おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「良心なき善良な人」/スノーデンとアイヒマンのはざまで

“リョウシン”ちがい

先生:「その問題は君の“良心”に従って決めるしかない…。私がとやかく言えるような問題じゃないよ。」

生徒:「そんな… 私はもう“両親”なんかに従いたくありません…。ずっと我慢してきたんですから…。」

 

上司:「君はそれでいいと思うのか? 君にも“良心”というものがあるだろう?」

部下:「はい…。お陰様で今も長野に住んでます。“両親”にはずっと迷惑をかけっぱなしで…。親孝行したいです。いま以上に仕事、がんばります!」

 

 上の事例は本当にあった話らしい。高校生のときの授業で「良心とは何か」みたいな話になったときに先生が言っていた話である。

 日本のような社会では、「良心」の問題を言いたくて“リョウシン”と言うと、なぜか「両親」の問題になってしまう。それほど「良心」が問われず、「良心」という概念が根付いていない(あるいは「良心」よりも「両親」が重視される)ということである。

 

良心の問題

 ヘイトスピーチは問題になる。だが、「ヘイト感情」じたいは問題になりえるだろうか。心のなかでヘイト感情を抱いている者がいても、そのヘイト感情をいっさい表に出さなければ(誰も知り得ないのだから)問題になりえない。

 しかし、ヘイト感情を抱いていることを「自分自身」は知っている。このとき良心は己のヘイト感情を許すのだろうか。

 表面的には「ヘイトスピーチは差別だ」と言っている人が、実は心のなかでヘイト感情を持っているとしたら…。これは明らかに矛盾していることになる。

 その矛盾を糾弾することができる人は、その矛盾に気づいている自分自身だけである。このようなときに良心が問われるのだが、本音と建前を分離して自分をごまかすことも可能である。

 

良心=信仰(宗教)

 良心と信仰(宗教)はイコールで結ばれる。良心とは要するに信仰の問題、宗教の問題と直結しており、西洋近代=キリスト教の影響のもとではじめて良心と呼ばれるものは誕生したと言われる。

 キリスト教の告解を通じた罪と許しの贖罪意識が「自己の内面を省みる」という行為態度エートスを生み、ここから「神に対する自己(=「個」)」→「個人の内面」→「個人の心」→「個人の罪」という流れから「個人の良心」が析出される。

 だから「神の視線」が内面化したものが良心になる。「神(=良心)」は常に「私」を見張っている(=見守っている)。

 たとえ「みんな」や「世間」が見ていなくても神は常に「私」を見ている。みんなは「私の心」を知らなくても神は「私の心」を知っている。だから、みんなを騙せても神を騙すことはできない。

 

道徳と倫理

 「みんな=世間」の規範は道徳、「神=信仰」の規範は倫理に対応している。道徳は世間体(周囲の視線)、倫理は良心(神の視線)に対応する。「道徳=世間体」は人と人との関係(社会契約)から生まれ、「倫理=良心」は神と人との関係(神との契約)から生まれる。

 道徳や法の世界は、極端にいうと「バレなきゃOK バレたらアウト」の世界である。しかし、倫理や良心の世界は「バレなくてもアウト」の世界だ。

「バレたらアウト」というのは、バレたら周囲から糾弾されるから結果的にアウトになるということ。「バレなくてもアウト」というのは、周囲から糾弾されなくても良心の呵責(自責)からアウトになるということである。

 

良心なき善良な人

 差別と差別感情の矛盾。建前は「差別はダメ」、本音は「差別感情アリ」。この矛盾を晴らすために「バレなきゃいいだろう」(匿名だから)とばかりにツイッターや匿名掲示板などに差別的な発言を書き込んだりする。

 そのような人は日常的には「とても優しくて善い人」かもしれない。ただ、そこに良心はない。「良心のない善良な人」なのだ。

 良心のない善良な人は、道徳と法はきっちりと遵守する。その一方で「バレなきゃOK バレたらアウト」の世界のなかで本音と建前を使い分けながら「矛盾なく」生きることができる。

 良心のない善良な人は、みんながやっていることは自分もやり、みんながやっていないことは自分もやらない。一番恐れることは「みんながやっているのに自分だけがやらないこと」と「みんながやっていないのに自分だけがやること」である。

 

スノーデンの良心

 米国政府国家安全保障局 NSAは、テロ対策と称して米国市民の個人情報を秘密裏に大量収集していた。この一件をNSA職員だったエドワード・スノーデンはマスコミに告発する。情報収集行為に違法性はないと主張する米国政府は、情報漏洩罪などの容疑でスノーデンを国際指名手配した。

 スノーデンの行った内部告発は、スノーデン自身の良心の問題であったと思う。もし、スノーデンが道徳や法律を遵守するだけの「良心なき善良な人」だったら、わざわざ不利益になる内部告発などしなかったはずである。

 また、スノーデンが「みんな」や「世間」の目を恐れて空気に支配されるだけの人間だったら、内部告発などしたくてもできずに、建前と本音をうまく使い分けながら今もNSAで順調に働いていただろう。

 

アイヒマンの良心

 ナチス親衛隊中佐だったアドルフ・アイヒマンは、ナチス第三帝国ユダヤ人大量虐殺の責任者としてエルサレムで裁判にかけられ、有罪・絞首刑になった。

 アイヒマン第三帝国の法律に従っただけだった。命令された任務を誰よりも懸命に遂行し、誰よりも忠実に法的義務を果たしただけである。

 第三帝国の法律では、役人は殺害が義務になり、市民の道徳はそれに加担することを要求する。ここでは殺害しないことが違法になり、殺害に加担しないことが反道徳になる。

 平時に生きる私たちが「自分はアイヒマンのようにはならない」などと言い切れるだろうか。ひとたび第三帝国のような国ができてしまえば、スノーデンのような人であっても「アイヒマン」になってしまうかもしれない。それに、たとえアイヒマンが「スノーデンの良心」を持っていたとして、彼にいったい何ができたというのだろう。

 

「スノーデン」と「アイヒマン」のはざまで

 みんながみんな「スノーデン」になれるわけではない。かといって、みんなが「アイヒマン」になってしまうのも問題である。

 私自身は「アイヒマンのようになんてならない」と言い切れる自信がないし、もちろん「スノーデン」になんてなれない。でも「良心なき善良な人」にはなりたくない。

 人間は弱い生き物だと思う。誰も見ていなければ「逃げる」かもしれない。建前と本音を器用に使い分けて道徳と法律を守れば「善良な人」にはなれる。しかし、国がおかしくなり社会が荒廃し、愛が衰退すれば「良心なき善良な人」は残酷なことを平気で行える人間になる。

 何の信仰も宗教も持たず、自分の心のみで確固たる良心は持てるだろうか。神に見張られ見守られることなく確固たる良心を持てた人などいるのだろうか。

 私は何の宗教も信じていない。ただ、人を差別するような人間にはなりたくないし、差別感情を持ったまま生きるのも嫌である。

 

 

 

暴露:スノーデンが私に託したファイル

暴露:スノーデンが私に託したファイル