「いじめられる側にも非がある」
いじめ問題について議論しているときに今でもよく語られる「いじめられる側にも原因がある」とか「いじめられる側にも悪い点がある」といった「ぶっちゃけ」論。
彼らはなぜそのような論理を取るのだろう。
『いじめの直し方』によれば、そのような論理は「原因」と「責任」を混同することから起る間違った議論であると言う。
「いじめられっ子にも責任がある」という発言の多くは、どうしてそうなったのかという「理由」と、誰の責任かという「責任」とをごちゃまぜにしてしまっている。
例えば、君が図書館に行ったときに、たまたま自転車に鍵をかけないでいたら自転車を盗まれたとする。そのことを誰かに言ったら、「それは君が悪いよ」と冷たく突き放されてしまった。でも、これって、おかしくない? 悪いのは、どう考えたって盗んだ犯人だ。君は悪くはないはずだ。
確かに、君が鍵をかけていれば、自転車を盗まれる確率は減ったかもしれないし、これからも自転車に乗り続けられたかもしれない。でも、それはあくまで、盗まれてしまった「理由」が、「鍵をかけなかったこと」にあったという話であって、君が「悪い」とか、君に「責任がある」とかっていう話とは別のはずだ。
いじめに関しても同じ。性格が暗い子を、周りがいじめていたとする。それに対して、傍観者が「彼が明るければいじめられなかった」としたり顔で言う。それはそうかもしれない。でも、だからなんだろう?
そう、たとえいじめられている人に「理由」があったとしても、それはその人が「悪い=責任がある」ということにはならない。
そもそも、どんなに「理由」があっても、いじめを正当化することはできないんだ。
「いじめられる側も悪い」ってのは、いじめを解決できない人にとってのニセ弁護にしかならない。… (56-7)
つまり、「理由がある=原因」と「責任がある=悪い」はちがう概念であり、常に原因=責任となるわけではない。「自己責任」論において「自己原因」と「自己責任」を混同するのも同じく間違いである。
「失敗」と「責任」
チームスポーツ(たとえば野球やサッカーなど)においても「原因」と「責任」の混同が起ることがある。
先日まで行われていた高校野球では、毎年、野手による致命的な失敗(エラー)によって負けてしまうケースがよくある。「一回負ければ終わり」という過酷な条件であるため、そのような失敗を起こした選手はとても辛いだろうと思う。
そうような致命的な失敗による負け試合を致命的失敗を引き起こした選手ひとりに負わせてしまうような言説、たとえば「あいつのせいで負けた」とか「あいつがエラーをしていなければ勝てたのに」と言ったりすることは明らかに間違っている。
そのような間違った言い方は「失敗」と「責めを負うこと=責任」を同じことだと勘違いしているのである。先ほどのいじめの事例と同じ間違いをおかしているのだ。
責めを負う立場にいるのは常に「監督」であり、選手ではない。選手は失敗しても、責任はない。ある選手が負けた原因をつくっても、その選手は悪くない。
エラーをした選手は悔しいだろうし責任を感じるかもしれない。だが、本人が「責任を感じる」こととその選手に「責任がある」こととはまったく違うことである。本人がどう感じようが責任は監督にある。
だから、試合を観ていた第三者が「あいつのせいで負けた」とか「あいつが失敗をしていなければ勝てた」という言い方は、あたらない。
チームスポーツであるなら、一つの試合を分析すれば無数の負けた理由を見いだすことが可能であり、その無数の負けた理由をたった一人の選手に押しつけて「おまえのせいで負けた」などと言うことはそもそも不可能である。
スケープゴート(=生け贄)
原因と責任を同じことだと思ってしまう深層には、おそらくスケープゴートの心理があるのだと思う。
いじめという現象はスケープゴートの一種であり、いじめの原因をいじめ被害者にも押しつけて「いじめられるあいつも悪いのだ」という心理はスケープゴートの心理である。
チームスポーツにおいても、負けた試合の原因を致命的な失敗をしたたったひとりの選手に押しつけて「あいつが悪い」と戦犯化するのはスケープゴートの心理だろう。
「ダメ上司」の責任逃れ
失敗と責任を分離する発想がないと、役人思考の責任回避=失敗回避をするようになる。失敗することを過度に恐れるようになったり、失敗して責任を取らされるのが嫌なので過剰に安全な道を行こうとするようになる。
組織論的に言うなら、失敗と責任を分離し「失敗してもいいから思う存分やれ。責任は俺が取る」という組織にした方がパフォーマンスが上がるはずだ。ダメな上司の典型は「俺に原因=責任はない。責任は原因を作った部下にあるのだ」と言った責任逃れである。
つまり、原因や失敗と責任を分離して考えることは、道理的にも合理的にも理にかなっている。だから「いじめられる側にも非がある」という論理はダメ上司の論法と同じなのだ。