【あらすじ】
二十七歳の宇津木明生は、財閥の家系に生まれた大学教授を父に持ち、学究の道に進んだ二人の兄を持つ、人も羨むエリート家系出身である。しかし、彼は胸のうちで、いつもこうつぶやいていた。「俺はきっと生まれそこなったんだ」。
サッカー好きの明生は周囲の反対を押し切ってスポーツ用品メーカーに就職し、また二年前に接待のため出かけた池袋のキャバクラで美人のなずなと出会い、これまた周囲の反対を押し切って彼女と結婚した。
しかし、なずなは突然明生に対して、「過去につき合っていた真一のことが気になって夜も眠れなくなった」と打ち明ける。真一というのは夫婦でパン屋を経営している二枚目の男だ。「少しだけ時間が欲しい。その間は私のことを忘れて欲しいの」となずなはいう。
その後、今度は真一の妻から明生に連絡が入る。彼女が言うには、妻のなずなと真一の関係は結婚後もずっと続いていたのだ、と。真一との間をなずなに対して問いただしたところ、なずなは逆上して遂に家出をしてしまう。
失意の明生は一方で、個人的な相談をするうちに、職場の先輩である三十三歳の東海倫子に惹かれていく。彼女は容姿こそお世辞にも美人とはいえないものの、営業テクニックから人間性に至るまで、とにかく信頼できる人物だった。
やがて、なずなの身に衝撃的な出来事が起こり、明生は…。(amazonより)
直木賞受賞作
この作品で白石さんは第142回 直木賞を受賞。
タイトルにもなっている「ほかならぬ人へ」(2009年刊行)と「かけがえのない人へ」の2作品が収録されています。
白石さん特有の「僕は…」で始まり「…べきだ」で終わる主人公の内省的な思考論述は影を潜め、ちゃんとした(?)恋愛小説になっています。その辺が評価されたのかもしれませんが、白石節を期待している人にとっては少し残念な小説ですね。
以下完全ネタバレです。
名門の家に生まれた「俺」だけど…
小説の冒頭は「俺はきっと生まれそこなったんだ」から始まります。
しかし、読んでいくと主人公の人生はそれなりにうまくいっている。
ちゃんと就職できてるし、恋愛も結婚もする。
特に仕事の方は、上司にも恵まれて順調そのものです。
だから主人公の劣等感は「贅沢な悩み」に思えてしまうのですが…。
就職して3年目に結婚
なんという順調な人生。
しかも結婚した「なずな」という女性は「ミキティそっくりの超美形」だそうです。
「ミキティ」って超美形?
それにしても時代を感じる「ミキティ」。
まあ、とにかく「美人」と言いたいのでしょう。
ここで白石作品には欠かせない「美人」の登場です。
「なずな」はトンデモ系列の「地雷」だった…
「超美形」は伏線。
「ミキティそっくりの超美形」は地雷だったのでした。
このあたりから雲行きが怪しくなっていきます。
いろいろ読んでいくと分かりますが、わがまま系の地雷です。
6つ年上の上司に相談しているうちに…
この恋愛小説は、男女がプライベートな悩み事相談をしているうちに「急接近」というパターンです。
いかにもな「あるある」ですよね。
しかもその関係は上司(女性)と部下(主人公)です。
面白いのは、その上司(東海さん)の形容のされ方。とにかく見た目が「ブサイク」という特徴を打ち出したいようで、ド直球な「ブス」とか「ブサイク」という表現が出てきます。白石さんはあえて現代風な、あるいは反PC的な表現を選んだようです。
その東海さんの唯一の玉にキズが、本人が日々口にするごとく「ブス」、「ブサイク」であることなのだった。確かに東海さんは全然美人ではなかった。同じ課のある先輩の言葉を借りれば、「電気を完全に消した部屋でなら何とかヤレるかどうかのレベル」だ。
見た目がダメでも「匂い」がある!—「視覚恋愛」から「嗅覚恋愛」へ
主人公の明生は名門の家に生まれ「兄弟格差コンプレックス」(出来の良い兄とダメな俺)に悩んでいました。悩みを抱えながらもそれなりの大学に進学し、それなりの企業に就職し、それなりに恋愛し、それなりに結婚した。
結婚相手が少々の地雷系だったものの、その辺の家庭のゴタゴタ話を上司の東海さんに話しているうちに、なんとなく「いい感じ」になり、明生にとって東海さんは上司から一人の女性になっていきます。
明生が東海さんに惹かれた最大のポイントは「匂い」でした。
そんなバカな… 昆虫じゃあるまいし!と思うかもしれませんが、本当にそうなのです。
・「それに、これは別にいやらしい意味で言うわけじゃないんですけど、東海さんっていつも凄いいい匂いしますよ」
・明生が東海さんのことをどうしてもブスだとは思えないのは、実は、彼女と最初に会ったときから何ともいえないいい匂いを感じたからだった。…
「見た目」がダメでも「匂い」がある!
これがこの恋愛小説の打ち出す新機軸です。
「見た目(視覚恋愛)」から「匂い(嗅覚恋愛)」へ...。
恋愛文学において「嗅覚」というジャンルは意外に盲点かもしれません。
NHKでもこんなドラマがやっていましたし......
しかし悲しいかな映像メディアにおいては「匂い」は伝えづらい。
これだとどうしても嗅覚は視覚に勝てません。
でも視覚を排した一次元的小説(文字)では、視覚と嗅覚は感覚的に五分っている!
物語性によって「匂い」に説得力を持たせることができれば、嗅覚は視覚に勝てるかもしれません(本作のように)。そして、現実世界においても「嗅覚恋愛」はアリなのかもしれない...というリアル感が醸成されれば、それほど見た目に拘る必要はなくなっていくのかもしれません。