おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"がつづる日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想など。

内なる差別感情/「障害者になりたくない」という差別心について

「障害」は嫌だ

「目が見えるのと、目が見えないのと、どちらがいいですか?」と言われたら、私は「目が見える方がいい」と答える。目が見えなくなるのは端的に「嫌だ」と思う。その方が不便だからだ。

「目が見えないのは嫌だ」(目が見える方がいい)と答えることは、「視覚障害者になるのは嫌だ」(目が見える健常者の方がいい)と言ってることに等しい。ということは、「目が見える方がいい」→「目が見えないのは嫌だ」→「視覚障害者になるのは嫌だ」→「視覚障害者になりたくない」と言うことになる。

 従ってこれは、「視覚障害者」を否定していることになるのではないか…。

「障害者を差別してはいけない」と思っていながら「自分は障害者になりたくない」とも思っている。これは矛盾していると思う。前回述べたように、「ヘイトスピーチは差別だ」と言いつつ「ヘイト感情」を抱いているのと同じである。

「自分は障害者になりたくない」と思っていることと「障害者を差別してはいけない」と思うことは、いったいどのように両立可能なのか。

 相模原殺傷事件が起こった一年前、私は以下の記事でそのことについて考えてみたのだが、絶望的にまったく答えが出せなかった。

 

 

「感動ポルノ」に滑っていく心理

 ごく一般的に言って「目が見えなくなるのは嫌だ」と思うことは、「それが当然だ」とまでは言わなくても、ある程度そう感じることは自然なことだと思う。*1

 病気や障害よりも健康の方がいい、という価値観を否定するのはむずかしいし、ことさら否定する必要もない。問題はその先にある。

「目が見えなくなるのは嫌だ」という気持ちを持ったまま目の不自由な人を見たとき、「自分はあんなふうになりたくない」と思ってしまう。そして、「自分はあんなふうになりたくない」という気持ちを持ったまま目の不自由な人を見たとき、同情と憐れみから「あんなふうな人」が「気の毒な人」「不憫な人」「かわいそうな人」に見えてくる。

 そのように「気の毒な人」「不憫な人」「かわいそうな人」だと思ってしまう心理から、ただ普通に生きているだけなのに「あの人はがんばっている」「あの人は努力している」「あの人はいい人だ」などと思ってしまう“感動ポルノ”に滑って行く。

 ひとたび感動ポルノにたどり着くと、始めに思っていた「障害は嫌だ」という気持ちと「障害者になりたくない」という否定的な感情はすっかり忘れている。つまり、ごまかすことに成功している。

「自分はあんなふうになりたくない」と思ってしまった「あんなふうな人」は、「かわいそうな人だけどがんばっている善い人」というふうにマイナスをプラスに評価することによって、内なる差別心をはじめからなかったことにする。

 そのように自分を騙すことによって、「障害者を差別しない自分」と「障害者になりたくない自分」を調和させ、何の矛盾も感じずに生きることが可能になる。

 

内なる差別感情

 私たちは「目が見えなくなること(障害)」だけに限らず、様々なことにおいて「嫌だ」と感じることが多い。成績が良いことより悪いほうが嫌だし、見た目が美しいことより醜いほうが嫌だし、若く見えることより老けて見えることのほうが嫌だと思うだろう。これと同じように、健康より病気や障害のほうが嫌なのだ。

 私たちが積極的に何かを望むとき、あるいは幸福を望むとき、その反対側に表れるのが回避すべき「嫌なこと」である。成績の上昇を望めば成績が悪くなるのは嫌になるし、見た目の美しさを望めば醜いことは嫌になるし、若さを望めば老化は嫌なことになる。病気や障害が嫌なことになるのも、私たちが健康を望むからだ。

 私たちが能動的に幸福を望むとき、その反対側に忌避すべき「嫌なこと」が世界に生みだされる。ここから「障害/健常」「病気/健康」「醜い/美しい」「老い/若さ」という区分が生まれ、「障・病・醜・老」は嫌だから「障害者・病者・醜者・老者」になりたくないと思うようになる。

 おそらく、ごく自然に自分の欲望のままに「幸福になりたい」と思って生きていると、ごく自然に人を差別し、ごく自然に悪をなしてしまうのが人間という生き物なのだと思う。

 

