おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「エコロジカルな自己」とは何か/河野哲也『〈心〉はからだの外にある——「エコロジカルな私」の哲学』

「性格」なんてナンセンス 

 脱スピリチュアル宣言!

 自分探しの正しいあり方を明らかにする

 

デカルト的発想を覆す

〈心〉とは、自己の内に閉ざされたプライベートな世界なのか?

環境と影響しあうエコロジカルな〈心〉という清新な視点から、他者や社会と生き生きと交流する自己のありかたを提示。

 行動や社会現象の原因を人の内面に求め、不毛な「自分探し」を煽る心理主義的発想を、身体性や他者の軽視につながるものとして批判しながら、「個性」「性格」「内面」など自己をめぐる諸問題に鋭く迫る。

 社会(環境)を個々人のニーズに合わせて改善し、快適な生活を主体的に形成してゆく展望を示す、自己論の革命!

 

 

エコロジカル・アプローチの書

 哲学者の河野哲也さんが、ジェームズ・Jギブソンの提唱した生態学的心理学を援用しながら「エコロジカルな自己論」(サイコロジカルからエコロジカルへ)を展開した本です。

 一言でいえば「デカルト主義・主観主義哲学・心理主義」批判の書。

 ギブソン生態学的心理学やアフォーダンスと呼ばれるジャンルは、今や心理学の一つの潮流を形成している確立された学問ジャンルになっています。だからギブソンアフォーダンスに関連した類書は数多あり、本書はその入門書のような体裁を帯びています。

 エコロジカル・アプローチの良い点は、社会問題を「個人化」して自己責任論へと持っていく安易な議論の反証になりうるところ。あと、「障害」や「能力」は個人に内在するものではなく、社会(環境)との関係性によって生じるという「社会モデル」を採用する点です。

 

ギブソン心理学の特徴①「人間をヒトとして扱う」

言語の優越性を認めない

 ギブソン生態学的心理学のルーツは行動主義心理学にあります。だから、基本的に人間と動物を区別しません。人間を特別視せず、人間は動物に包摂されるヒトとして扱う点が一つの特徴です。

 ここから分かるのは、デカルト主義や主観主義哲学は「言語」を特に重視しますが、人間と動物を区別しないエコロジカルなアプローチをとる生態学的心理学では言語の優越性を認めないのです。言語の問題を重視しないということは「脱人間中心主義」であると同時に、デカルト主義が排除している「意識のない存在者」(動物や脳死状態の人)や言語能力のない「幼児」をも対象として掬い上げることができます。

 

ダニにも〈心〉がある?

 ギブソンは私たちが特別視している「自己意識」というのは、単なる「自己知覚」のことだと考えました。自己知覚は「自己」が環境を知覚する際に同時に自らの身体に付随する現象で、ここから「環境知覚=自己知覚」という結論を導き出し、この自己知覚こそが私たちが神秘化して呼んでいるところの「自己意識」なのだと言います。

 従って「自己知覚」が「自己意識」なのだとしたら、ヒト以外の動物(環境を知覚できる動物)にも私たちと同じような自己意識(つまり〈心〉)が存在すると考えることができるのです。因ってギブソン流のエコロジカルなアプローチでは、ダニにもダンゴムシにもバクテリアにも〈心〉があるのです。

 

ギブソン心理学の特徴②「アフォーダンス」 

アフォーダンスとは「環境特性」である

 「アフォーダンス」とはギブソンが作った造語(英語のaffordの名詞化)。動物が生態学的環境世界を生きるうえで重要になってくる特性(価値や意味)を表します。

 ギブソンによれば環境のアフォーダンスとは、良いものであれ悪いものであれ、環境が動物に提供する(afford)ものである。「動物との関係において規定される環境の特性」ギブソン2004:341のことである。

 

 アフォーダンスは、ある動物にとって、どのように行動できるか、どのように行動すべきかに関わる環境の特性であり、環境や対象の生態学的価値や生態学的意味のことを指している。たとえば、硬い水平面は陸棲動物にとって直立や歩行をアフォードする。棒状の物体は、ある動物にとって掴むこと、投げること、それを使って叩くことなどをアフォードする。火は身体を暖める正のアフォーダンスをもつが、火傷を負うという負のアフォーダンスももつ。31−

 

アフォーダンスの集合体を「ニッチ」と呼ぶ

これらのアフォーダンスの集合体が、「ニッチ」と呼ばれるのである。「環境は、動物がなしうることをその中に含んでいる。そして生態学におけるニッチの概念は、この事実を反映している」ギブソン1985:156

 

 しかし、ここで注意すべきは、アフォーダンスは、「動物との関係において規定される」とはいえ、それは環境の側に実在する特性なのであって、動物の側にとっての主観的な価値や意味ではないことである。アフォーダンスの概念には、価値や意味が環境中に実在しているという主張が含まれている。31−32

 

