おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「個性」についての雑記

 「個性」という言葉はいろんな意味で使用されています。たとえば「個性を伸ばす教育」とか「個性的な人」とか「障害は個性だ」*1など。

 あるいは、金子みすずさんの有名な詩『私と小鳥と鈴と』の「みんなちがってみんないい」とか『世界に一つだけの花』の「もともと特別なOnly one」というのも「個性」を称揚している歌であると思います。

 僕が疑問に思うのは、どうして「個性」という言葉には肯定的価値が付与されているのか、ということです。

 人間は一人ひとりみんな違っている。これは単なるあたりまえの根源的事実です。事実は事実であって価値ではない。

 ならば、どうして「みんな違っている」ことが「よい」ことなのか、「特別」なのか

 以下ではその辺のことを明らかにしたいと思います。

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「個性」というイデオロギー

 人それぞれの違いや差異が即ち「個性」と呼ばれるかというと、必ずしもそうではありません。実は「個性」という言葉は社会的に価値化されイデオロギー化された言葉になっています。

 イデオロギー化された「個性」の意味は、その人がもっている何らかの特性(他人と異なった特別な性質)のことを言います。単なる他人との違いや差異のことではなく、その人に特有な特別な性質や能力のことを学校教育や社会では「個性」と呼んでいます。

 では、その人に特有な特別な「性質」や「能力」とは何かと考えると、「勉強ができる」とか「スポーツができる」とか「仕事ができる」とかそういう能力のことです。

 つまり、学校教育で言うところの「個性」とは、社会にとって都合のよい性質(社会適応的な性質)や社会的に評価される性質だけのことを言い、社会にとって都合の悪い性質は「個性」とは言わず「普通ではない」とか「変だ」とか、「劣っている」とか「異常」という言葉を使うのです。

 たとえば、とてつもなく足が遅い生徒がいたとして、この生徒の足の遅さを「個性」とは言いません。逆に、尋常ではない俊足の生徒がいたら「俊足は君の個性だ。その個性を伸ばしてオリンピックを目指そう」などと言ったりするのです。

 従って「個性」という言葉は、単なる価値中立的な言葉ではなく、社会的に評価される性質や社会にとって都合のいい性質だけを称揚する社会肯定的なイデオロギーとして使用されているのです。

 

 

社会的価値で判断される「個性」

 「個性」イデオロギーは学校教育だけではなく、社会の至ることころに浸透しています。社会では、年齢、性別、能力、性格、職業、身体的特徴など…人によってそれぞれ違う属性や性質を社会的価値(モノサシ)によって評価し、測定結果が望ましいと判断されたものだけをその人の「個性」と呼びます。

 たとえば、年齢。年齢というのは単なる一つの指標である以上に、その人がいったい何歳なのかということはただそれだけで社会的な価値や意味を持ってしまうやっかいな数字です。

 社会にはいろんな年齢の人がいますが、同じ60歳でも若く見える人と老けて見える人がいます。人それぞれ違いがあってあたりまえなのですが、ここに「若さ」という価値が入り込むと、前者の若く見える人は社会的に望ましいと判断され、後者の老けて見える人はマイナスの価値と判断されます。

 従って、見た目が年齢より若く見えることはその人にとって「個性」と呼ぶべき一つの魅力を形成することになります。しかし、見た目が年齢より老けて見えることは「個性」とは呼ばれず、何の魅力も形成しない。負の評価を付けられるだけです。

 次に、性別。男か女か自体に何か特別な価値が内在的に備わっているわけではない。いろんな女性、男性がいます。しかし、そこに「男らしさ」や「女らしさ」という社会的につくられたジェンダー的な価値基準が生まれ、この人は「男らしい」とか、この人は「女らしい」というふうに評価されるようになります。「らしさ」が高く評価されると、その人にとって男らしさや女らしさは一つの個性的魅力となり、逆に「らしくない」と判断されるとマイナスの評価が与えられるのです。

 

 

社会では「みんなちがってみんないい」わけではない

 以上のように、私たちが何気なく使っている「個性」という言葉には、暗黙のうちに社会肯定的なイデオロギーが忍び込んでしまっています。つまり「個性」言説は、ある人が社会に役立つか(社会的有用性)、ある人を個人的に好きか嫌いか(個人的価値観)などによって、人と違っているところ(差異性)自体に良い悪いのレッテルを貼り、よい部分だけに「個性」という名の称号を与えるのです。

 ここで重要なのは、「個性」という言葉は人それぞれの違いを無条件に肯定する言葉ではなく、むしろその逆で、社会的な価値による選別化を行った後、望ましい性質だけを「個性」と呼ぶところです。

 「個性」という言葉が言っているのは、人はみんな違っているけど「みんなちがってみんないい」わけではないということです。「ちがっていていい人」と「ちがっていてダメな人」という二種類を選別し、前者だけが「個性」で後者は単に「ダメな人」なのです。

 

 

