おんざまゆげ

@スラッカーの思想

大野更紗『困ってるひと』/問題は「感動か笑いか」ではなく「存在の抹消」

 著者はある日、原因不明の難病におそわれる。

 大学院で「ビルマ難民」の研究をし、現地ビルマで活動中の頃だった…。

 

([お]9-1)困ってるひと (ポプラ文庫)

([お]9-1)困ってるひと (ポプラ文庫)

 

 

「参入障壁」のない本を書きたい…

 一風変わった闘病記。
 というか、かなり笑えるユーモアに満ちたエッセイ。
 事実は重いが文体は軽い。
 なぜこのような軽妙な「エンタメ文体」になったのか。

 著者はある番組で次のようなことを述べていた。
「自分の悲劇性や特殊性を強調したり、社会に対する告発や異議申し立てとして書くのではなく、小学生から高齢者まで誰もが読める“参入障壁”のない本を書いて、純粋に面白く読んでもらって(あわよくば)議論のきっかけみたいなものに寄与すればいいと思った。」

「参入障壁」のない本を書きたい…。

 そのような理由で「重々しい闘病記」ではなくユーモア満載の「笑える闘病記」になった。

 

二元論的視線(美談 or 無視)

 著者は「不条理に直面した人」(「難」の当事者)に対してメディアや外部者が向き合う視線が二元論的である点を指摘している。

 二元論的視線とは、「悲劇的で美しい存在」としての「美談」か、あるいは、「存在しない者」としての「無視」(見ないふり)か…。

「中間」があるはずだと著者は言う。中間のグレーゾーンにこそほんとうの生活の実態があるのに、メディアや外部者は二元論的に中間を切り捨てて見ようとしない。

 著者が書いたユーモア満載のこの本は、24時間テレビ的な悲劇的で美しい存在としての美談には容易に落とし込まれない。

 では、「バリバラ」的な「笑い」ならいいのだろうか…。

 

 「24時間テレビ vs バリバラ」ではなく…

 昨年展開された「感動ポルノ」論争。以下の意見が非常に参考になる。

「24時間的な感動か、バリバラ的な笑いか。この2つしか障害者の描き方がないと思われるのは、とても、しんどいなぁって思うんです。その両方の間に、多くの当事者がいると思うから」 

[…]

 「結局、『感動か笑いか』という議論では、捉えられない問題があるんですよ。みんな個人として、普通に生きていて、障害が大変な場面もあれば、そうじゃない時もある。置かれた状況は違うはずなのに、まとめて『障害者』全体として語られる。本当の問題はそこにあると思っています」

 

「もっと個人として見てほしいと私は思っています。私の体験として語ったことが、なぜか『障害者』が語ったことになっているときがある。でも、それはおかしいですよね。私が語れることは、私と周囲で見聞きしたところまでです。全障害者を代表しては語っていないのに……」

「感動か笑いか、だけではしんどい」24時間テレビとバリバラに出演 義足の女優が語るリアル

 

 やはり問題なのは、確実に存在しているのに「存在していないこと」にされる(消される)ことだと思う。「感動か笑いか」というのは単なるテレビ番組の演出形式の二元論でしかない。世の中にはテレビ番組の演出形式では描けない事象(感動も笑いもない日常)の方が圧倒的に多いはずだ。そして「障害」を「笑い」や「キャラ」に変換できる人や乙武さんのように何でも明るくポジティブに受け入れられる人はそう多くない。すべての障害者がテレビの演出する「笑い」にうまく乗ることができるわけではなく、そこに乗れない人や乗りたくない人は必ずいるはず。だから単純に「感動ポルノ」が批判されて「笑い」が肯定されれば、この「笑い」に乗れない人は排除される(否定される)ことになる。

 感動でも笑いでもない日常を生きている「平凡さ」をテレビは「平凡だから」という理由で取り上げない。そもそもテレビの世界は「非日常」であり、映画「FAKE」を製作した森達也監督も言っていたけど、たとえドキュメンタリーであったとしてもテレビや映画には必ず「ウソ」や意図的な演出が混入してしまう。つまり、テレビは日常の平凡さを平凡なままに捉えることができないメディアであり、ある事象を「まるごとそのまま」ではなく「切り取る」ことでしか表現できない。

 

「問題は、障害者を見えなくすることだと思っています」

 

「例えば、映画やドラマの中で、身体障害者が取り上げられるときは、主役が多いですよね。でも、リアルな学園ドラマや、街を映すときはどうですか?学校にいたはずの障害者、街を歩いているはずの障害者はそこには写ることはほぼない。障害者がいない、健常者だけの『きれいな世界』がそこにあるだけです」

 

「ある映画のエキストラの募集要項の中に、補助器具や介助者が必要な人はNGだとありました。彼らの意識の中に障害者を排除しようという思いはないでしょう。でも、これを読んだとき『あぁ私は参加できないんだ』と思いました。実際に、エキストラで障害者の姿はほとんどみませんよね」

