おんざまゆげ

@スラッカーの思想

【漫画】倉田嘘『百合男子』/百合に命を懸ける男

 一見イケメンな眼鏡男子高生・花寺啓介。普通に彼女とかいそうな彼なのだが、その正体は、少女同士の恋愛を主に描いた“百合”に萌えてしまう“百合男子”だったのだ・・・!! 

 百合が好きだ。しかしそこに男である自分は存在しない・・・いや、してはならない!!  そんな、多くの人々にとっては心の底からどうでもよすぎる苦悩を描いた、一人の男子の残念な成長物語。(Amazonより)

 

百合男子: 1 (百合姫コミックス)

百合男子: 1 (百合姫コミックス)

 

 

「百合あるある」が面白い

コミック百合姫』にて連載されていた〈百合に命を懸ける男〉の物語。

 倉田先生は凄い。少年ジャンプ的な格闘系の描き方と少女マンガ的な百合系の描き方を両方兼ね備えています。その二つを実際に同じ作品の中で描いてしまうという「暴挙?」に成功したところが凄い!

 全部で5巻ありますが、前半の1~3巻あたりまでは「百合あるある」がメイン。それと同時に啓介の百合男子的「苦悩」が描かれます。後半は「百合あるある」がネタ切れになる代わりにサブキャラのサイドストーリーなどが展開されています。

 

啓介の苦悩(こじらせ)

 啓介の百合男子的苦悩は、自己言及的にループしている「こじらせ」特有の症状なので、啓介が「百合を捨てる or 男をやめて女になる」のどちらかを選択する以外に脱出経路がありません。啓介はヘテロなので心も体も女になることは不可能(体は可能でも心は無理)。そもそも啓介は自分が男であるがゆえに百合に魅了されてしまったわけだから、どのみち「百合を捨てる」という選択肢しかありません。

 百合男子と言っても啓介のそれは趣味の域を越えています。百合と実存が直結してしまっている! 啓介にとって「生きること(自己の存在)」と「百合を極めること」は同じこと。こじらせ事由の淵源はそこにあります。趣味レベルなら百合と日常を区別し、「百合はファンタジー」だと割りきって生きるのですが、啓介の場合はその割りきりができない。百合と日常は同じ地平にあり、「百合こそ日常、日常こそ百合」という具合になっています。

 

〈啓介の百合世界〉は永遠に完成しない

 啓介の苦悩の仕方には大きく分けて二つあります。

 一つは、「我思う、故に百合あり。…だが、そこに我、必要なし」で表現されている「男」という存在そのものに関することです。「百合世界」は女だけの世界で構成されており、そこに一人でも「男」が存在すると百合世界そのものが崩壊してしまうという世界構成の問題に苦悩する。

 啓介の場合は、百合世界を外側からただ観察するだけでは満足せず、自分もその百合世界の中に溶け込みたいという願望があります。しかし、百合世界に自分が溶け込んで世界が完成したと思った瞬間、自分が男であるがゆえに世界が崩壊する。ゆえに「我、必要なし」。

 だが、啓介の世界は百合世界でのみ完成されるから「我思う、故に百合あり」に再び回帰し、またもや「そこに我、必要なし」が繰り返される。この永遠に終わらないループに苦悩するわけです。百合世界をただ外側から観察するのは趣味レベル。その百合世界へとダイブするのが実存レベルなのでしょう。これは生涯、果たされない夢です。

 もう一つは、「百合男子の定理」として定式化されている「惚れず、求めず、踏み込まず」で表現されているセクシュアリティ問題です。啓介にも男としての欲望があるので、好みの女性がいたら欲情が作動してしまう。付き合いたいと思ってしまう。しかし、百合世界が啓介の世界。「女は女と結ばれるべき」なのであって、百合男子たる者は「女×女」に介入してはならない。これが「惚れず、求めず、踏み込まず」です。この百合男子規範(~べき)で男としての欲望(~したい)を抑圧する。精神分析で題材になりそうな苦悩です。これは欲望がある以上は解決不能なので、こちらも永遠ループになります。

 

