれないのです。(ただし、出会いの可能性を信じつづけるモチベーションと、愛別離苦に耐えうる精神力があればの話ですが

 

 以上、結論としては、「生まれてきてよかった→子どもを生んでもいい」と思えるためには、「この人に出会えてよかった」と思えるような奇跡のOnly One的な出会いがあれば可能になると思われます。

 

*1: もし、「生まれてきた」という不条理(被投性)を根本的に解消したいのであれば、生まれてきた各人に「自死の権利」を認めるしかない。そのぐらいのことをしなければならないほどに「生まれてきた」という不条理は実存的に問題なのだ。

 成人(18歳とか)になったら無条件の「自死の権利」を与え「死にたかったらいつでも死ねる」という選択肢を与える。そうすれば「生まれてきたこと」を事後的にキャンセルすることが可能になり、生まれる/生まれないの「選べなさ」というアンフェアは解消される。

 「私は気づいたら勝手に生まれてきていたが、成人になった今、生まれない(生まれなかった)ことを選択します。」

 この宣言(自己選択)を実質的なものにするには、自死する選択を認めることしかないだろう。

 18歳になり、成人式に行くと「成人おめでとうございます」と書かれた紙が渡され、そこには次のようなことも書かれてある。

  以下の二つのうち一つを選択してください。

  ・「生まれる(生まれた)=生きる」ことを選択します。

  ・「生まれない(生まれなかった)=生きない」ことを選択します。

 もし、後者を選択した人には、安楽に死ねる睡眠薬のようなものが渡される。

 上記の想定が「非現実的」になるのは、それだけ「生まれてきた」という被投性が不条理だからである。 

*2: あと、子どもが親に「生んでくれてありがとう」と言えるためには、子ども自身が「生まれてきてよかった」と感じていなければならない。ということは、子どもから「生んでくれてありがとう」と言われるということは、親はこれをもって「子育て成功」ということになるのかもしれない。子育てはこの地点を目指すべきなのだろう。