アフォーダンスは行動可能性の範囲を規定する

 一言でいえば、アフォーダンスとは動物にとっての環境特性(価値や意味)のことです。そして、環境特性の価値や意味は環境の側に内在している。従って、動物という存在が為しうるすべての行動可能性の範囲(選択肢)はアフォーダンスの集合体(ニッチ)に予め規定されており、そこから動物側にアフォードされることによって、ある行動(行為や能力)が実現化されることになります。

 

個体差とアフォーダンス

 では、個体差とアフォーダンスの関係はどうなるのか。それは次のようになります。

 ある環境Xがあったとして、この環境Xのニッチは、「個体A」にとっては正のアフォーダンスをもち「個体B」には何のアフォーダンスもなく「個体C」にとっては負のアフォーダンスをもつ、という違いが生じうるのです。

 

「能力」は環境からアフォードされる

 個体差によってニッチからアフォードされるものが違ってきます。しかし、アフォーダンスはあくまでも環境の側に実在する価値のことであって個体側に属する価値ではありません。たとえば、「勉強ができる」とか「運動ができる」といったような何かが「できる/できない」というある種の「能力」(価値)は、もともと個体に内在している特性なのではなく、環境に内在していた価値(アフォーダンス)がたまたまある個体Aには正の価値としてアフォードされ、個体Cには負の価値としてアフォードされると考えるわけです。かくして、個体の自己責任論は否定される(問えない)ことになります。

 

ギブソン心理学の特徴③「直接知覚論(実在論)」 

間接知覚論

 哲学では認識論とよばれる分野がありますが、知覚論では大きく分けて「直接知覚論」と「間接知覚論」があります。デカルト主義や主観主義哲学では間接知覚論(構成主義)の考え方をとります。つまり、あらゆる知覚は感覚データや刺激によって媒介され「心」(あるいは脳)のなかで作り出される表象やイメージと考える。知覚は二次的に構成されたものだと考えるのです。

 

直接知覚論

 一方のギブソン心理学が採用する直接知覚論では、知覚は感覚データや刺激によって媒介され構成される二次的なものではなく、実在世界そのものを直接に知覚することができると考えます。従ってこれは実在論の立場に立ちます。ここがギブソン知覚論の精髄であると思われますが、これを本気で知ろうとするならギブソンの原典にあたる他ありませんし、超ムズイと思われます。

 

実在論反実在論

 代わりに実在論反実在論の立場の違いについて少し考えてみたいと思います。

 「あそこに山がある」というときに「本当にあそこに山がある」と思うのが実在論者で、「山がある」という表象やイメージが心的に与えられている(構成された)と考えるのが非実在論者です。しかし、そのような立場の違いがあるとはいえ、私たちが日常生活を滞りなく平和に送るためには(たとえ反実在論者であってさえも)素朴な実在論者として生きるしかありません。

 

デカルトデカルト的に生きられない?

 おそらく、あのデカルトであってさえも、日常生活をデカルト的に営むことはできず、もし日常生活をデカルト的に送るとしたらいろんなことが問題になって行動不能に陥ります。たとえば、椅子に座ろうとするときにその椅子は本当にあるのか実在しないのではないかなどといちいち考えていたら身動きが取れなくなって行動不能になると思われます。だから独我論者であってさえも、大学で講義をしたりスタバでコーヒーを注文したりするときには「他者の心は存在しない」みたいなことをいちいち考えてはいないはずなのです。

 

「エコロジカルな自己」とは何か 

心身二元論の否定

 著者がギブソン心理学を使って主張したいのはデカルト主義批判です。これはつまり、心身二元論の否定です。「心」と「肉体」という二元論(精神世界と物理世界)を取ると解決不能な難題を抱えることになります。難題とは心身問題や他者問題、「本当の私とは何か」といった内面ばかりを重視する自分探し(自分病)など。著者はこういった難題に陥るのは、そもそもの問いの立て方に問題があるのだと言います。

 

環境に拡散する自己

 著者が導入するのは「エコロジカルな自己」というアプローチです。《生態学的立場では、「心的能力」と呼ばれているものは、私たちの身体的活動と環境のニッチとの相互性のなかではじめて成り立つと考える。この意味において心は私たちの内部(たとえば、脳)にあるものではなく、むしろ、環境のなかに拡散して存在していると言ってよい。》

 

身体一元論

 著者は、人間の内面的な〈自己=心〉を否定し〈自己=身体=世界=環境〉という一元論(つまり、身体一元論)の立場をとります。《エコロジカルな自己とは、環境と相互作用する身体そのもの》です。

 因って自己とは〈心〉ではなく〈身体的な自己〉(自己=身体)のことであり、自己は身体的な存在として世界(環境)の一部を形成している(自己=身体=環境)。要するに、「自己=心」⇒「自己心」「自己=身体」⇒「自己=身体=世界(=環境)」というふうに心身二元論を「身体=環境」一元論にシフトするわけです。

 

そして〈心〉は消去された!

