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おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"が綴る日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想。

小説『夜のピクニック』(恩田陸 著)/「大人の罪」を描かない「欺瞞的青春小説」

 

 高校生活最後を飾るイベント「歩行祭」。それは全校生徒が夜を徹して80キロ歩き通すという、北高の伝統行事だった。甲田貴子は密かな誓いを胸に抱いて、歩行祭にのぞんだ。

 

 三年間、誰にも言えなかった秘密を精算するためにーー。学校生活の思い出や卒業の夢など語らいつつ、親友たちと歩きながらも、貴子だけは、小さな賭けに胸を焦がしていた。

 

 本屋大賞を受賞した永遠の青春小説。(2004年刊)

 

 

夜のピクニック (新潮文庫)

夜のピクニック (新潮文庫)

 

 

 

本屋大賞を受賞した名作

 

 恩田陸さんの青春小説。

 第二回の本屋大賞を受賞しました。

 

 帯には「永遠普遍の青春小説」と宣伝されており、2006年には映画化もされています。(主演は多部未華子さん)

 

 評判や評価が高く、「名作」と言われている小説なのですが、僕の評価は「最悪」に近いです。

 文庫で447頁の長編で、一応最後まで読んだのですが、まったく感動できませんでした。

 (たぶん、僕の感受性の問題なのだと思います。)

 

 

 

「アクロバティックな不倫」から生まれた奇跡の異母きょうだいの邂逅

 

 主人公は、西脇融(にしわき とおる)と甲田貴子(こうだ たかこ)。

 小説は主に二人の視点で描かれていきます。

 

 融と貴子は高校3年生で同じクラス。

 実は、二人は異母きょうだいです。

 二人が「きょうだい」というのがこの小説の最大ポイントになります。

 

「…貴子は、西脇融の父親、西脇恒(わたる)が浮気をした際に出来た子供」です。

 貴子の母は、甲田聡子(さとこ)という女性。

 聡子は恒の愛人だったわけですね。

 

 ということはつまり、融と貴子の父親である恒は、結婚した妻と、愛人である聡子の二人の女性を同時期に孕ませるというアクロバティックな不倫を犯したわけです。

 

 「…聡子は恒に養育費を要求しなかったし、貴子を産む代わりに彼とは一切関わりを絶った…」

 聡子は結婚を迫るわけでもなく、かといって養育費を請求するわけでもなく、シングルマザーになって一人で貴子を育てる選択をしたようです。

 

 その後、融が中学生のときに恒は胃癌で亡くなり、融の家庭もシングルマザーとなります。

 

 で、ここですごい事が起きます。

 恒の不倫アクロバットもさることながら、実はもう一つの奇跡的な事態が起こるのです。

 恒の「二人同時プレイ」で誕生した二人の子供(融と貴子)が、何と同じ高校に入学するという奇跡が起きる!

 二人はお互いが異母きょうだいであるということを知らず、何と恋をしてしまう…という展開になったら面白いですよね!(韓流的)

 しかし、そんなことは起きません…。

 

 

 

「悪女の甲田聡子」が引き起こした「葬儀ニアミス事件!」

 

 実は二人は、恒の葬式のときに会っているので、お互い面が割れています。

 ということは、またもやすごいことが起こっている!

 何と恐ろしいことに、元愛人の聡子は死んだ恒との間にできた娘、貴子を連れ立って葬儀に参列しているのです。これは相当の「悪女」ではないでしょうか。恒の妻や融がいることを知りながら、いけしゃあしゃあと子供を連れて参列するなんて!

 どういう神経をしてるんでしょうか。

 

 悪女の聡子が引き起こした信じられない行動(「葬儀ニアミス事件!」)によって、融と貴子の関係は険悪な「冷戦ムード」に突入してしまうのです。

 

 

貴子はどうして聡子(母親)に「反発」しないのか

 

 貴子は当時のことを次のように振り返っています。 

 

 …葬儀で、こちらを恐ろしい目で睨みつけていた少年(融)の顔は、今でも脳裏に焼きついている。母親の方は、ずっと二人を無視し続けていた。遺族に頭を下げた聡子にも、知らん振りをしていた。貴子は、少年から放射された憎しみに戸惑い、怒りすら感じた。融と貴子が同じ学年であるということも、彼らには耐えがたいことだったようだ。

 

 あとで冷静になって考えてみれば、彼らの憎しみも理解できないことはないが、それでも貴子には何の罪もない。あたしまでもがあんなふうに見られる理由はない、と自分に言い聞かせたものの、少年の憎しみは、貴子の中に残り続けたのだ。…

 

 同じ高校に入学したと知った時は憂鬱だったが、二年間は別のクラスだったし、そのうち彼の存在も気にならなくなった。融は貴子のことを完全に無視していたから、二人の接点は全くなかったのである。

 ところが、三年になって、同じクラスになってしまった。」(*1

 

 

 この部分、何か違和感ありまくりです。

 どう考えても、貴子の認識は間違っている…。

 貴子は高校三年生という設定ですが、高校三年生だったとしても、聡子の行動(不倫と葬儀ニアミス事件)に無理があった(非難されても仕方ない)ということぐらいは分かるはずなのです。(中学生でも分かるのではないか)

