おんざまゆげ

@スラッカーの思想

唯川恵 『刹那に似てせつなく』

 

刹那に似てせつなく (光文社文庫)

刹那に似てせつなく (光文社文庫)

 

 

 

 42歳の並木響子は、復讐を遂げた。名前も年齢も偽り、掃除婦として潜り込んだ会社の副社長室で、男を刺し殺したのだ。3年前、愛娘・可菜を死に追いやった男だった。返り血を浴び、立ち尽くす響子。突如、その手を引き、現場から連れ去る若い女が!? 

 19歳の道田ユミだった。彼女もまた、殺人を犯していた―。恋愛小説の名手が極限の逃亡劇を描く、傑作クライム・ロマン。(「BOOK」データベースより)

 

 

この小説はすばらしいです。

特に「切なさ」が好きな人にはおすすめの1冊ですね。

 

まず、タイトルが秀逸!(それだけでただ切ない…)

 

上の紹介文でも書いてある通り、ストーリーは二人の女性の「逃亡劇」です。*1

湊かなえ的な復讐劇をあえてやらず、逃亡劇(しかも女性二人の)を描いているところが面白い点です。

 

 

同じような境遇に置かれた者(女性二人)の類友的な刹那的友情。

一瞬の奇跡的かみ合いによって生まれる絆。

これは小説でしか味わえない醍醐味です。

 

ストーリーにも嵌まりましたが、科白にもグッとくるものがありました。唯川恵さんは初めてだったので、これからいろいろ読みたいと思いました。

 

 

以下は、印象に残ったシーン、科白などを引用。

 

●「逃亡劇」は今までの日常空間を一気に非日常にしていまう力がある。逃亡者の非日常的視点からふだんの日常世界を観た時、そこには何が見えるのか…。*2

 

 すでにお昼近くになっていて、元町はもう賑わっていた。たくさんの人々がのんびりと歩いている。みんな善良そうに見えた。実際、彼らは普段は善良に生きているのだろう。ゴミはきちんと分別し、朝刊と夕刊を取り、税金も滞ることなく払い、悲惨な事件には涙を流す。

 けれども。

 不意に、響子は胸が塞がれるような息苦しさを感じた。この善良な生きものは、いつだって安全な枠の中にいる。そうして不幸にも枠からはずれた者に対しては態度を豹変させ、同情でもなく憐憫でもなく、残酷なほどに物見高い冷ややかな目を向ける。

 

 

 

●響子は死んでしまった可菜の代わりにユミを「守ってあげたい」と思った。ユミの無防備な子供のような寝顔を見ながら…。

 

 ユミが、街を歩く同い年くらいの女の子とはまったく異なった人生を歩んで来たことはわかる。想像が当たって欲しくはないが、たぶん、まともな生活をして来たわけではないだろう。それでもユミはまだ汚れ切ってはいない。時折り見せる笑顔や、髪を払う仕草に、少女のような無垢が垣間見える。

 この子を逃してやりたい。

 その時、響子は強く思った。この子に生きて欲しい。自分の代わりに、可菜の代わりに、新しい人生を手にして欲しい。響子はしばらく、ユミの寝顔を見つめ続けた。

  

 

 

●ユミは人を信じることができない。というか、そもそも人に何ら期待をしていない。人生にも。しかし、響子に対してはちょっと違う感情を抱きかけていた。逃走資金を作るために出かけていった響子は、本当に自分のところに戻ってくるのだろうか…。よく考えると、響子が戻ってる理由、動機、根拠はゼロである。人を信じられなかったユミが、響子を信じようと思って逡巡する場面。

 

 

 もしかしたら、と思った。もしたしたら響子はもう帰って来ないのではないか。冷静に考えても、金が用意できるとは思えなかった。もし、用意できたとしたら尚更に、どうしてわざわざ帰って来る必要があるだろう。ひとりで逃げればいいのだ。…金さえあれば、ユミより容易く逃げられるだろう。

 否定の気持ちはある。まさか、響子に限ってそんなことをするはずがない。しかし…人の心がどんなに脆弱なものか、今までだってイヤというほど見て来た。お金の前で人は自尊心をなくし平伏する。狡いのではなく、臆病なのだ。それは自分を守ろうとする一種の本能なのかもしれない。だったらそのことをどうして責められるだろう。自分がその立場だったら、必ずそうする。そうすることに、きっと何の抵抗もない。

 ユミは再び布団をかぶった。目を閉じ、呼吸を整える。ずっとひとりで生きて来た。これからだってひとりで生きてゆく。響子とは点としての繋がりを持っただけで、重なり合ったわけじゃない。点はいつも刹那でしかない。それだけのことだ。それ以上のことは、何も考えない。

 

 

 

●ユミの堕落論的人生観を吐露した場面

 

 

