おんざまゆげ

@スラッカーの思想

『男と女の友人主義宣言―恋愛・家族至上主義を超えて』/労働・恋愛結婚・モテ幻想から「男を救う」ために

 著者の佐藤和夫さんは哲学やジェンダー論が専門の学者で、有名な著作に『仕事のくだらなさとの戦い』がある。これは「労働至上主義」を批判した本であるが、今回の本では「恋愛・家族至上主義」を批判している。

 資本主義社会を支えている二つの至上主義(労働と恋愛=結婚)に注目することは生きづらさが蔓延している昨今、とても重要であると思う。*1

 

 

恋愛至上主義〉から〈友人主義〉へ

 性愛関係としてのみ捉えられがちな男女関係(恋愛=異性愛主義)。

 著者は「恋愛・家族至上主義」の男女関係から新しい男女の関係(友人主義)へのシフトを提言する。

 著者の提言は若者に対してだけではなく、団塊世代へ向けたものでもある。著者自身、団塊世代の一人であり、昔は絵に描いたような恋愛・家族至上主義者だったそうだ。

 しかし、若い学生の恋愛模様を観察したり友達としての男女関係(友人主義)を経験することによって、激しく不安定な性愛関係よりも信頼に裏付けられた友人関係の方が人生を豊かにしてくれると実感するに至る。そして「恋愛主義」から「友人主義」へと移行したという。

 著者の提言は、「男女の友情は可能か?」と言ったような単純なものではなく、かといって、「恋愛よりも友情が上だ」と単純に言い切っているわけでもない。

 まずは今の日本社会が陥っている深刻な状態を真剣に受けとめるところからスタートする。今までのような恋愛・家族至上主義はどうやら行き詰まっているし、この先の雲行きもあやしい。あらゆる共同体が崩壊し、家族は空洞化し、個人がバラバラになってしまったような状態において、最も適切な人間関係の型式はいったい何なのか

 少子高齢化が爆発的に加速する今後、単独世帯は確実に増加する。恋愛でも家族でもない第三のオルタナティブがなければ個人はバラバラになったまま孤独に生きるしかない。

 

私は、人間の親密さというものが、家族や恋人にだけ求められるような時代を不幸に思う。人間には、家族や恋人ほどのべったりとした関係でなくても、信頼関係にもとづく安心感のある人間関係をつくる能力があるはずだ

 

 … 今、私たちが抱え込んでしまったどうしようもない焦りや孤独感、あるいは家族関係の困難などは、現代社会が家族以外の人間関係やつながりを、競争や勝ち負けの場のように信頼できないもの、安心できないものにしてきたからこそ、生じたものではないだろうか

 

〈恋愛結婚=ロマンティック・ラブ〉とは何か

 恋愛結婚とは、以下の4つがパッケージ化された国の制度である。

(1)「好き」という恋愛感情(=恋)

(2)「セックスしたい」という欲情(=性)

(3)「ずっと一緒にいたい」という愛情(=愛)

(4)「子どもが欲しい」という生殖願望(=生殖)

 実は、4つが一つにパッケージ化される必然性は一切ない(歴史的に4つが一つにパッケージ化されたのはごく最近である。)

 家父長制(家と家との取り決めによって親が決めた相手と結婚する制度)では(1)から(4)はすべて無視されたかたちで結婚が成立していた。

 

「恋」「性」「愛」「生殖」は分離可能

 ごく自然に考えてみよう。

「好き」という感情がなくても「セックスしたい」という欲情はありうるし、特段「好き」という恋愛感情がなくても「ずっと一緒にいたい」という愛情はありうる。

「ずっと一緒にいたい」と思ったとしても「セックスしたい」と思わないかもしれないし、「好き」という感情があっても「セックスしたい」という欲情はないかもしれない。

「好き」でもなく「セックスしたい」わけでもなく「ずっと一緒にいたい」わけではないけど「子どもは欲しい」という人もいる。

 

