おんざまゆげ

@スラッカーの思想

遠藤周作『沈黙』/あの人は沈黙していたのではなかった…

 島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制のあくまで厳しい日本に潜入したポルトガル司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける書き下ろし長編。新潮文庫/1966年刊)

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

 

  映画『沈黙-サイレンス-マーティン・スコセッシ監督)を観るために読みました。正月に読了。映画館に観に行く予定で読んだのですが、読後に気持ちが一変。別に観なくてもいいという結論に至りました。(DVDになったら観ますけどね…)

 

「沼」育ちだから無理…

 信仰については自分はまったく持ちあわせていませんので、キリスト教神学やキリスト教思想にもほとんど知識がなく、教義じたいについてはよくわからない点がいろいろとありました。物語の内容じたいは理解できますが、どうしてそこまでするのかが理解できない。

「信じるもののためにいのちを捨ててもいい」という内発性を持ったことがないので、最後の肝心な部分、物語が伝えようとしている核心性にはまったく近づけない。僕にとってはレベルの高すぎる話でした。*1

 

キチジロー

 小説ではキチジローが弱い人間の代表のように描かれていますが、どこが弱いのかよくわからない。主人公のロドリゴの視点から見ればキチジローは弱々しく見えるのかもしれませんが、僕にとってはむしろ強い人間に見えます。信じることを諦めないのだから、そこには強い執念のようなものがある。たんに自分ひとりが救われたいと思っているだけなら(仏教的には)我欲に分類されるかもしれませんが、途中で裏切ったとは言え、はじめの方ではロドリゴを支援していたのでたんなる我欲でもなさそうです。

 

信仰の揺らぎ

 これといった信仰を持っていない人でも、何か理不尽な出来事が身の上に起こったとき、思わず「なぜなんだ!」というやり場のない憤りがわきあがることがあると思います。このときの「なぜだ?」という憤りにも似た疑問の宛先が「神」(信仰)に向けられるとき、はたして神はその理不尽に応えてくれるのか。「祈り」に応じた「救い」を神はもたらしてくださるのだろうか——。

 そのような「なぜだ?」に神は何も応えてくれない。これが「神の沈黙」です。

 宣教師ロドリゴは「神の沈黙」から「神の不在」の予感に至り、「もしかすると、神なんていないのかもしれない」という巨大なニヒリズムの恐怖に苛まれます。ここにいたって、はたして神を信じることができるのか、信ずるべきなのか。

 このような「信仰の揺らぎ」が描かれています。

 

中世の世界観

 小説は中世の価値観で描かれています。もし、近代の価値観なら「肉体的苦痛に耐えられるかどうか」(拷問)と「信仰の深さや強さ」(神を信じ従う良心)はまったく関係がないことだと判断すると思いますが、中世の価値観だとその二つが密接につながります。信仰が強ければどんな拷問にかけられても転ばないはずだと考える。これは今で言うところの典型的な精神論のプロトタイプです。

 人間が行った残酷な拷問史というのがいろいろあって、この「人体実験」によって明らかになったのは「人間は拷問に耐えられない」というあたりまえの事実でした。だから、どんなに信仰が深くても拷問に耐えられる人間はほとんどいません。今現在の近代の価値観から見ると、拷問に耐えられるから「信仰が深い=精神が強い=強い人間」であり、拷問に耐えられないから「信仰が浅い=精神が弱い=弱い人間」というふうに考えることはまちがっていることになります。*2

 しかし、今現在の近代の価値観でもって小説で描かれている中世の価値観を否定しても何の意味もありません。現に小説ではモキチやイチゾウ、片眼の男は踏絵を拒否して実際に殉教しているわけですから。おそらくこういう人たちが中世の時代にはたくさんいたのだと思います。遠藤周作さんはそういう人たちを小説の世界の中であっても救いたかったのだと思います。

 

良心(=近代的価値観)

 信仰は良心の問題だと思いますが、良心は個人の自律的な意志にもとづいているものなので、他人が外部から強引に捻じ曲げることはできないと思います。良心にアクセスできるのは本人だけです(良心に背くことができるのは本人のみであり、その良心を裁くことができるのは神のみ)。

 拷問のような肉体的苦痛、あるいは、人質をいたぶって「さもないと殺すぞ」と言って脅かす、脅迫する。こういう手口で正常な判断能力を奪い、無理矢理に何かを決定させることは良心の問題ではありません。だから、拷問や脅迫や脅しによる無理強いは、自らの自由意志で自律的に何かを決定すること(良心の問題)とは根本的に違う事態だと考える。これが近代の価値観です。*3