「個性」の沿革  *2

 「個性」という言葉はイデオロギー化されている。それなら「個性」という言葉が生まれた歴史を遡り、そもそもの意味はどうだったのか。

 以下では「個性」の歴史的意味について考えてみたいと思います。

  

individual」=「個人」という新語

 日本には明治以前には「individual」に対応する言葉はありませんでした。1884年頃から日本では「individual」に対応する言葉として「個人」という言葉を新語として作り出したようです。

 しかし、その「個人」という新語はミスリードでした。なぜかというと、英語のindividualは人間についても(an individual person)、ものについても(an individual room)用いられるからです。「individual」=「個人」ということになると、「人間」だけに限定された意味になっています。

  

語源は「in-dividuum」(分割されざるもの)

 「individual」という言葉はラテン語の「individuum」からきています。語源は「in-dividuum」(分割されざるもの)という意味です。ギリシア人が「a-tomon」(英語のatom)と呼んだものをローマ人は同じ意味として「in-dividuum」と呼びました。

 従って、次のような流れになります。

 「個人」→「individual」→「individuum」→「atomon」。

 ここで重要なのは、atomon又はindividuumという言葉は、この段階では「人間」について使用される言葉ではなく、単に「分割されざるもの」という意味だけを持っていたことです。

 

「人間」に適用された「atomon

 3世紀になってポルピュリオスは『アリストテレス範疇論入門』の中で「atomon」という言葉を「ソクラテス」とか「この人」とか「このもの」といった固有の存在と性質をもつもの(同一のものが全く無い)という意味で使用しました。

 ここで初めて「atomon」が「人間」に適用されたわけです。

 ポルピュリオスによって「atomon」概念は「不可分性」という意味から「個性」(個別性)という意味に変化したと言われています。

  

individuum」の三つの意味

 ボエチウスは「individuum」という概念には以下の三つの意味があると述べました。

 1.絶対に分割されえないもの(基本単位や「魂」など)

 2.ダイヤモンドのように堅さゆえに分割できないもの

 3.全く同じものがないもの(ソクラテスその人、固有性や唯一性)

 

すべての存在物は「個性」を持っている

 ボエチウスが提唱した三つのうち、1や2の「不可分性」という意味は次第に忘れられていき、14世紀の普遍論争などによって「個性(個別性)」の概念は洗練されました。

 以上の変遷をまとめると、次のように説明できます。

 普遍的概念で表現される事柄とは違い、現実の世界に実存するすべてのものは「個(別)性」を有しているということであり、現実にABが存在するのであれば、これらは同一のものではなく、当然、それぞれの存在論的な個(別)性を有しているということである。人間について言えば、すべての人びとは(普遍的概念として)同じ「人間」であるとしても、個々の人間は異なるものであるから、individuumとしての個々人は同じではないということである。

 

 しかし、ここには一つの注意すべき点がある。それは、「個(別)性」(individualitas)という要素又はその特徴は、けっして人間に限ったものではなく、すべての現に存在するものについて当てはまるということである(動物、植物、無機物のすべてについても)。

 

 従って個性を有するのは人間だけの特徴ではないということになる。 この点からみると、英語のindividualを日本語で「個人」と訳したことの不都合さが、はっきり表されてくる「個人」という新語は、つくられた時から人間だけに使える言葉であるが、individualindividuumはそのような限定はなかった。29-30)*3

  

 「個性」概念の歴史的変遷から分かった重要なことは、そもそも「個性」という言葉は「人間」だけに使用されていた言葉ではなく、最初は無機物(モノ)にこそ使用されていたということです。次に、「ソクラテス」などのような固有名としての「個体」(個人)をも含めて「個性」という言葉を使用するようになった。

 実は「個性」という概念は「人間」だけに与えられた言葉ではなく、あらゆる存在物(モノ)や動物にも適用可能な概念なのです。つまり、僕が持っているスマホやパソコンにも個性はあるし、飼っている猫にも個性はある。その辺の道端に転がっている石ころや棒切れにだって個性はある。あらゆる存在物は個物として認識できる限りにおいて個性を宿していると考えられるわけです。

 

 

個性の存在論的な二つの意味  *4

 「存在」には二つの位相があると言われています。一つは「事実存在」(~がある)。もう一つは「本質存在」(~である)。人間存在について言うなら前者を「実存」と呼び、特にサルトルは「実存は本質に先立つ」と言いました。

 個性についてもこの二つの位相が当てはまります。

 存在する一切のものが持っている個別性としての個性が「事実存在」(~がある)です。そして、他なるものとの比較によって浮き彫りになる差異性としての性質的な個性に対応するのが「本質存在」(~である)です。

 「すべての存在物には個性がある」と言う場合の個性の位相は「事実存在」(~がある)に対応した個性のことです。たとえ同じように見えるものであっても(本質存在が分からなくても)、一つ二つ(あるいはABC)と数的にカウントできる限りは必ず個別性としての個性(事実存在)を言うことができます。

