人生にときめく、AI(人工知能)。
声だけの君と出会って、世界が輝いた。
「マルコヴィッチの穴」「かいじゅうたちのいるところ」のスパイク・ジョーンズ監督が「ザ・マスター」のホアキン・フェニックスを主演に迎えて贈る異色ラブ・ストーリー。コンピュータがさらなる進化を遂げた近未来を舞台に、傷心の作家が女性の人格を有した人工知能(AI)型オペレーティング・システム(OS)と心を通わせ、本気で恋に落ちていく切なくも愛おしい姿を描く。共演はエイミー・アダムス、ルーニー・マーラ、オリヴィア・ワイルド。そして主人公が恋に落ちるAI“サマンサ”の声を務めたスカーレット・ヨハンソンは、ローマ国際映画祭において、声だけの出演で史上初となる最優秀女優賞に輝いた。
【あらすじ】
そう遠くない未来のロサンゼルス。他人に代わってその相手への想いを手紙に綴る“代筆ライター”のセオドア。仕事は順調だったが、その一方で離婚調停中の妻キャサリンとの思い出を、別れて1年経った今も断ち切れないでいた。そんなある日、最新式のAI型OS“OS1”の広告を目にしたセオドアはさっそく自宅のPCに取り込むことに。
すると起動した画面の奥から聞こえたのは、“サマンサ”と名乗る女性の声。それは無機質で事務的なAIとは思えないほどユーモラスかつセクシーで、バイタリティーに満ち溢れる人間のようだった。サマンサをすぐに気に入ったセオドアは携帯端末にも彼女をインストール。こうして常に一緒のふたりは新鮮で刺激的な日々を過ごし、いつしか恋に落ちていく。
そしてついに、セオドアはキャサリンとの離婚届に判を押そうと決意。しかし、再会した彼女の前でAIとの交際を打ち明けたことをきっかけに、セオドアとサマンサそれぞれの想いがすれ違い、ふたりの関係に異変が生じていく…。<allcinema>
「一人」と「ひとつ」の恋を描いた異色ラブストーリー
2013年公開。
監督は『マルコヴィッチの穴』のスパイク・ジョーンズ。
主演はホアキン・フェニックス(『インヒアレント・ヴァイス』などに出演)。
共演にエイミー・アダムス(『人生の特等席』の一人娘役などで有名)。
人工知能AI(サマンサ)役にスカーレット・ヨハンソン(声のみの出演)。
人間である「セオドア」(男・ホアキン・フェニックス)と人工知能AIである「サマンサ」(女性仕様・スカーレット・ヨハンソン)が恋に落ちる!
異色な(異ジャンル)ラブストーリーです。
「AI感」(綾波レイのポカポカ感)がまったくない…
ずっと観たかった映画だったのですが、いつの間にかその存在を忘れていて、Amazonプライム加入をきっかけにようやく視聴が実現。やはり「観よう!」と思ったときに観ないとずっと観ないままになってしまうのですね。
で、視聴後の感想はと言うと…「まったく感動できなかった...」という残念な結果に。
正直に告白すると、1時間くらいで眠くなりました...。
この映画に乗れなかった点は二つあります。
ひとつは、AIが初めから完璧すぎること。
スカーレット・ヨハンソンの声が好きかどうかは別にして、音声だけを聴く限り、人間同士が電話で喋っているように観えてしまいます。あたかも遠距離恋愛をしている恋人同士が電話をしているような感じに観えてしまうのです。
AIに「AI感」がまったくないと、これは単なる人間同士の恋愛と同じです。たとえば、エヴァの綾波レイのように見た目は人間と同じように見えても、感受性のぎこちなさを描くことによってAI感を醸し出すことができます。だからこそ「ポカポカする」というセリフに感動できる。しかし、レプリカントのような人間と瓜二つの完璧なヒューマノイドになってしまうと、綾波レイのポカポカ感がまったく感じられず、人間同士の恋愛と同じ(単なるメタファー)ということになりシラケてしまうのです。
『スター・ウォーズ』のR2-D2やC-3PO、『ショートサーキット』のナンバー・ファイブ、あるいは鉄腕アトムやドラえもんなどのようにビジュアルでAI感やロボット感を出すのは簡単ですが、音声のみでAI感を出すのは非常に難しいと思います。たとえば、『2001年宇宙の旅』のHAL 9000は音声のみの人工知能ですが、ここから綾波レイのポカポカ感はまったく感じられません。単に「恐ろしい人工的な機械」という感じです。
異色ラブストーリーで期待されることは、「人間/動物」「人間/ロボット」と言ったような「明確なる差異」(種差)があるにもかかわらずその差異を超えるほどの友情や愛情の存在可能性です。差異がありすぎると可能性はゼロに感じられるし、差異がなさすぎると単なる人間同士の恋愛を観ればいいということになってしまう…。
綾波レイのポカポカ感を出すには音声のみでは難しく、やはり身体性(body)を描かないとダメだというのがこの映画を観た後の結論です。
「音声恋愛」(聴覚恋愛)は可能か?
