… 自身の成功体験からほかの人々の人生を断罪するような物言いをしそうになってしまう、そんなこともあるいはあるかもしれない。もしそんなことがあれば、一息ついて思い出してほしい言葉がある。[ … ] 自己責任論に陥りそうになったら、このクスリを飲んでみていただけたらと思う。自分もたまに飲んでいる。…
BIに賛成しているハーバート・サイモンは強烈だと思います。
所得の少なくとも90パーセントは、社会資本によってもたらされている
… ノーベル賞を受賞した経済学者であるハーバート・サイモンは、豊かな国々において、個々人の努力ではなく、テクノロジーや組織および政府の技量を含む社会資本に由来する所得の割合を計算した。豊かな国々と貧しい国々とのあいだには、個人の努力の違いによっては説明されえない平均所得の大きな違いがあることをみて、彼は、アメリカ合衆国のような豊かな社会における所得の少なくとも90パーセントは、社会資本によってもたらされているだろうと述べている。そして、彼は、豊かな社会について言えば、「したがって、道徳的な観点から言って、われわれは、その富をほんとうの所有者に還元するために、90パーセントの税率の均一課税を提案してもさしつかえない」と論じている。[ … ] 豊かな国々に住む人びとは、社会資本の助けを借りない個人の生産性だけでは、彼らの所得のほんの一部分しか稼ぐことはできない…
… 連邦最高裁の偉大な判事であったオリバー・ウェンデル・ホームズは、しばしば、「税金は文明にたいしてあなた方が支払う対価である」と述べているとして引用される。そして、彼は、文明なしにはあなた方はお金をもてないだろうと付け加えたかもしれない。とりわけ、複雑な近代社会においては、もし、政府も税金もなければ、あなたの財産と認められるものを確定する方法はない。…
ピーター・シンガー『正義の倫理』p22−3
我々の能力の価値がいかに相対的なものであるか…
… アメリカの経済学者でノーベル賞受賞者のハーバート・サイモンは、「社会資本」に関する自身の著作の中で、人が何かを生産するとき、技術、ノウハウ、インフラストラクチャー、社会的関係・・・を我々の自由に使えるようにできる状況に非常に広く依存していることを示した。我々が自分自身の才能を表現できるのは、この社会的状況である。つまり、我々の能力の価値がいかに相対的なものであるか、ということである。ハーバート・サイモンによれば、富の生産機構において、社会資本は90%の役割を果たしている。彼はしたがって、90%の税率を正当化できるということを示唆している!…
『機会の平等?誰のため?』(Egalité des chances ? Pour qui ?)Patrick Savidan氏の記事ー「PAGES D'ECRITURE」さんが翻訳されています)
正当な功績という概念に基礎をもつ自由至上主義は、即座に拒絶される
… 正当な功績という考えに基礎をおいた自由至上主義に従えば、市場は生産上の貢献と他者にとっての価値に対して、人々に正当な功績があるものを報酬として与える。…
… 正当な功績という概念は責任という概念を伴う。どんなやり方でも責任をもたない結果にたいして正当な功績があると言うことはできない。それゆえ、市場の結果が遺伝的、医学的、社会的(相続を含む)運によって決定されるならば、それらは誰が説明しても、道徳的に正当な功績ではない。この種の運が、資本主義経済で人がどれくらいうまくやっていけるかを少なくとも部分的に決定することを誰もが否定しないから、単純で無限定な正当な功績という概念に基礎をもつ自由至上主義は、即座に拒絶される。
マーフィー/ネーゲル『税と正義』p34-5
市場からの見返りはある意味で報酬と見なされるという無反省な考え…
… おそらく人々は不正に利益を得ることよりも不当に損害を被ることを懸念するから、自らの経済的成功に貢献した他の要因のいくつかがいなかる意味でも自らの責任にかかるものではなく、それゆえ、それらが正当な功績を主張できない利益を生み出したと言いうるという事実をいともたやすく無視することができる。…
… だから、私たちが市場で稼いだものにたいして何の制約もない道徳的権原をもっており、より多い市場からの見返りはある意味で報酬と見なされるという無反省な考えは、資本主義経済への参加者の日常的感覚の中では自然に生じうるのである。
マーフィー/ネーゲル『税と正義』p39
日常生活に潜むリバタリアニズム
…「日常生活に潜むリバタリアニズム」の根底には所有に対する次の二つの見方がある。一つは自己労働を投下して獲得した財に対して、投下した当人は正当な権原(正当な資格)をもつというものだ(簡単に言えば「働いた成果は全部自分のものであり、それに対しては所有権がある」という見方だ)。もう一つは財の獲得は自己の能力行使の結果であり、能力を行使したという功績の結果として財を得たというものだ。この二つの考え方は理論的には異なるが、単純化のために、ここでは両者をまとめて「自己の能力は自分のものであり、それを行使した結果得た財に対して、その人は正当な権原をもち、それは能力発揮の正当な功績(desert)と見なされる」としておく。そしてこの考えは自由市場における自発的交換の連鎖によってできあがった財の分配も正しいと考える市場観に拡張される。…
[ … ]
一人一人が自分の能力を行使して獲得した財と、自発的交換によって移転した財からなる財の分配結果は正しいという考え方は二つの点で誤っている。第一に自己労働に基づく自己所有という考えは、各人の労働がそもそも可能となるためには、それを支える社会制度が不可欠であるという決定的な問題を考慮しておらず、その意味で倫理的基準とはならない。第二にこの考え方は、労働と交換の背後にある個人間の差異を真剣に考えていない点でも倫理的基準とはならない。
伊藤恭彦『貧困の放置は罪なのか』p60
以上。クスリでした。
ハーバート・サイモンの記事
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