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おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"が綴る日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想。

佐藤優『読書の技法 』/読書は「読むこと」よりも「探すこと」の方が重要である

読書 雑記

「書き抜きする」派

 佐藤優さんの個人的な読書法に関する本。
 特に目新しい部分はないが、「書き抜きをしている」という点がちょっと驚きであった。しかも、ノートに手書きで。
 そういえば、福田和也さんもノートに書き抜きする派だった。

 あと、興味深かったのは、何から何まですべてのことを一冊のノートに書く、という習慣。(スケジュールからメモ、本の書き抜きまですべて)

 

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

 

 

 速読と熟読の役割分担

 以下、速読に関するところを引用。


・『速読の目的は、読まなくてもよい本をはじき出すこと—— 一生で読める本の数は限られている』
 ・熟読できる本の数 新書を含め月に6~10冊程度
 ・月に最大10冊
 ・1年間に120冊
 ・30年間で3600冊

・『人間が一生の間に読むことのできる本の数はたいしてないのである。この熟読する本をいかに絞り込むかということが読書術の要諦なのである。』

・『数ある本の中から、真に読むに値する本を選び出す作業の過程で速読術が必要とされるのだ。速読の第一の目的は、読まなくてもよい本を外にはじき出すことである。』

・『基礎知識は熟読によってしか身につけることができない。しかし、熟読できる本の数は限られている。そのため、熟読する本を絞り込む、時間を確保するための本の精査として、速読が必要になるのである。』

 

無謀な速読術

 佐藤優さんはあらかじめ文学(小説や詩)は対象外にしている。確かに「罪と罰」を速読する必要性はないと思うし、速読するならむしろ読まない方が賢明だ(時間の無駄)。

 私は所謂「読書論」の本が好きで、今までいろんな方々の「読書論」を読んできた。気をつけなければならないのは、「読書論」を書いている方々は大学の先生やプロの物書きであるという点だ。

 そういう人たちは本を読むことが「仕事」である。本の購入の際は研究費や必要経費で落すことができる。つまり、一般人とは違って読書に対する条件がまったく異なるのだ。プロの物書きだったら当て嵌まる方法論が一般人にまで適用できるとは限らない。

 たとえば、齋藤孝さんは「30分で5、6冊読む(1冊あたり5分くらい)」という速読術を行っているという齋藤孝の速読塾

 もしこれが本当なら本屋で立ち読みするだけで事が足りるだろう。(しかし齋藤孝さんは独自の「三色ボールペン読書法」を行うので買わないとダメらしい。面倒臭い人だ。)

 そのような無謀な?速読術は一般人には必要とされていない。斎藤さんは大学教授だから必要だろうし、物書きとして(仕事として)必要だからやっていると思うのだが、私たち一般人は読書は仕事にならない(趣味レベル)。そこまでの必要性は求められていない。立花隆さんは本を所蔵するスペースを確保するためにビルを立てたが、一般人にはこんなモチベーションはありえない)

 つまり、立場の違いをまったく考慮せず、たんに自分の方法を押し付ける「読書論」が多々あるのだ。斎藤さんの速読術を真に受けて、ガンガン本を購入してガンガン飛ばし読みすることなどできない(読書は仕事じゃないから)

 

冊数は関係ない(問題にならない)

 佐藤優さんの『読書の技法』で一番重要だと思ったのは、読むべき本を選び取るためにこそ速読は必要だ、という点である。1日1冊本を読めたとして1年で365冊。これは圧倒的に少ない。巷に流通している本や過去の名作・古典を含めて考えると、私たちが読める本の冊数はどんな速読術を駆使しても絶望的に少ない

 従って「何冊読めたか」に意味はない。意味のある読書は「読むべき本を読めているか」である。読むべき本を読むためには、自分にとって読むべき本を探す・選ぶ・ハントすることが必要になる。読書は「読むこと」よりも「探すこと」の方が重要だということになる。(「読むこと」ではなく「探すこと」が重要だとしたら、積読にはそれなりの意義がある。)

 「読むべき本」は人によって違う。ある人は面白ければ何でもいいかもしれない。東野圭吾だったら何でもいいし、SFだったら何でもいいという人もいる。若いときは雑食で何でも読むが、ある程度の年齢になったら対象範囲を絞る人もいる。大学の先生方はとにかく古典を読めと勧めるが、これには一理ある。読書に対して何を望むか(面白さ・知識・情報・感動・勉強・教養)によって読むべき本は違ってくる。

 もし「面白さ」の基準で読書をするのだとしたら、手当たり次第すべての本を読むことは不可能なのだから、どうやって面白い本を探すかが問題になる。そのときに「速読」という方法を使うと見つけやすくなることがある。本来、速読術とはそのようにしか使えない技術なのだ。

 1ヶ月に1冊しか本を読んでいないとしても、この1冊が自分にとって読むべき本だったのならそれでいいと思う。自分にとって読むべきではない本を100冊読んでいるより、読むべき本を1冊読んでいる方がいいだろう(1冊でもなく1行でもいいと思う)。すべての本を読破することなどできないのだから、冊数なんかに縛られる必要はない。*1

 

*1:「冊数なんかに縛られる必要はない」について。

 「読書」を教育の一環として考えるなら、目標設定として「冊数」(何冊読めたか)を導入するのは効果的だと思われる。おそらく、読書について語るときに「何冊読めたか」という冊数設定にこだわるのは、読書することを教育の文脈(自己啓発)で捉えているからだと思う。「教育としての読書」にとっては「何冊読めたか」は重要だが、意味のある読書をするためには「何冊読めたか」よりも「読むべき本を読めているか」の方が重要である。

 

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