 

モヤモヤしている部分(密輸入問題)

 そのような近代の価値観から見ると、ロドリゴのように無理強いさせられた人たちはほんとうは棄教していなかったと判断できます。たんに「転んだ」だけで「棄教」はしていない。しかし、小説世界の中世的価値観では棄教したことになる。そう考えないと、モキチやイチゾウ、片眼の男の殉教がほんとうは殉教しなくてよかったということになってしまいます。だから、ロドリゴが到達した最終地点は、近代的価値観から見れば肯定できても中世的価値観から見ると肯定できない。

 もし肯定するなら、モキチやイチゾウのような殉教者を排除しなければならないと思います。そのためには「殉教者」ではなくたんなる「犠牲者」へと分類を変更する必要があり、殉教者をたんなる犠牲者扱いするということは殉教者の意志を無視することになります。

 そのあたりがよく理解できない。ロドリゴが最後に辿り着いた「神は沈黙していなかった」という「同伴者イエス」という境地は、今現在の価値観ではよく理解できます。では、どうしてモキチやイチゾウのような人たちは殉教したのか。この辺のラストの部分がずっとモヤモヤしているのです。*4

 

印象に残った部分

〈キチジローが示唆した「神の沈黙」〉*5

 この試煉が、ただ無意味に神から加えられるとは思いません。主のなし給うことは全て善きことですからこの迫害や責苦もあとになれば、なぜ我々の運命の上に与えられたのかをはっきり理解する日がくるでしょう。だが私がこのことを書くのはあの出発の朝、キチジローがうつむいて呟いた言葉が心の中で次第に重荷になってきたからなのです。

「なんのために、こげん苦しみばデウスさまはおらになさったとやろか」それから彼は恨めしそうな眼を私にふりむけて言ったのです。「パードレ、おらたちあ、なあんも悪かことばしとらんとに」

 聞き棄ててしまえば何でもない臆病者のこの愚痴がなぜ鋭い針のようにこんなに痛くつきさすのか。主はなんのために、これらみじめな百姓たちに、この日本人たちに迫害や拷問という試煉をお与えになるのか。いいえ、キチジローが言いたいのはもっと別の怖ろしいことだったのです。それは神の沈黙ということ。迫害が起こって今日まで二〇年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻きがみち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。キチジローの愚痴にはその問いがふくまれていたような気が私にはしてならない。(68-9)

 

〈モキチやイチゾウの殉教に、神は沈黙する〉

 なにを言いたいのでしょう。自分でもよくわかりませぬ。ただ私にはモキチやイチゾウが主の栄光のために呻き、苦しみ、死んだ今日も、海が暗く、単調な音をたてて浜辺を噛んでいることが耐えられぬのです。この海の不気味な静けさのうしろに私は神の沈黙を――神が人々の歎きの声に腕をこまねいたまま、黙っていられるような気がして……。(76)

 

〈もし神がいなかったならば……〉

 その海の波はモキチとイチゾウの死体を無感動に洗いつづけ、呑み込み、彼等の死のあとにも同じ表情をしてあそこに拡がっている。そして神はその海と同じように黙っている。黙りつづけている。

 そんなことはないのだ、と首をふりました。もし神がいなければ、人間はこの海の単調さや、その不気味な無感動を我慢することはできない筈だ。

(しかし、万一……もちろん、万一の話だが)胸のふかい一部分で別の声がその時囁きました。(万一神がいなかったならば……)

 これは怖ろしい想像でした。彼がいなかったならば、何という滑稽なことだ。もし、そうなら、杭にくくられ、波に洗われたモキチやイチゾウの人生はなんと滑稽な劇だったか。多くの海をわたり、三ヶ年の歳月を要してこの国にたどりついた宣教師たちはなんという滑稽な幻影を見つづけたのか。そして、今、この人影のない山中を放浪している自分は何という滑稽な行為を行っているのか。(85−6)

 

