自分は偉そうに物申しているのではないか…。
「上から目線」で物を言っているのではないか…。
そうやって過度に気にする人がいる。
逆に、「偉そうに言うな」とか「上から目線で言うな」と文句を言う人達がいる。
そのような人たちは高橋源一郎さんの「威張るな!」というエッセーを読んでほしい。
…ものを書く人はそれだけで不正義である――作家太宰治のモラルはこのことにつきている。ものを書く。恋愛小説を書く。難解な詩を書く。だれそれの作品について壮大な論を書く。政治的社会的主張を書く。記事を書く。エッセーを書く。そして、文芸時評を書く。どれもみな、その内実はいっしょである。…
…もの書くということは、きれいごとをいうということである。あったかもしれないしなかつたかもしれないようなことを、あったと強弁することである。自分はこんなにいいやつである、もの知りであると喧伝(けんでん)することである。いや、もっと正確にいうなら、自分は正しい、自分だけが正しいと主張することである。「私は間違っている」と書くことさえ、そう書く自分の「正義」を主張することによって、きれいごとなのである。もの書く人はそのことから決して逃れられぬのだ。…
人生を「半分」降りる (中島義道 p49-53)
(Gallery RENGYOのサイトに全文あり)
どんなに優しく丁寧に物腰穏やかに言ったり書いたりしても、「言うこと」「書くこと」「発言すること」に付随する傲慢さからは逃れられない。(と、書いているその私の文章も傲慢さから逃れられない。…)
「上から目線」もまったく同じである。「上から目線」であることを指摘するその眼差しは、常に「上から目線」であることから逃れられない。「言うこと」「書くこと」「発言すること」はその内容に関係なく常に「上から目線」である。
もし、「言うこと」「書くこと」「発言すること」に付随する傲慢さや「上から目線」から逃れたいなら、沈黙しなければならない。沈黙を破るなら、傲慢さや「上から目線」を受け入れるしかない。
…おのれの「正義」しか主張できぬ不遜なもの書きの唯一のモラルは「他者への想像力」である。だが、そのいいかたはすでにきれいごとであろう。必要なのは「威張るな!」のひとことである。最低のもの書きのひとりとして、ぼくはそのことを烈しく願うのである。…
もし、沈黙を破るなら、「他者への想像力」をもち自分で自分に向かって「威張るな!」と内省するしかないだろう。
と、書いている私の文章も傲慢さから逃れられない……
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