この映画に乗れなかった2つめの理由は、描かれているのがただの「音声恋愛」だからです。本作は人間とAIとの恋愛を描いているようでいて、実は単なる音声恋愛を描いているというのが僕の観方です。
「AIとの恋愛可能性」と「音声のみの恋愛可能性」の二つが同時に描かれているのですが、どう考えても前者より後者の方が難易度が高い。なのに、その点についてはまったく問題視されていません。
ほんとうに音声だけで恋愛することは可能なのでしょうか? 可能だとして、ほんとうに音声だけで満足できるのでしょうか。これは単に趣味や性癖レベルのテレフォンセックスとは訳がちがいます。
音声のみの(実際に会ったことがないどころか顔すら見たことがない)相手を「彼氏」や「彼女」と呼び、電話やSkypeで話しているだけの行為を「恋愛」と呼べるのか。これを恋愛と呼ぶにしても、ほんとうに音声だけの関係に満足できるのでしょうか。それ以上の関係を求めたい欲望はないのでしょうか...。
音声のみの恋愛というのは今現在の技術レベルで十分可能ですが、ほとんど実行されていません。そういう話を聞いたことがないし、話題にもなっていない。だから音声恋愛にはリアリティがないのです。
アニメのキャラに萌える人はある意味では二次元恋愛をしていることになるのかもしれませんが、音声は一次元です。従って、音声恋愛はアニメのキャラに萌えること以上に想像力が必要(高難度)になります。
文通やメールやLINEの文字(一次元)だけで恋愛できる人もいるかもしれませんし、音声恋愛は可能か不可能かでいったら可能でしょう。しかし、音声のみの恋愛を本気で出来る人というのは「もう恋愛に肉体はいりません」ときっぱり言い切れる人です。そんな人って身近にいるでしょうか?
恋愛に肉体はいらない?
主人公のセオドアは映画の冒頭の方でテレフォンセックスをしています。だからセオドアは音声のみで恋愛できる人なのでしょう。つまり、セオドアは「AIと恋愛できる人」であると同時に「音声のみで恋愛できる人」なのです。事実、AIのサマンサが自分に肉体がないことに思い悩むというシーンがありますが、それに比べてセオドアの方は肉体の有無なんか問題にしていません。セオドアは相手に肉体なんかなくても恋愛できる人なのです。だからAIの方が優れて人間的で、セオドアの方が倒錯しているように見えます。
もしこの映画が「恋愛に肉体なんていらない(音声だけでいい)」という話だとするなら、相手が「AIか、人間か」という論点はほとんど関係ないことになります。音声のみで恋愛ができる人にとっては、「肉体のない音声だけのAI」と「肉体はあるけど音声だけの人間」とでは本質的にちがいはない(気にならない)からです。
しかしながら、この映画の狡いところはAI役にスカーレット・ヨハンソンを起用しているところでしょう。用意周到にスカヨハのイメージを密輸入しています。声を聴くだけでスカヨハのビジュアルが自ずと想起されてしまう。
もともとAIの声に色はついていないはずなのに「スカヨハ色」が初めからついていて、声を聴いた人は無意識のうちにスカヨハのビジュアルまでもがイメージされてしまうのです。もしAIの声が無名の新人だったらそもそも「物語」(の説得力)は成立しなかったかもしれません。
(AIの声を担当したスカヨハ)