〈私たちはヨブのような強い人間ではない〉

 村は焼かれ、それまで住んでいた者たちはすべて追い払われたというのである。舟に波が鈍い音をたててぶつかったほかは海も陸も、死んだように黙っていた。あなたは何故、すべてを放っておかれたのですかと司祭は弱々しい声で言った。我々があなたのために作った村さえ、あなたは焼かれるまま放っておいたのか。人々が追い払われる時も、あなたは彼等に勇気を与えず、この闇のようにただ黙っておられたのですか。なぜ。そのなぜかという理由だけでも、教えて下さい。私たちはあなたが試煉のために癩病にされたヨブのように強い人間ではない。ヨブは聖者ですが、信徒たちはまずしい弱い人間にすぎないではありませぬか。試煉にも耐える限度があります。それ以上の苦しみをもうお与え下さいますな。司祭は祈ったが、海は冷たく、闇は頑なに沈黙を守りつづけてていた。(124−5)

 

〈基督の顔 … 何ものも犯すことができず、何ものも侮辱することのできぬ顔〉 

 夜は床の上に横たわったまま眼をつぶり、雑木林で鳴く山鳩の声を聞きながら眼ぶたの裏に、基督の生涯の一場面一場面を描いた。基督の顔は彼にとって、子供の時から自分のすべての夢や理想を託した顔である。山上で群集に説教する基督の顔、ガリラヤの湖を黄昏、渡る基督の顔、その顔は拷問にあった時さえ決して美しさを失ってはいない。やわらかな、人の心の内側を見ぬく澄んだ眼がこちらをじっと見つめている。何ものも犯すことができず、何ものも侮辱することのできぬ顔。それを思うと、小波が浜辺で静かに砂に吸いこまれていくように、不安も怯えも鎮まっていくような気がするのである。(133)

 

〈汚く臭いキチジローを愛せるだろうか〉

「あなたを、まだ信じられない」司祭はキチジローの臭い息を我慢しながら呟いた。「許しの秘蹟は与えるけれども、私はあなたを信じたわけではない。今更なぜ、ここに戻ってきたのかそのわけも私にはわならない」

 大きな溜息をつき弁解の言葉を探しながらキチジローは体を動かす。垢と汗くさい臭気が漂ってくる。人間のうちで最もうす汚いこんな人間まで基督は探し求められたのだろうかと司祭はふと考えた。悪人にはまた悪人の強さや美しさがある。しかし、このキチジローは悪人にも価しないのだ。襤褸のようにうす汚いだけである。不快感を抑え、司祭は告悔の最後の祈りを唱えると習慣に従って、「安らかに行け」と呟いた。それから一刻も早くこの口臭や体の臭気から逃れるため、信徒たちのほうに戻っていった。(149)

 

 いいや、主は襤褸のようにうす汚い人間しか探し求められなかった。床に横になりながら司祭はそう思った。聖書のなかに出てくる人間たちのうち基督が探し歩いたのはカファルナウムの長血を患った女や、人々に石を投げられた娼婦のように魅力もなく、美しくもない存在だった。魅力のあるもの、美しいものに心ひかれるなら、それは誰だってできることだった。そんなものは愛ではなかった。色あせて、襤褸のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった。司祭はそれを理屈では知っていたが、しかしまだキチジローを許すことはできなかった。ふたたび基督の顔が自分に近づき、うるんだ、やさしい眼でじっとこちらを見つめた時、司祭は今日の自分を恥じた。(149)

 

〈片眼の男が殉教した… 蟬は鳴き、蠅は飛んだ…〉

 むきだしの中庭に白い光が容赦なく照りつけている。真昼の白い光の中で地面に黒い染みがはっきり残っていた。片眼の男の死体から流れた血である。

さっきと同じように、蟬が乾いた音をたて鳴きつづけている。風はない。さっきと同じように一匹の蠅が自分の顔の周りを鈍い羽音で廻っている。外界は少しも違っていなかった。一人の人間が死んだというのに何も変わらなかった。

(こんなことが)司祭は格子を握りしめたまま、動転していた。(こんなことが……)

 彼が混乱しているのは突然起こった事件のことではなかった。理解できないのは、この中庭の静かさと蟬の声、蠅の羽音だった。一人の人間が死んだというのに、外界はまるでそんなことがなかったように、先程と同じ営みを続けている。こんな馬鹿なことはない。これが殉教というものか。なぜ、あなたは黙っている。あなたは今、あの片眼の百姓が――あなたのために――死んだということを知っておられる筈だ。なのに何故、こんな静かさを続ける。この真昼の静かさ。蠅の音。愚劣でむごたらしいこととまるで無関係のように、あなたはそっぽを向く。それが……耐えられない。(153)

 