 

「こうやって、リアルな世界の中にいるはずの障害者は、メディアからは消えていくのではないですか。私には、日常的に映らないことのほうが大きな問題に思えます」

 

[…]

 

 「障害者を社会からいないことにしちゃいけないし、見えないことにしちゃダメなんですよ」

「感動か笑いか、だけではしんどい」24時間テレビとバリバラに出演 義足の女優が語るリアル

 

 有名なお笑い芸人の方が自分の「欠点」を「笑い」や「キャラ」にすれば「いじめ」の対象ではなく「いじられる」対象になって「おもろいヤツ」になるから生きやすくなると言ったことがあった。しかし、お笑い芸人の人でも24時間365日「お笑い芸人として」生きているわけではない。たとえお笑い芸人だったとしても家に帰ったらキャラを演じずボケたりもせず「素の自分」のテンションで生活しているはずである。(だから「芸人」と呼ばれる。)

 そもそも「欠点」を抱えた人は「素の自分」(素人)であって「お笑い芸人」などではない。だとしたら、どうして「欠点」を抱えた人は「お笑い芸人」でもないのに「素の自分」の状態でわざわざ「欠点」を「笑い」や「キャラ」にしなければならないのか。お笑い芸人だって「素の自分」の状態のときはギャグやネタをやったりしないはずなのに…。

「欠点」を笑いにしたりキャラにすればいいと思っている人は、テレビの世界と日常の世界があたかも同じであるかのような錯覚に陥っており、そのことに気づいていない。苫米地英人さんは「テレビは洗脳装置である」と言っていたが、確かにそうなんだと思う。

 テレビの世界の中を生きている人(芸能人など)とその外側のリアルな日常を生きている人(一般人)を比べたら、圧倒的に後者の方がマジョリティであり、差異性や多様性も高い。しかし、テレビを観ている視聴者はテレビの中を生きている同質性の高い人たちこそが圧倒的マジョリティ=普通だと錯覚してしまう。世の中にはもっとたくさんの「違う人たち」が存在しているのに、それに気づかずテレビの世界が「リアル」だと感じてしまう。そして、テレビの世界に出てこない存在はこの世に存在しないかのような錯覚に陥る。まずはこのテレビ的洗脳に気づくべきであり、次に「存在しないこと」にされてしまった存在に気づくべきである。

 

「援助する側」から「援助される側」へ

 著者は「援助する側」から「援助される側」になり、ひとを「助ける」とか「援助する」とは本当のところいったいどういうことなのかを考えざるをえなくなる。そして、ある人からの何気ない言葉によって「ぐさっ!」っと刺される(ぐさっ体験)

 外側から観察すること(観察者)と内側からじかに体験すること(当事者)の絶望的な溝を埋めるすべはあるのだろうか。

 

… タイやビルマで、路上や難民キャンプで、苦しむ人たちの姿を見てきた。貧困の姿もまざまざと見てきた。しかしそれは、いくら旅を続けようが「他人事」でしかなかったのかもしれない。

[ … ]

「今まで、自分は何でもできて、自分は世界を変えられると思ってたんでしょ」 


「人ひとりが一日生きるって、すごい大変なことだって、よくわかったでしょ」

ミャンマーの難民助けようと思う前に、自分のすぐそばの足元見ないとねえ」

 

…………ぐさっ。とどめが刺さった。

 

… わたしは、この世の巨大な地球の生態系のなかで、いかに自分が他人に頼って生きてきたかに打ちのめされた。「当たり前」だと思っていたことがいかに奇跡的なことだったか。いかに生きる苦労というものをわかっていなかったか。いかに「口だけ」人間だったか。…

 

… わたしは、「難」の「観察者」ではなく、「難」の「当事者」となったのだ。

 

 自らは暖かい部屋の中にいながら寒さで凍え死にそうになっている人のことを「思う」ことや「想像」すること、「理解」することはできるかもしれない。しかし、思ったり想像したり理解したりしても、暖かい部屋の中にいるその人は、凍え死にそうになっている人の寒さを「感じる」ことはできない。暖かい部屋を出て自らも同じような寒さにおそわれないかぎり、観察者はどこまでいっても観察者である。

「認識」を何十年と積み重ねても一瞬の体験には敵わないし、考えることよりも感じることの方が生きる上で重要だと思う。どんなことにもそうなってみて初めて分かることがある。そうなってみないと分からないこと。未体験ゾーンを言葉で考え理解した気になってはならない。

老い」や「死」を避けられない以上、観察者はいつか必ず「当事者」になる。そのとき初めて暖かい部屋から出ることを許され、寒さで凍え死にそうになっている人のもとへと赴き、共に生きることができるようになる。観察者にとってできることは、その日が来るまでどこまでも自分は観察者でしかないことを自覚しつつ、観察者であることをやめないことだと思う。