 しかし、貴子は自分の母親に対して疑問なり反発なり怒りなりをまったく持たない。

 貴子自身に罪は無いのはその通りですが、母親の聡子はそうではない。

 聡子には明らかに罪があるのです。

 

 

「聡子の罪」と厚顔無恥な責任転嫁

 

 しかし、聡子は信じられないことを述べています。

 貴子の友達(美和子と杏奈)に対して、聡子は次のように言うのです。

 

…『あの子(貴子)は多分、西脇融に対して罪の意識を持っている』…

 

『それは本来自分が持つべきもの、背負うべきもので、貴子が持ついわれは全くない。だけど、あの子は罪の意識を持つだろう、そういう子だ。

 

 あの子は誰にもそういうことは言わないだろうけど、貴子のそういう気持ちを、あなたたち(美和子と杏奈)だけは分かっていてくれないか、それはあたしがあなたたちに責任転嫁しているだけで、自分がすべきつらい仕事をあなたたちに押し付けていると承知している。…

 

…あの子の気持ちを分かっていてほしい』…

 

『どうか、貴子をよろしくお願いします』…(*2

 

 

 聡子は自分に罪があることを意識していながら、しかもその自分の罪を貴子が背負ってしまっていると分かっていながら、自分の罪にはまったく向き合っていません。

 

 もし、自分の罪(不倫をしたこと、子供を連れて葬儀に参列したこと)を自覚しているのなら、まずは貴子にその旨(謝罪の意)を述べるべきなのに、貴子ではなくその友達に話してしまっている。

 

 しかも、聡子はそのすべてを「責任転嫁」していることまでも自覚しているのです。

 自分に罪があることを自覚し、自分の罪を娘が背負ってしまっていることも知りながら、自分はその罪から逃れようとしている。このすべてを聡子は自覚しているのです。なのに、娘とは向き合おうとせず、友達に「娘をよろしく…」などと言って丸投げしてしまう…。

 

 

異母きょうだいの「和解」と「ありえない提案」

 

 歩行祭のラスト付近で、ついに融と貴子は「和解」します。

 そして、貴子は融に次のように言うのです。

 「ねえ、今度、うちに遊びにおいでよ」

 貴子は、「葬儀ニアミス事件」の真の和解をしたいと考え、事件の主犯である聡子と融が会うことをもって「真の和解」と考えたのでしょう。

 

 もちろん、融は自分の母親のことを考える。

 夫の不倫相手である聡子と会うということになれば、融の母は反対するはずでしょう。常識的に考えれば…。

 しかし、融は次のように考えました。

 

(母親は)「嫌がるかもしれないけど、許さない、という感じではないような気がする。母が許さないのは、むしろ父のことなのではないか。一切世話にならない、二度と関わらない、という約束を守った甲田親子よりは、自分を裏切った夫のほうに対して、今でも割り切れない感情が残っているのではないか。

 「行くよ」

 融はそう答えていた。」

 

 

 

 たぶん、融の推理は間違っています。

 融の母はむしろ不倫相手の聡子を憎んでいるはずなのです。(あるいは夫も聡子も両方ともに憎んでいるかもしれない)

 融は高校生だから仕方ないのかもしれませんが、「聡子の罪」はここでもスルーされてしまっています。

 

 

「大人の罪」を描かない「欺瞞的青春小説」の罪

 

 この小説においては、聡子はまったく断罪されません。

 恒の罪は「病死」というかたちでメタフォリカルに断罪されていますが、聡子は誰からも裁かれません。裁く視点すら与えられていない。

 

 本来なら、娘である貴子からの反発や反抗によって、親子の葛藤というかたちで聡子の罪があらわになる(裁かれる視点が生まれる)のですが、貴子は母である聡子に対して1ミリも反発や怒りを持たないのです。

 

 だからこの小説では、大人たちの犯した罪は断罪されず、汚れた大人の世界(人間の罪)がまったく描かれないのです。歩行祭に参加している高校生(イノセントな子供?)たちは、これから「社会(汚れた大人の世界=公界=苦界)」に出ていくわけですが、この小説ではそのような現実を描くことはなく、イノセントな子供たちが繰り広げる「きれいごと」(ウソ)だけをさも「青春」然として書いてしまっています。

 

 以上をまとめると、この小説は欺瞞的青春小説です。

 汚いものを切り離し、きれいなものだけを読者に見せる。

 「青春」ってそんなにきれいなんでしょうか…。

 そんなウソのきれいな青春なんて面白いのでしょうか…。

 

 もっと言えば次のようになります。

 小説では「大人の罪」は描かれない。(スルーされている)

 ということは、「大人」も「大人の世界」も存在しないに等しいのです。

 歩行祭に参加している高校生たちは、異世界の子供たちということになり、「大人」の存在しない子供たちなんて別に「人間」でなくてもよいということになってしまう。

 なのになぜか、歩行祭の空間では人間の倫理や感情を採用し、友情だの恋愛だのと言っている。

 このダブルスタンダードこそが欺瞞的なのです。

 

 

*1:カッコは筆者

*2:カッコは著者

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