〈お前が望んでいるのは、虚栄のための殉教か〉

 主よ、これ以上、私を放っておかないでくれ。これ以上、不可解なままに放っておかないでくれ。これが祈りか。祈りというものはあなたを賛美するためにあると、長いこと信じてきたが、あなたに語りかける時、それは、まるで呪詛のためのようだ。嗤いが急にこみあげてくるのを感じる。自分がやがて殺される日、外界は今と全く同じように無関係に流れていくのか。自分が殺されたあとも蟬は鳴き蠅は眠たげな羽音をたてて飛んでいくか。それほどまでに英雄になりたいか。お前が望んでいるのは、本当のひそかな殉教ではなく、虚栄のための死なのか。信徒たちに讃めたたえられ、祈られ、あのパードレは聖者だったと言われたいためなのか。(154)

 

〈どうしていいのかわからないアポリア

 どうすれば良いのか、わからない。行為とは、今日まで教義で学んできたように、これが正、これが邪、これが善、これが悪というように、はっきりと区別できるものではなかった。ガルペがもし首をふれば、あの三人の信徒たちはこの入江に石のように放りこまれる。彼が役人たちの誘惑に従うならば、それはガルペの生涯の挫折を意味した。どうしていいのかわからなかった。(170−1) 

 

〈憐憫は愛ではない〉

 自分は信徒たちを救うこともできなかったし、ガルペのように、彼等を追って波浪の中に消えていくこともしなかった。自分はあの連中への憐憫にひきずられて、どうしようもなかった。しかし憐憫は行為ではなかった。愛でもなかった。憐憫は情慾と同じように一種の本能にすぎなかった。そのくらいはもうずっとずっと昔、神学校の固いベンチの上で習ったのに、それは書物の上の知識だけにとどまっていたのだ。(174)

 

〈エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ(なんぞ、我を見棄て給うや)〉

 あの人もその夜、神の沈黙を予感し、おそれおののいたのかどうか。司祭は考えたくはなかった。だが、今、彼の胸を不意に通りすぎ、一つのその声を聞くまいとして司祭は二、三度烈しく首を振った。モキチやイチゾウが杭にしばられ、沈んでいった雨の海。小舟を追うガルペの黒い頭がやがて力尽きて小さな木片のように漂っていた海。その小舟から垂直に次々と簀巻の体が落下していった海。海はかぎりなく広く哀しく拡がっていたが、その時も神は海の上でただ頑なに黙りつづけていた。「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」(なんぞ、我を見棄て給うや)突然、この声が鉛色の海の記憶と一緒に司祭の胸を突きあげてきた。エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ。金曜日の六時、この声は遍く闇になった空にむかって十字架の上からひびいたが、司祭はそれを長い間、あの人の祈りの言葉と考え、決して神の沈黙への恐怖から出たものだとは思ってはいなかった。

 神は本当にいるのか。もし神がいなければ、幾つも幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の半生は滑稽だった。蟬がないている真昼、首を落された片眼の男の人生は滑稽だった。泳ぎながら、信徒たちの小舟を追ったガルペの一生は滑稽だった。司祭は壁にむかって声を出して笑った。(176-7)

 

〈フェレイラは言った… この国に基督教は無理〉

「二十年間、私は布教してきた」フェレイラは感情のない声で同じ言葉を繰りかえしつづけた。

「知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだ」

「根をおろさぬのではありませぬ」司祭は首をふって大声で叫んだ。「根が切りとられたのです」

 だがフェレイラは司祭の大声に顔さえあげず眼を伏せたきり、意志も感情もない人形のように、「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」 (189)

 

 … フェレイラはこの日本は底のない沼沢地だといっていた。苗はそこで根を腐らせ枯れていく。基督教という苗もこの沼沢地では人々の気づかぬ間に枯れていったのだ。

「切支丹が亡びたのはな、お前が考えるように禁制のせいでも、迫害のせいでもない、この国にはな、どうしても基督教を受けつけぬ何かがあったのだ」

 フェレイラの言葉は一語一語、司祭の耳を棘のようにさす。お前たちが信じているあの神はこの国ではまるで蜘蛛の巣にぶらさがった蝶の死骸のように外形だけ保って血も実体も失っていたのだと、その時だけフェレイラは眼を熱っぽく光らせしゃべりつづけた。あの表情にはなぜか、敗者の自己欺瞞とは思えぬような真実さが感じられたのである。(195)

 