「あんなふうになりたくない」

 先ほど述べた「感動ポルノに滑っていく心理」はすべての嫌なことについて当てはまることだ。

 自分の髪の毛が薄くなることが嫌な人が、実際に「髪の毛の薄い人」を見たらどう思うか。「自分はあんなふうになりたくない」と思うのではないだろうか。そして、「自分はあんなふうになりたくない」と思って「髪の毛の薄い人」を見るとき、「気の毒・不憫・かわいそうな人」だと思ってしまうのではないか。あるいは、単に「髪の毛の薄い人」を見て「ハゲ」と言ったりして馬鹿にするのかもしれない。

「〇〇になるのは嫌だ」と思っているとき、実際に「〇〇な人」を見て「自分はあんなふうになりたくない」と思う心理。あるいは、「あんなふうな人」を馬鹿にする心理。

 問題になっているのはそのような差別心である。

 私たちが「自分はあんなふうになりたくない」と思って「あんなふうな人」を見るとき、その先に待っているのは「気の毒・不憫・かわいそう」と思うか、単に馬鹿にするかのどちらかである。

 

「善」よりも「正」

「障害は嫌だ」と思うことと「障害者になりたくない」と思うことは同じことだろうか。強いて言うなら「障害」は単に「不便な状態」のことであり、その不便さを否定的に捉えることである。一方の「障害者になりたくない」と思うことは、「障害」だけでなく「障害者」という存在を否定的に捉え、そのような存在になりたくないと思うことだ。

 だから、問題になるのは「障害は嫌だ」と思う地点から「障害者になりたくない」と思う地点につながってしまうことである。「障害は嫌だ」と思うことが避けられないのなら、「障害は嫌だ」→「障害者になりたくない」というつながりを絶つ必要がある。

 (1) 「障害は嫌だ」。

 (2) しかし、それを理由に「障害者になりたくない」と思うことはもっと嫌だ。

 このように思うとき、「障害は嫌だ」と思ったとしても「障害者になりたくない」とは言えなくなる。なぜなら、「障害者になりたくない」と思う差別心は「障害は嫌だ」と思うことよりもっと嫌なことになるからだ。

 (1)の「嫌だ」は利害損得からくる嫌であり、状態の善さからくる善の問題である。

 (2)の「嫌だ」は正しさからくる嫌であり、差別する心が許せない正の問題である。

 (1)の善の問題より(2)の正の問題の方が切実だと思うとき、(1)より(2)の方が「もっと嫌だ」ということになり、二つのつながりが絶たれることになる。

 

「結論」のようなもの

 もし、人と人との関係が「私とあなた」という親密な愛の関係ならば、「障害は嫌だ」と思ったとしても「障害者であるあなた」を否定することなどできないと思う。

 親密なる愛の関係まではいかなくても、身近な関係、たとえば友達や同僚や知り合いのなかに「障害者であるあなた」と呼べるような人がいれば、「障害は嫌だ」と思ったとしても「あなたのようにはなりたくない」などとは思えないはずである。

 しかし、みんながみんな愛の関係になり、最終結論が「愛が必要だ」というのも都合が良すぎる。

 私は人間の差別心を完全にゼロにすることは不可能だと思っている。しかし、だからと言って、差別感情を持つのは仕方のないことだと諦めたくない。

「あんなふうになりたくない」と思ってしまう心理から逃れるためには、以上で縷々述べたように、面倒臭い作業を行いながら善よりも正のほうを優先するしかない。そうしないと「障害は嫌だ」と思うところから「障害者になりたくない」と思うところに行き着いてしまう。

 なぜ、善よりも正のほうを切実だと思って(1)より(2)のほうが「もっと嫌だ」と思うのか。これは前回述べたように、「人を差別するような人間にはなりたくないし、差別感情を持ったまま生きるのも嫌」だからである。「障害者を差別してはいけない」と言いつつ「障害者にはなりたくない」と思ってしまうのが嫌だからだ。

 内なる差別感情は本当に根の深い問題である。すべては幸福を望むところからくるのではないだろうか。人間はただ欲望を望むほうへと進むと、必然的に悪へと傾くようにできているように思う。もし、幸福を欲望することが罪につながるのなら、幸福や善を制限すべきなのだろうか。制限すべきだとしても、何をもって制限すべきだと言いうるのか。

 

 

障害学の主張

障害学の主張

 

 

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

 

 

*1: 生まれたときから目が見えない人はそう感じないかもしれない。逆に、生まれたときから目が見えている人にとっては、目が見えなくなることは不便であるし、恐怖に感じると思う。

 

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