男が「百合好き」になる理由

 なぜ、男性が百合を好きになるのか。諸説ありますが、やはりセクシュアリティとは無縁ではないと思います。「萌えはセクシュアリティと切れるのか」という問題がありますが、確かに萌えの仕方によってはセクシュアリティと切れている場合もあるにはあります。たとえば「工場萌え」はセクシュアリティとは関係ない。

 おそらく、セクシュアリティの求心性ゆえに性的に百合に萌えるタイプと、セクシュアリティの遠心性ゆえに女性同士の関係(自らの男性性をキャンセルしてくれる女性同士の関係を外側から観察すること)にのみ萌えるタイプがあると思います。あるいは、自らの男性性を防衛しつつ性的欲望だけを安全に成し遂げるために百合に萌えているのかもしれません。

 その二つを分かつのは、実際に「百合で抜くか」どうかです。斎藤環さんはオタクかどうかの試金石を「二次元で抜ける」ということに見出しており、二次元で抜ける人はオタク、二次元で抜けない人はオタクじゃないと言っていました。*1 

 つまり、「萌え」と「抜くこと」を直結させる萌えの仕方と、抜かないけど萌えることはあるというタイプの人がおり、百合が好きな男子にもその二つが存在するということです。(BLが好きな男子にもその二つがあると思います)。

 ややこしいのは、抜かない人の中には「抜こうと思えば抜ける人」と「抜こうと思っても抜けない人」が存在し、この二つをどう考えるかです。無意識レベルでは本当は抜きたいのに防衛機制が働いて抜かない(抜けない)だけかもしれない。無意識のレベルまで遡れば「抜く/抜かない」も基準にならないかもしれません。

 僕の場合は今のところ後者(抜かない・抜けない)です。百合好きになった理由は、単に少年ジャンプ的なヘゲモニックな男性性が嫌いで、その反動から女性性に惹かれた部分があります。あと、姉の影響(幼いときに姉の女子的遊びに巻き込まれた・付き合わされた)というありがちな理由です。

 

「百合男子未満」の思い出の百合作品

 僕の場合はガチになれない「百合男子」未満。ただ百合っぽいのがちょっとばかし好きという程度です。趣味に入るか入らないかというレベルであって、百合作品にお金も時間も注ぐこともない。アニメや漫画や小説をチョイスする際の一つの指標として百合要素があるにすぎません。以下の二つの作品はそんな百合男子未満でも萌えた作品です。

 

『Blue』魚喃キリコ

 1997年刊行。2003年に映画化。

 女子高校生同士の青春ラブストーリーです。この作品が初めて読んだ百合漫画でした。人によっては百合漫画に含めないかもしれませんが、百合要素はかなりあります。

 ありがちな青春物語だけど、白と黒の絵柄で構成された独特の世界観が他の漫画では味わえない〈体験〉を与えてくれます。好き嫌いが分かれるクセのある絵柄ですね。ラストはハッピー的な切なさ系です。

Blue (Feelコミックス)

Blue (Feelコミックス)

 

 

 

『くちびる ためいき さくらいろ』森永みるく

 高校入学とともに互いの気持ちを知り、やがて掛け替えのない2人へとなって行く幼馴染みの奈々と瞳の物語を中心に、少女と少女の淡い恋模様を描くガールズラブ・コミック・オムニバス。

 互いを思う気持ちが高まるほどに障害となる女の子同士という関係。そして菜々と瞳が迎える結末とは……。

 

  森永先生の作品は、他の百合漫画では得てして捨象されてしまうような〈些細な機微〉を丹念に描いてくれます。ビジュアルも大切だけど、やはり機微あってのビジュアル。〈幼馴染み〉という設定も堪らない。〈友達から恋人へ〉という過程(葛藤と幸福)を丁寧に描いてくれるのがありがたいです。

 第一話のタイトルが「ともだちじゃなくても。」。これだけでOK、このフレーズだけでいい。奈々と瞳のメインストーリーも良いですが、やっぱり第二話の「天国に一番近い夏。」がおすすめです。最高に泣ける。ショートストーリーではNo.1です。

 

  

 

 

 

*1:「猿でもわかるオタク入門」

www.videonews.com