〈わしが転んだのはな、神が何ひとつ、なさらなかったからだ〉

「… 私はあの声を一晩、耳にしながら、もう主を讃えることができなくなった。私が転んだのは、穴に吊られたからではない。三日間……このわしは、汚物をつめこんだ穴の中で逆さになり、しかし一言も神を裏切る言葉を言わなかったぞ」フェレイラはまるで吼えるような叫びをあげた。「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ。」

「黙りなさい」

「では、お前は祈るがいい。あの信徒たちは今、お前など知らぬ耐えがたい苦痛を味わっているのだ。昨日から。さっきも。今、この時も。なぜ彼等があそこまで苦しまねばならぬのか。それなのにお前は何もしてやれぬ。神も何もせぬではないか」

 司祭は狂ったように首をふり、両耳に手をいれた。しかしフェレイラの声、信徒の呻き声はその耳から容赦なく伝わってきた。よしてくれ。よしてくれ。主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙っていてはいけぬ。あなたが正であり、善きものであり、愛の存在であることを証明し、あなたが厳としていることを、この地上と人間たちに明示するためにも何かを言わねばいけない。(214)

 

〈お前は彼等より自分が大事なのだ…(師弟対決)〉

「わしがここで送った夜は五人が穴吊りにされておった。五つの声が風の中で縺れあって耳に届いてくる。役人はこう言った。お前が転べばあの者たちはすぐに穴から引き揚げ、繩もとき、薬もつけようとな。わしは答えた。あの人たちはなぜ転ばぬかと。役人は笑って教えてくれた。彼等はもう幾度も転ぶと申した。だがお前が転ばぬ限り、あの百姓たちを助けるわけにはいかぬと」

「あなたは」司祭は泣くような声で言った。「祈るべきだったのに」

「祈ったとも。わしは祈りつづけた。だが、祈りもあの男たちの苦痛を和らげはしまい。あの男たちの耳のうしろには小さな穴があけられている。その穴と鼻と口から血が少しずつ流れだしてくる。その苦しみをわしは自分の体で味わったから知っておる。祈りはその苦しみを和らげはしない」

「あの人たちは、地上の苦しみの代わりに永遠の悦びをえるでしょう」

「誤魔化してはならぬ」フェレイラは静かに答えた。「お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない」

「私の弱さ」司祭は首をふったが自信がなかった。「そうじゃない。私はあの人たちの救いを信じていたからだ」

「お前は彼等より自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが怖ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが怖ろしいからだ」そこまで怒ったように一気に言ったフェレイラの声が次第に弱くなって、「わしだってそうだった。あの真暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら」

 フェレイラは一瞬、沈黙を守ったが、すぐはっきりと力強く言った。

「たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう」

「そんなことはない」司祭は手で顔を覆って指の間からひきしぼるような声を出した。「そんなことはない」

「基督は転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」(215-7)

 

〈踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている〉

「お前は今まで誰もしなかった最も大きな愛の行為をやるのだから…」ふたたびフェレイラは先程と同じ言葉を司祭の耳もとに甘く囁いた。「教会の聖職者たちはお前を裁くだろう。わしを裁いたようにお前は彼等から追われるだろう。だが教会よりも、布教よりも、もっと大きなものがある。お前が今やろうとするのは……」

「形だけ踏めばよいことだ」

司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。

 こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。(217-9)

 

〈主よ。私が棄教したのではないことを、あなただけが御存知です〉

 自分は布教会から追放されているだけではなく、司祭としてのすべての権利を剥奪され、聖職者たちからは恥ずべき汚点のように見なされているかもしれぬ。だがそれがどうした。それが何だというのだ。私の心を裁くのはあの連中たちではなく、主だけなのだと彼は唇をつよく噛みながら首をふる。

(何がわかるか。あなたたちに)

 ヨーロッパにいる澳門の上司たちよ。その連中に向かって彼は闇の中で抗弁する。あなたたちは平穏無事な場所、迫害と拷問との嵐が吹きすさばぬ場所でぬくぬくと生き、布教している。あなたたちは彼岸にいるから、立派な聖職者として尊敬される。烈しい戦場に兵士を送り、幕舎で火にあたっている将軍たち。その将軍たちが捕虜になった兵士をどうして責めることができよう。

(いや。これは弁解だ。私は自分を誤魔化している)司祭は首を弱々しくふった。(なぜ卑しい抗弁を今更やろうというのだ)

