おんざまゆげ

@スラッカーの思想

京極夏彦『死ねばいいのに』/去る者は日々に疎し… 誰も「あなた」を覚えていない。

 死んだ女のことを教えてくれないか。三箇月前、自宅マンションで何者かによって殺された鹿島亜佐美。突如現れた無礼な男が、彼女のことを私に尋ねる。私は彼女の何を知っていたというのだろう。交わらない会話の先に浮かび上がるのは、人とは思えぬほどの心の昏(くら)がり。極上のベストセラー。(Amazonより)

 

文庫版 死ねばいいのに (講談社文庫)

文庫版 死ねばいいのに (講談社文庫)

 

 

そう、みんな「死ねばいいのに」 

 とあるアパートの一室で「鹿島亜佐美」は死んでいた。

 「鹿島亜佐美」とはいったい誰だったのか。
 どんな女性でどんな人間だったのか。
 そして、なぜ殺されたのか——。

 亜佐美と知り合いだった「ケンヤ」は、生前交友の深かった人たちを一人ひとり訪ね歩き、亜佐美について知ろうとする。彼女はいったいどんな人間だったのか。

 いま風の若者言葉を巧みに使用するケンヤは、まったく敬語が話せない男だ。いきなり姿を現すと、「アサミってどんな奴だったっすか?」と不躾な態度で質問を浴びせかける。超脱力系であり、「俺、頭わるいっすから~。何もわからないっす…」などと言いながら、アサミについての質問を繰り返す。

 しかし、ある程度の話を聞きだし相手の素性が分かりだすと、ケンヤは一転する。脱力系から説教系へと豹変するのだ。それまでずっとチャラチャラ、フワフワ、ダラダラしていたケンヤが突如として豹変し、「それっておかしくないっすか?」といって説教しだすのである。

 説教をくらった相手は、もちろん逆ギレする。しかし、ケンヤは怯むことなく説教を続ける。常に相手の心理的弱みにつけこむケンヤの舌鋒は意外に鋭く、相手はどんどん追い詰められていき、仕舞いには開き直る始末...。

 相手が開き直ったそのときにきまって浴びせかけるセリフが、
 「ならさ…。  死ねばいいのに。」である。

 なぜだろう…。

 その瞬間、スカッとするのだ。

 映画『空中庭園』において小泉今日子が披露した「死ねば!」に匹敵する。

 スカッと感が味わえる。

 いま、「死ねばいいのに」ボタンがあったら、おそらく、押してしまう…。

 陽水の歌。

 どこかで誰かが人知れず死んでしまうことよりも、いま雨が降っていて傘がないことの方が問題だ、というあの暗い歌。(傘がない)

 ケンヤはそういう人たちが許せない奴なのだ。

  去る者は日々に疎し。

 誰も「あなた」を気にしていないし覚えていない。

 そんな「あなた」よりも今日の雨の方が問題になるような社会に生きている。

 「自意識過剰」を得意気に注意する人がいるが、自意識過剰は社会の要請だ。KYは今やマナー違反のような空気になっている。KYにならないようにするためにはみんな自意識過剰にならなければならない。しかも、人から自意識過剰だと思われないようにしながら、自意識過剰じゃないですよ、というサインを出しつつ自意識過剰にならなければならない。

 KYを許さず、かと言って自意識過剰も許さず、しかし、実は誰も気にしていないし、誰も覚えていない(どうせ時間がたてば忘れるだろう)。気になるのは今日の雨というわけだ。

 本当は誰も見ていないのに自縄自縛の自作自演をさせられ、死んだら忘れられるだけ。誰も「あなた」なんか本当は気にしていない。なぜなら今日の雨の方が問題だから。

 このような構図は本当に死んでほしい(しかしその構図はおそらく真実だ)

 だからケンヤの「死ねばいいのに」はスカッとするのだろう。