異性愛主義は幻想である

 もっと言うなら異性愛固執する必然性もまったくない。歴史学文化人類学の研究では生来の人間はヘテロセクシュアル異性愛)ではなくバイセクシュアル(異性も同性も愛する)がノーマルであるという。(たとえば「江戸の男たちのほぼ全員がホモセクシャル、またはバイセクシャルだった」という事実

 近代社会では「人間は文化的に異性愛を規範的に強制されている」と考えたほうがいい。

 …『 異性愛が普通というのは歴史的には全然ウソで、人間はみんな実はバイセクシャルなんだ』『むしろ文化的に異性愛を強制されているんだ』という考え方が、近年の専門研究の世界では主流になってきています。では、なぜ異性愛が強制されてきたのか……という研究は、今も盛んに議論されていますね …  (インポテンツも体位も“文化”として考察――性器や性的不能と社会を繋ぐ「異端と逸脱の文化史」の系譜 - 日刊サイゾー)

 

「好き」と「セックス」の関係

 一夜限りの性的関係(ナンパ)というのはありふれた現象なので、特段「好き」じゃなくても「セックスしたい」と思うことは十分にありえる。

 性的に魅力を感じる人に対してだけ「好き」という感情が働く場合は、「好き」と「セックスしたい」は分かちがたく結びつく。ただし、念願が叶ってセックスした後も「好き」という感情が持続しているかどうかは定かではない。セックス後にそれほど好きじゃなくなる場合も十分にありえる。

 それとは逆に「好き」という感情があるからといって直ちにセックス対象になるわけではない。「好き」だとしても「友達のままがいい」と思うことは十分にありえる。「好き」という感情には恋愛感情とは種類の違う「好き」という感情がありえるのに、異性に対する「好き」という感情がすべて恋愛感情だと解釈してしまうことは男女の人間関係の幅(選択肢)を狭めることになる。

 

恋愛結婚条件は経済条件に依存する

 日本社会で恋愛結婚とお見合い結婚が逆転した時期は下記の図のとおり1960年代半ばである。

 

f:id:tunenao:20170404105407p:plain

 

 しかし、その動き(逆転現象)は恋や愛が重視された結果ではない。

 高度成長期には労働者(正社員の男)の誰もが自動的に階層移動(子どもが親の地位や収入を超えること)が保証されており、この時期に限ってストック(資産)よりもフロー(収入)の価値が重視された特殊な時期だった。

21世紀の資本』のトマ・ピケティ氏の言うように、高度成長期というのは労働生産性が資産利得を超えていた奇蹟的な時代である。ゆえにそのような時期では「誰と結婚しても当たり外れのない状態」であった。

 そのような恵まれた条件下において、社内恋愛システム(疑似お見合い制度)が完備された日本の企業文化によって、あたかも自由な恋愛結婚のような結婚がお見合い結婚を上回ったのである。

 高度成長期の恵まれた条件が無くなれば、誰と結婚しても当たり外れのない状態は消滅する。正規労働と非正規労働の分断格差が著しくなれば、正社員の社内恋愛システムの恩恵に与れる人はごく少数である。

「当たり」を引くためにはその人がどのような人なのかを吟味する必要性が高まり、このような需要動機から結婚相手を吟味する活動(学歴や収入などをシビアにチェックする活動)=「婚活」が生まれた。

 要するに「恋愛結婚条件は経済条件に依存する」=「下部構造が上部構造を規定する」( byマルクス)ということである。

 1980年代後半から隆盛した日本の恋愛ドラマ(トレンディドラマ)は恋愛至上主義の価値観を礼賛するプロパガンダであったが、そのようなドラマの設定を可能にしていたのも「高度成長期の恵まれた条件」である。

 一部の社会学者はそのような恵まれた条件がなくなれば、恋だ愛だと言っているだけのドラマなんて馬鹿らしくて誰も見なくなるだろうと予言していたが、昨今の恋愛ドラマの衰退状況を考えると、その推論は当たっていたと言わざるをえない。テレビ離れも恋愛ドラマ衰退の一因ではあるが、すべての人がテレビを見るという発想も「高度成長期の恵まれた条件」に関係していると思う)