 私は転んだ。しかし主よ。私が棄教したのではないことを、あなただけが御存知です。なぜ転んだと聖職者たちは自分を尋問するだろう。穴吊りが怖ろしかったからか。そうです。あの穴吊りを受けている百姓たちの呻き声を聞くに耐えなかったからか。そうです。そしてフェレイラの誘惑したように、自分が転べば、あの可哀想な百姓たちが助かると考えたからか。そうです。でもひょっとすると、その愛の行為を口実にして自分の弱さを正当化したのかもしれませぬ。

 それらすべてを私は認めます。もう自分のすべての弱さをかくしはせぬ。あのキチジローと私とにどれだけの違いがあると言うのでしょう。だがそれよりも私は聖職者たちが教会で教えている神と私の主は別なものだと知っている。(222-3)

 

〈仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲〉

「いつぞや、こう申したことがあるな。この日本国は、切支丹の教えはむかぬ国だ。切支丹の教えは決して根をおそらぬと」

司祭は西勝寺でフェレイラが言った同じ言葉を思いだしていた。

「パードレは決して余に負けたのではない」筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら、「この日本と申す泥沼に敗れたのだ」

「いいけ私が闘ったのは」司祭は思わず声をあげた。「自分の心にある切支丹の教えでござりました」

「そうかな」筑後守は皮肉な笑いをうかべた。「そこもとは転んだあと、フェレイラに、踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申したそうだが、それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言葉、まことの切支丹とは、この井上には思えぬ」

「奉行さまが、どのようにお考えになられてもかまいませぬ」

 司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。

「他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ」筑後守はつめたい声で言った。「かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことがある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもならぬ己れの弱さに、衆生がすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。だがそのパードレは、はっきり申した。切支丹の申す救いは、それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみるとそこもと、やはり切支丹の教えを、この日本と申す泥沼の中でいつしか曲げてしまったのであろう」

 基督教とはあなたの言うようなものではない、と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の今の心を理解してくれまいという気持が、言いかけた言葉を咽喉に押しもどした。(235-6)

 

〈私は人間の運命にたいして嗤っているだけです〉

 … 自分は日本に行き日本人信徒と同じ生活をするつもりだった。それがどうだ。その通り、岡田三右衛門という日本人の名をもらい、日本人になり……。

(岡田三右衛門か)

 彼はひくい声をだして嗤った。運命は彼が表面的に望んでいたものをすべて与えた。陰険に皮肉に与えてくれた。終生不犯の司祭であった自分が妻をもらう。(私はあなたを恨んでいるのではありません。私は人間の運命にたいして嗤っているだけです。あなたにたいする信仰は昔のものとは違いますが、やはり私はあなたを愛している)(237-8)

 

〈私は沈黙していたのではない〉

(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)

「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」

「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」

「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」

その時彼は踏絵に血と埃とでよごれた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。

「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」司祭は戸口にむかって口早に言った。(240)

 

〈あの人は沈黙していたのではなかった〉

 … 自分は不遜にも今、聖職者しか与えることのできぬ秘蹟をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒涜の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。(241)

 

*1:「信じるもののためにはいのちを捨ててもいい」

 これは見方を変えると常軌を逸した怖ろしい思想になりえます。幕府側の弾圧の論理(正当性)はそこにあるのでしょう。

 

*2:「人間は拷問に耐えられない」

  故に未だにグアンタナモ収容所は閉鎖されずに残っていますし、トランプ大統領も「拷問は有効だ」と正直に言ってしまっています!

 

*3:「拷問と近代的価値」と日本

 そう考えると、日本の刑事司法(人質司法)は「中世レベル」の価値観です。(詳しくは次の「ミドルエイジ・シャラップ事件」を参照のこと)

 

*4:棄教について

  棄教のプロセスを考えると、たんに信じている宗教を棄てるだけではなく、現地の何らかの宗教に改宗(転宗)するところまでを含めて棄教と呼ばれるのだと思います。もし、現地の宗教がイスラム教だったなら、キリスト教徒が棄教するという意味はたんにキリスト教徒をやめて無宗教になるのではなく、キリスト教徒からイスラム教徒になるということです。日本の場合は有力な一神教のようなものがなかったので、ロドリゴの名前が「岡田三右衛門」になるというのがそれにあたると思います。

 

*5:神と悪の関係

「神の沈黙」を神と悪の関係で敷衍するなら「なぜ神は悪を放置プレイし続けるのか」ということになると思います。