 たとえば、出荷直前の工業製品(テレビやパソコンなど)には個別性としての個性(事実存在)はありますが、製品の品質がほぼ同じと考えると、性質的な個性(本質存在)はほとんど無いと考えられます。そのように製造しないと品質にバラツキが生じてしまうからです。このように本質存在(差異的な個性)が無くても、「このテレビ」とか「このパソコン」というふうに数的に「この〜」と指し示すことができる存在物には必ず個別性としての個性(事実存在)を言うことができるのです。

  

 

存在の「唯一性」

 モノのような無機物ではなく植物や動物や人間などのような有機的な生命体には、何らかの個体差としての差異性が存在します。人間の場合だったら身体や人格性の違いによって比較的その個体差の違いや差異性は見分けやすいと思いますが、この個体差としての差異や違いが性質的な個性(本質存在)を形成します。

 個別性としての個性(事実存在)と差異性としての個性(本質存在)を併せ持つことで生まれるのが「唯一性」の存在です。唯一性とは、後にも先にも存在しない世界にたった一つだけ、ということです。だから、それが無くなったらもう存在はありえない。故に唯一性を持つ存在は取り替え不可能・比較不可能な存在ということになります。

 人間の場合で言うなら「その人はその人しかいない」という唯一無二さ(かけがえのなさ)のことです。その人が死んでしまったらもはや二度と会うことができない、という愛別離苦の感情が生まれる淵源です。

 

 

奇蹟の「邂逅性」

 ここで冒頭の問いに対する返答を述べたいと思います。

 もし、人それぞれ違っていることが「よい」ことで「特別」なことだと肯定するとしたら、その理由は唯一性の存在に規定された奇蹟の「邂逅性」にあるのだと思います。ここで言う邂逅性とは二つあり、一つは世界との邂逅。次に愛すべき他者との邂逅のことです。

 過去にも未来にも存在しない唯一性なる存在者がこの世界に誕生(=邂逅)し、誕生した唯一性なる存在者どうしが奇蹟的に出会い、「この人に出会えてよかった」と思うこと。そして、愛別離苦という感情が生じること——。

 世の中の99.99%ぐらいが「ダメ」(肯定できない)としても、残り僅かの肯定可能性を信じられる根拠があるとしたら、それは奇蹟の邂逅性にしかありえず、この邂逅性を担保しているのが存在の唯一性なのです。

 

 

邂逅性を阻むもの

 事実存在(~がある)としての実存は、ただそれだけで「私」を他者に明示することはできません。「私」を明示するには「私」が「誰であるか」を明示しなければならず、「誰であるか」を明示しようとすると必ず「何であるか」にすりかわってしまいます。

 その人が「何であるか」という問いは、あくまでもその人の属性的な性質(性格・身体的特徴・能力・職業など)のことであって、その人が「誰であるか」ということとは本来、関係のないことです。

 たとえば、その人に障害があるかないか、病気か健康か、認知症になる前となった後、そういった違いや変化はすべて「何であるか」に関わる属性的な性質のことであって、その人が「誰であるか」には本性上、関係ありません。つまり、その人に障害があり、認知症だったり、たとえ脳死状態で意識がなかったとしても、その人のことを「誰か」として呼びかける対象=唯一性としての存在者と認めるのなら、属性的な性質がどうあろうと、その人は唯一無二な「誰か」なのです。

 しかし、社会のなかで生きるということは社会のなかで事実存在が「何であるか」という問いによってたえず価値づけられてしまうことを意味します。前半で述べたような「個性」のイデオロギーはすべて「何であるか」に関わることでした。

 私たちは本当は「私」の事実存在の肯定と承認を望んでいるのに、他者からの肯定や承認の対象になるのは事実存在としての「私」ではなく、その人が本質的に「誰であるか」とは関係のない「何であるか」という属性にいつも向かってしまうのです。

 従って、唯一性の存在者どうしの邂逅性が阻まれるのは、「誰」(who)と「何」(what)を混同して本当の「誰か」からの呼びかけに呼応できなくなってしまうときです。「誰であるか」を「何であるか」に読み違えている限りは「誰か」からの呼びかけには永遠に応えられず、邂逅性は阻まれ続けます。「誰か」からの呼びかけに応えるには、その人が「何であるか」を問うのではなく、その人は「誰であるか」ということが重要なのです。

 

 

*1:「障害は個性だ」という主張で重要なのは、それが「私の障害は個性だ」(単称命題)なのか、「すべての障害は個性だ」(全称命題)なのか、ということです。もしそれが単称なら「そうなんですか」で終了です。(それ以上何も言えません)。もし全称のことなら「障害=個性」論の主張ということになりますが、障害と言ってもいろんな障害が考えられますし、障害観にもいろいろありますので、こういう違いを無視して一律に「すべての障害は個性である」と言いうるのは無理があろうかと思われます。

 

*2:以下で述べたことは『人間の尊厳と国家の権力―その思想と現実、理論と歴史 (成文堂選書)』(ホセ・ヨンパルト著)を参照した。

*3:人間の尊厳と国家の権力―その思想と現実、理論と歴史 (成文堂選書)』(ホセ・ヨンパルト著)より

*4: 以降で述べたことは『“個”からはじめる生命論 』(加藤秀一 著)を参照した。