おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"が綴る日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想など。

優生思想を生みだす幸福論/能動態的幸福の世界

 

 何でもないような事が 幸せだったと思う

 何でもない夜の事 二度とは戻れない夜

 

『ロード』(THE 虎舞竜)の有名な一節。

ちなみに「ロード」には第十三章まであるらしい(全部聴いたことはない)

 壮大な世界観である。

 

「何でもないようなこと」を後から振り返って、「あのような何でもない日々は幸せだったのかもしれない…」と思うことがある。

 このような「ロード」的な幸福の感じ方を〈受動態の幸福〉と捉えるなら、世の中のほとんどの幸福論は〈能動態の幸福〉だと思う。

 能動態の幸福というのは人間の欲望と関係しており、人間が生みだす罪深さとどこかで連動しているのではないかと私は思っている。幸福というのは常に受動態でしかないものなのに、それを強引に能動態に変換するときにムリが生じるのだと思う。

  

 幸福の欠如態モデル

「ロード」の世界観はあくまで受動態の世界であるが、これを強引に能動態の世界に変換することができる。

「何でもないような事」が幸せになるためには、何らかの「欠如」や「悲劇」が必要になる。「悲劇が起こった世界」とそれが起こっていない世界(何でもない世界)を比較すると、「何でもないような世界」は悲劇が起こっていないぶんだけ幸いに思えてくる。

 このような「何でもない世界/悲劇が起こった世界」の比較によって、「何でもないような事」を幸せだと思うように能動的に持っていくことが可能になる。

 そのような能動態の幸福が暗黙に想定しているのは、「欠如や悲劇が起こらなければ幸福である」という消極的な幸福観である。

 プラスマイナスゼロの世界を想定し、この世界から「欠如」(マイナス)が発生しないかぎりその世界は幸福であり、欠如が発生すると不幸になる。「何でもないような事」が幸せだと思うのは「欠如」が発生していないからだと考える。

 このような幸福観は〈幸福の欠如態モデル〉と呼ぶことができる。欠如態とは「本来,備わってしかるべき性質が欠如していること」を言う。

「何でもないような事」とは、つまり「平常」「正常」「あたりまえ」「ふつう」と言った意味である。

「歩けること」は歩ける人にとっては「何でもないような事」かもしれない。ここから「何でもないような事が幸せなんだ」と能動的に幸福を捻り出すためには、「歩けることは幸せだ」という方向に持っていく必要がある。そして、「歩けることは幸せだ」という価値観をつくりだすためには「歩けないことは不幸である」という欠如態を持ってくるしかない。

 つまり、「何でもないような事」=「平常・正常・あたりまえ・ふつう」が特別に幸福であるという能動的幸福の捻り出しは、欠如態を前提にする以外にない。

 私はこういうことが優生思想の始めの一歩になっているのではないかと思っている。

  

幸福(欲望)と罪の関係

 能動態的幸福の欠如態モデルは、以下のような価値観を生みだしている。

 ・歩けることが幸せなのは歩けないことが不幸だから

 ・健康が幸福なのは病気が不幸だから

 ・目が見えるのが幸福なのは目が見えないことが不幸だから

 

 幸福を能動態に変換するとき、そこには欠如態が必要になる。この欠如態の価値観が優生的なものの見方を生みだすのではないか。

 これは単なる一つの事例にすぎないと思う。受動態でしかない幸福を能動態に変換することは、必ずどこかにムリが生じており、世界のなかに欠如態のような歪んだ前提を持ち込まざるをえない。

 幸福を欲望することが罪になるからくりには、そのようなしかけがあるからではないだろうか。

 

「ほのさん」が「欠如態」にならない世界

 能動態の幸福ではなく、欠如態モデルでもない世界がある。

 以下は長期脳死状態の西村帆花(ほのか)さん(愛称ほのさん)の母が綴った手記の一節である。

 …そんなほのさんを見ていると、かあさんの価値観は根本から変わっていった。まず、「健康で生まれてくる」ということが当たり前ではない。健康な状態を当たり前と考えるから、当たり前のように何かできないと、そこから引き算して「障害」と名づけられる。だが、ほのさんの状態をほのさんの「健康」と考えるなら、何を引き算する必要があるだろうか? ほのさんのこの状態を、ほのさんの「健康」とするなら、いろいろなことをするのに、少し手助けが必要なだけ。少しお手伝いすれば、ほのさんは何だってできる。そう思うようになっていった。

 

 はじめは、呼吸器をつけて生きているのが、「ほのさんの個性」だと、わざとらしく言ってみたりしていた。自分に言い聞かせるかのように。でも、それはいつしか本当にそうなった…

 

長期脳死の愛娘とのバラ色在宅生活 ほのさんのいのちを知って (西村理佐 2010:p203)

 

長期脳死の愛娘とのバラ色在宅生活 ほのさんのいのちを知って

長期脳死の愛娘とのバラ色在宅生活 ほのさんのいのちを知って

 

 

生権力の歴史―脳死・尊厳死・人間の尊厳をめぐって』(小松美彦 p350)より

 

 

 以上のほのさんの母が見ている世界は、欠如態を前提にした能動態的幸福の世界ではない。それとはまったく逆の世界である。幸福を能動的に捻り出そうとしていない。世界に対して受動的である。

 だから、そのような世界では、ほのさんは「欠如態」ではない

 ほのさんが「欠如態」になるのは、私たちが能動態的幸福の世界(価値観)を採用し、受動態を能動態へと変換して幸福を能動的に捻り出そうとするからである

 

 

 

 

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