 

男の「モテ幻想」という病(=男らしさの病)

 男性性の一番大きな特徴として上げられるのが「上か下かに拘る序列意識」である。これは「ヘゲモニックな男性性(覇権的男性性)」と呼ばれている。男性性の病は「何に関しても上か下かの序列意識と結びつけて考えてしまうこと」に起因している。

 たとえば、結婚しているかどうか、恋人がいるかどうか、セックスしているか(童貞か)どうか、どんな仕事をしているか、どんな会社に勤めているか、どのくらい収入があるか、どこの大学を卒業したか、大卒か高卒か中卒か、仕事に就いているかなど。

 これらがすべて序列意識と結びつき、自分よりも下位に属すると思われる人をバカにしたり、上位に属すると思われる人に嫉妬したり、自分は下位に属するから「人生終了」だと勝手に思い込んだりする。

 モテ/非モテを過剰に気にする「モテ幻想」も男性性の病の一種である。*2

 上野千鶴子氏によれば、男は「女から承認されさえすればすべてのマイナスカードが全部逆転勝利できると思っている」という。男にとって女から承認されることは「気持ち悪い男ではないことの証明」=「男らしさの証明」になる。*3

 男性集団の序列意識によって作られた架空の階層構造の下位に属する男であればあるほど「モテるかどうか=童貞かどうか」と「働いているかどうか(無職・ニート・ひきこもりかどうか)」の二つに対して過剰に固執する傾向にあり、なかでも「彼女がいないこと」が最重要視される。彼女がいれば(=童貞でなければ=モテれば)働いていなくても序列階層の上位に一発逆転式に上昇できると思っており、このモテ幻想が強いがゆえに「彼女がいなければ(非モテは・童貞は)人生終了」だと思ってしまう。*4

 このようなモテ幻想が幻想であることの所以は、実際にモテたり結婚したりしても必ず幸福になるとは限らないからである。だが、モテ幻想を過剰に引きずっている男性はそのようなことを贅沢な悩みだと思っている傾向にあり、「モテないこと」と「人生終了」がどこまでもダイレクトに直結する思考(呪縛)から自由になれない。

 つまりこれは、男が男であるがゆえの特有の「自意識の病」である。この「男の病」が生きづらさの要因として強く作動してしまうような社会構造(規範や慣習)が日本社会には多分にあり、男が「男らしさ」にしがみつかないと人(=男)として社会的に承認されない社会構造(労働至上主義と恋愛至上主義)があるということである。

 

「友人主義」と「食事同盟」

 著者の主張に話を戻すと、著者が主張する「男と女の友人主義宣言」とは、要するに「男を救うプロジェクト」であると考えることができる。著者ははっきりとそのようには言っていないが、女性同士には既に友人主義的なサークルがあったり友人主義的なマインドが備わっており、男性にはそのようなサークルやマインドが欠落している。

 男性は仕事から引退した途端、生き方に迷ったり何をしていいのか分からなくなるアイデンティティ・クライシスに陥ったりする人が多い。このような男のクライスを救うプロジェクトが「友人主義宣言」なのだ。

 そこで著者がことさら重要視するのが「食事同盟」という家事労働である。これは「友情主義にもとづいた男女がみんなでわいわい言いながら食材を買ってきて食事を作り、みんなで楽しく話しながら食べよう」というリア充感の溢れるパーティーのことをさす。こんなことを今さら言われてもと思わず思ってしまうのだが、アーレント研究者の著者にとってはどうしても「食事を作り食べること」は「人間の条件」として譲れない必須条件なのだ。

 

「生産」「調理」「食べる」の分離化

 前近代社会(狩猟・牧畜・農耕社会)では、「食料を生産すること」と「食事を作ること(調理)」と「食べること」は共同体の成員による一連の共同作業であった。しかし近代社会では、それらすべてが分離する社会である。