 「エコロジカルな自己」のアプローチを取ると、今まで絶対視されていた内的な〈心〉が消去(相対化)され、〈心〉と思われているものの内実は、単に身体と環境との相互作用によって成り立つ外在的な現象でしかないことになります。

 自己というのは《あくまでも環境に立脚し、自然的・人間的・社会的環境との相互作用のなかで成立する徹底的に身体的な存在》です。《自己は身体的存在として世界の一部をなしており、自己と世界とは内的意識と物理的世界という二つの異質な領域をなしているのではない》のです。

 

【応用編】イチロー選手の「能力」は誰のものか

「能力」のフリーライダー

 最後に応用例としてイチロー選手の「能力」をエコロジカル・アプローチでもって考えてみたいと思います。

 まず、そもそも論から始めると、「イチローが〈野球=ベースボール〉を作ったわけではない」ということ。これはあらゆる「能力」を考えるときに非常に重要な出発点です。

 イチローが生まれる前から〈野球〉という競技(歴史)があり、〈野球〉という文化があった。従って、出発点として前提しなければならないのは「イチローは〈野球〉にフリーライドしている」ということです。なぜなら、イチローが〈野球〉という歴史的文化的な競技を作ったわけではないのに、イチローは〈野球〉をすることによって「野球的能力」が評価され、大リーグで一流選手になれたからです。そしてそこから高額な報酬を貰っている!

 実は、私たちが個人の「能力」だと思っているものは、以上のイチローのようにフリーライドから始まっています。この「能力」のフリーライダー論は、「数学的能力の高い人は数学を作ったわけではない」という命題のように、「〇〇的能力の高い人は〇〇を作ったわけではない」というふうに一般化することができます。まずは以上の点から「能力は個人のものである」という個人的能力観は否定されるわけです。

 

「金メダリスト」に問われる本当のモラル

 従ってオリンピックで金メダルをとった選手がまずもって感謝しなければならないのは、その競技を作った人たち(歴史や文化)に対する感謝です。しかし、いくら感謝したとしてもフリーライダーフリーライダーです。この格差を埋めることはできない。

 ある競技の頂点を極めた選手であればあるほど、そのような格差(フリーライダー率)は必然的に高くなります。ある競技の頂点を極めた選手は、その競技から選手が受け取る享受率(配分率)が最も高くなるからです。だから、銅メダルよりも金メダルをとった選手の方がフリーライドしている比率が高くなります。

 故に、もし金メダルをとった選手がそのような感覚(フリーライダー率の高さから生じる「負い目」のような感情)を持たず、誇らしげに喜んでいるだけなら、これは傲慢ということになります。ただしこの場合、「傲慢じゃないか!」と批判できる人は本人(の良心)だけです。だからこそなおさら、良心が問われる事態(カント的倫理の問題)なのです。

 

エコロジカルな能力観

 アフォーダンス論によれば「能力」は環境からアフォードされるものです。「能力」という価値は環境の側に実在し、個体側にあらかじめ内在的に備わっているものではない。

 イチロー選手の野球的能力も同じです。イチロー選手の「ボールをバットに当てる能力」というのは、〈野球〉という競技があるからこそ生まれる能力です。そもそも〈野球〉がなければ、ボールもバットも存在しませんし、「ボールを遠くに投げる」とか「ボールを速く投げる」という行為には何の「価値」も「意味」もありません。

 従って、イチロー選手の野球的能力は〈野球〉という環境特性からイチロー選手個人へとアフォードされたものです。イチロー選手のすごいところは、〈野球〉という環境特性から高い正のアフォーダンスを持つように、自らの身体をそれへと適合させることに成功(=努力)したところです。

 「能力」は環境に内在し、環境から個体へとアフォードされるわけすが、このときに環境から個体へと配分される比率(アフォード率)は個体と環境の相互性(相性)によって決まります。個体の「能力」が高いということは、その「能力」の環境から個体へのアフォード率(相性)が高いということです。

 以上のことから、「能力」の高さは「環境×個体差」によって決まることになり、イチロー選手の野球的能力はイチロー選手に内在しているものではなく、イチロー選手と〈野球〉環境との相互作用=共同存在であると考えることができます。

 してみれば、イチロー選手の業績の個人的貢献性は思ったほど高くないということになります。

 

〈運〉のフリーライダー

 個人的な「能力」と見做されているものは「環境×個体差」によって決まるわけですが、個体の生得的な特徴(身体的特徴)というものは、その個体に帰属できる貢献ではありません。これは単に〈運〉が良かった/悪かったというものでしかない。また、環境からのアフォード率を高められるような条件の良い生育環境も、個体自身は選べない(子供は親を選べない)。これも単に〈運〉の良し悪しの問題です。

 

「能力」は個体に存するものではない

 従って「能力」のフリーライダー論は、環境(歴史や文化)へのフリーライドと〈運〉へのフリーライドとの二つがあるということになります。これに加えて、「能力」というのは環境との相互作用=共同存在によって成立する。

 以上の二つの点から、「能力」は個体に存するものではない、という結論を導くことができます。