 あたし、死ぬんだと思った。ううん、その時にあたしは死んだんだ。

 もうあたしはこの世にいない。そう思った時から、あたしは変わった。もう、何もかもどうでもいいってね。絶望っていうのは、こういうことなんだと初めてわかったわ。

 どうでもいいて、すごく楽。あたしは、電柱の陰に吐き出された反吐や、道端に転がっている車に轢き殺された猫と同じなんだ。堕ちるところまで堕ちれば、怖いとか悲しいなんてことも感じなくなった。ペニスを舐めて、足を開いて、アハアハ言って、お金を貰うの。稼ぎはよかったわ。若いしね。…

 

 

 

 

何もしらないっていうのは、すべてを知っていることと同じくらい、気持ちが通じ合う

 

「あのおばさんは、何故、藤森祐介という男を殺したんだ。」

「知らない。聞いてもないしね。おばさんも、あたしの事情は何も知らない。でも、それでいいんだ。聞いてどうなるもんでもないだろ。何もしらないっていうのは、すべてを知っていることと同じくらい、気持ちが通じ合うような気がしてるんだ」(229)

  

 

 

 

思い出はいつも凶器を隠し持っている。それに浸れば、必ず失望という刃をつきつけられる。

 

 鴻野(こうの)との十五年ぶりの再開に、動揺がないわけではなかった。それは胸の奥にささやかな甘さをもたらした。しかし響子は、その甘さに酔うつもりはなかった。思い出はいつも凶器を隠し持っている。それに浸れば、必ず失望という刃をつきつけられる。…

 

 

 

 

彼を愛しているという思いばかりではなく、彼の愛が欲しかった…

 

 あの頃、鴻野のために食事を作ることが響子の幸福のひとつだった。彼の下着を洗い、彼の背中を流し、そうやって鴻野の世話をやくことをままごとのように楽しんだ。しかし、それは決して無垢な気持ちではなかったと、今の響子にはわかる。かいがいしい愛人であることで、妻の存在を脅かし、鴻野を取り込もうという計算があった。彼に見せるすべての優しさは、彼を愛しているという思いばかりではなく、彼の愛が欲しかったからだ。

 

 

 

 

若さという魔法がとけた時、…人は…初めて魂の存在を知る。

そして大抵、その時は手遅れなのだ。

哀しいと思う。

哀しみはいつも答えを持たない。

神は何て残酷な罰を、男と女に与えたのだろう。

 

… 鴻野が近付いて来る。響子は目を閉じようとはしない。彼の老いが滲み始めた身体と、かつての膨らみが消えた自分の胸とが、触れ合う瞬間を見つめていたかった。若さという魔法がとけた時、人は肉体が持つ儚さに愕然としながらも、肉の削げおちた粗末な太ももや、たるんだ皮膚の奥底に、初めて魂の存在を知る。そして大抵、その時は手遅れなのだ。哀しいと思う。哀しみはいつも答えを持たない。神は何て残酷な罰を、男と女に与えたのだろう。

 

 

 

 

快感は痛みに似ていた。痛みは切なさを呼び、…吐息と唾液が言葉よりも濃密にふたりを行き交う

なぜ、と叫ぶ自分がいた。なぜ、こうなったのだろう。

… どんな刹那が、人生のすべてを決定したのだ。…

… 選んだのか、選ばれたのか。

… すべてはなぜで始まり、そして、終わりも同じだった。

 

 快感は痛みに似ていた。痛みは切なさを呼び、鴻野の背に回した指に力がこもる。吐息と唾液が言葉よりも濃密にふたりを行き交う。足の付け根から涙に似たしずくが流れ落ちるのを感じながら、響子は激しくのぼりつめてゆく。なぜ、と叫ぶ自分がいた。なぜ、こうなったのだろう。なぜ、鴻野と出会い、別れ、可菜は死に、私は人を殺したのだ。どんな刹那が、人生のすべてを決定したのだ。選んだのか、選ばれたのか。わからない。なぜなのだ。

 すべてはなぜで始まり、そして、終わりも同じだった。

 可菜、可菜、

 響子はうわ言のようにその名を胸の中で呟き続けた。

 

 

 

 

 

*1: これだけでも「百合メガネ」を持っている方は、妄想スイッチONで楽しめる! 正確に言えば、逃亡者の女性二人の関係は「百合」ではないと思われますが、血のつながっていない擬似的な親子関係(母と娘)の親子愛のようになっているので、これはもう「百合」に含めてもいいでしょう。(僕の百合メガネでは百合に見えます!)

*2:「逃亡」は「非日常」であるとずっと思っていましたが、菊地直子氏や福田和子氏の「逃亡生活」から分かったことは、逃亡が非日常なのは最初の1~2年のことであって、逃亡生活に慣れてしまうとすぐに「日常」に戻ってしまうということです。しかし、逮捕されれば、これはこれでまた「非日常」が体験できるのですが…