 まず、近代的労働では生産は分業化され、誰が何を作っているのか分からなくなる疎外された労働を生み出した。この分業化は工業化社会(大量生産体制)を可能にしたが、工業化社会を支えたのは労働者の勤勉(長時間労働)であり、この長時間労働を可能にしたのは性別役割分業(男は仕事・女は家事)であった。

 それに加えてコンビニ化やファミレス化、外食産業があたりまえのようになり、ここにおいて「生産」と「調理」と「食べること」がすべて分離化されたのである。これによって長時間労働に疲れた労働者はわざわざ食材を買ってきて調理しなくても、コンビニなどから出来上がった製品を買ってきて食事することが可能になった。

 

本質的労働としての「食事同盟」

「食料を生産すること」は農家や酪農に就いていなければ難しいことであるが、近代社会にあっても「食事を作ること」は十分に可能である。食材から食事を作ることは人間の本質的労働の一部であり、これは「畑を耕すこと」と同じ次元に属する本質的労働(疎外されていない労働)である。そう考えると、長時間労働は「食事を作る」という人間の本質的労働から労働者を疎外することによって成り立っていると考えられる。だからこそ著者は『仕事のくだらなさとの戦い』という本を書かざるをえなかったのだろう。

 従って「食事同盟」とは、男たち(長時間労働を課された労働者)に「食事を作って食べる」という人間の本質的労働に目覚めてもらうこと、このような本質的労働を行う友情に根ざした共同体を復活させることである。

 

なぜ資本主義社会は恋愛・家族至上主義を必要としたのか

 経済成長の数値(GDP)の上昇だけを考えると、「家族が一つ屋根の下でみんなが一緒に食事を作って食べること」よりも「家族の一人ひとりが分断化された状態でコンビニから弁当を買ってきて一人ひとりが個室で食べること(孤食)」の方がGDP上昇に貢献することになる。経済成長至上主義=労働至上主義を支持する人たち(財界人や政治家)は後者をずっと推進してきたし、これからも推進し続けるだろう。「家族は大切だ」などと言っている保守的な人たちに限って経済成長を重視する傾向にある。これは明らかに矛盾している。

 そこから、なぜ資本主義社会は恋愛・家族至上主義を必要としたのかが分かってくる。要するに、経済を回すためには是が非でも労働に命を賭ける戦士が必要になり(労働至上主義)、この戦士(男性)が戦士であるためには家事や育児を負担してくれる補助要員(女性)が必要であり、戦士(男)と補助(女)のセットを作り出すには異性愛主義が必要であり、この異性愛主義をあたりまえだと思わせるためには恋愛=結婚が価値あるものだと思わせる必要があった(恋愛結婚イデオロギー)。

 そして異性愛主義のもとで産まれた子どもたちに近代教育(生産至上主義)の価値観を埋め込んで新たなる労働者を生産し、この新たなる命がけの戦士たちによってさらに経済を回してもらうのである。これらすべては資本の自己増殖によって動かされた物象化による自動プログラムの作動である。資本主義社会とは、ただ漠然と生きているとそのようなシステムによって「パブロフの犬」のごとく何もかもが条件づけられ操られてしまう社会なのだ。

 だからこそ資本主義社会では二つの至上主義(労働と恋愛=結婚)が大きな価値観となる。そしてここからモテ幻想のような自意識も生み出され、男性性の序列意識に規定された男の病も生み出され、社会の中に生きづらさが蔓延することになる。

 

男たちの敗戦ショックと劣等感の補償行動としての「経済成長至上主義」

 これも上野千鶴子氏の考察であるが、敗戦は「男たちの完全な敗北」(プライドの失墜)を意味した。これは家父長制の失墜である。総力戦に負けたということは、軍事戦・経済戦・人口戦・精神戦のすべてにおいて負けたことを意味し、これは男たちにとっては烈しいショック=トラウマの経験となった。

 この敗戦ショックのトラウマ(=劣等感)をバネにして生まれたのが「アメリカに追いつけ追い越せ」の経済至上主義=労働至上主義である。敗戦の屈辱を埋め合わせるためには埋め合わせるピースとしての「何か」が必要であり、そのピースとしての「何か」に代入されたのが「経済成長」(アメリカ超え)だった。

 世代が上になればなるほどその価値観をいまだに引きずっている。日本社会の枢要なポジションについている人たち(ほとんどがオヤジたち)は自らのプライドと経済成長至上主義が分かちがたく結びついており、長時間労働の是正に反対するのも女性の活躍に消極的なのも自らのプライド(劣等感の補償)に結びついているからだ。

 保守的な傾向にあるオヤジほど経済的実力と自分の実力を同一視しており、自らのプライド(劣等感の補完心理)に呪縛されている。だから、どこまでも「男の誇りは仕事」だと考える傾向にある。日本の男女平等が進んでいないのも子どもを産み育てやすい社会が実現しないのも、自らのプライド=経済成長を重視する「オヤジたち」の存在に起因すると考えられる。このようなプライドにしがみつく「オヤジたち」をソフトランディングさせるためにも「男を救うプロジェクト」は必須である。

 

「友情主義宣言」は「男を救うプロジェクト」

 著者の提言の要点だと思われる以下の部分を抜粋する。

 … 今の日本社会は、経済をどう運営するかという問題以外には、まるで解決すべき重要な課題はないかのように見える。しかし、それは本末転倒だろう。おそらく、経済の建て直しの名の下に人々がさまざまな形でつくりあげてきた人間関係を破壊し、十七世紀に近代社会の本質を見抜いたホップズの言うように、「万人が万人にとっての狼」になり、「万人の万人に対する争い」の場が、あたかも社会であるかのように転倒させられてしまったのだろう。社会が争いの場ではなく、人間同士が友人として支えあい、語りあい、交流しあえる新しい協同の場として、どうつくっていくのかが今こそ問われている。

 

 孤独死のほとんどは男性だというデータ(自殺も男性が多い)がある。これはモテ幻想による男の病と、仕事(職場)のネットワークから離脱したら頼れるのは妻しかいないという事実が背景として考えられる。「男は仕事」という規範を生き、高度成長を支えてきた団塊の世代の男たちの末路がそういったものであるとしたら、家族以外の人間関係ネットワークを新たに構築しなければならない。

 一方で、若者の不安定な雇用は「万人の万人に対する争い」を加速化させているとしか思えない。

 

【脚注】

*1: 佐藤和夫さんとは…

 その他にハンナ・アーレントの『精神の生活』や『政治とは何か』の翻訳も手がけている。

 

*2:モテ幻想は「男の病」

非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』の著者である杉田俊介氏は結婚して子どがいるが、それでも「非モテ」に死ぬほど悩んでいるという。この本を読むと「男の病」の深刻さが分かると思う。

 

*3:上野千鶴子さんと水無田 気流さんとの対談本 。

非婚ですが、それが何か! ? 結婚リスク時代を生きる』より

 

*4:なぜ「モテ/非モテ」が問題になるのか

〈モテ/非モテの組み合わせ〉

 (1)モテる人×モテる人(モテ・モテカップル)

 (2)モテる人×モテない人(モテ・非モテカップル)

 (3)モテない人×モテない人(非モテ非モテカップル)

〈仮説1〉モテる人もモテない人も「モテる人」と付き合いたい

〈仮説2〉モテる人は「モテる人」と付き合える確率が高い

〈仮説3〉モテない人は「モテない人」とは付き合いたくない

〈結論〉もし、モテる度合いに応じて(1)から(3)まで満遍なくカップルが成立するならモテ/非モテはそれほど問題にならない。モテ/非モテが格差として問題になるのは仮説3が支持されているからだと思われる。つまり、モテない人はモテる人と付き合うことによって自らの非モテ意識(劣等感)を解消しようとしているがゆえにモテ/非モテがカップル成立の格差問題になっていると考えられる。