おんざまゆげ

@スラッカーの思想

【2017年】読んでよかった今年の3冊/明るく死ぬための哲学・生きる職場・ブラック部活動

 今年出版された本のなかで本当に読んでよかったと感じたものだけを三冊ほど選びました。

 

 

明るく死ぬための哲学

明るく死ぬための哲学 (文春e-book)

明るく死ぬための哲学 (文春e-book)

 

  なんとも中島さんらしいタイトル。「明るく死ぬ…」という意味は「明るいニヒリズム」のことを言っている。「この世には何の未練もない」というさっぱりした気分になれれば、そのトーンのままさっぱりとした気分で死ねるのではないか。自分の存在にそれほどの意味も価値もないということが腹の底から実感できれば、「私の死」を重く受けとめる必要もなくなる。

 昨年、中島さんの主著らしい本が出版された。その名も『不在の哲学』。ちくま学芸文庫から「書き下ろし!」で上梓された。中島さんの年齢(70歳)を考えると、おそらくこれ以上の重厚な作品を世に問うことはできないと思われるので、暫定的ではあるが『不在の哲学』が中島さんの主著になる可能性が高いということになる。

 中島さんが言っていることはすごくシンプルだ。客観的世界を成り立たせている時間(過去や未来)は存在しない。もっと言うなら「私」そのものも本当は存在していない。「ある」と思われるのは、言語的な意味世界が制作する虚構であると考える。

 私たちは一回限りの刹那的で知覚的な「体験的世界」と言語的な「意味的世界」の二つを同時に生きている。「体験」は常に一回限りの刹那的な出来事であり、したがってライブで花火を見るという体験は、花火大会が終わればその瞬間に消滅する。記憶によって想起される「花火大会の思い出」は単なる言語化された「意味」(二次的制作)でしかなく、そこには非言語的な花火大会の臨場感やライブ感はない。

 毎晩、寝る前に一日を振り返る。今日という一日を振り返り、特段「何もない」という日があったりする。私は今日一日、朝起きてから寝るまでの間、さまざまなものを見たはずであり、聞いたり触ったり食べたり話したりしたはずである。多くの人とすれちがい、いろんな人の「顔」を見たにちがいない。しかし、寝る前に一日を振り返ると、それらのほとんどのことは意識に上らず、記憶にも残っていない。

 体験的世界は一回限りの刹那的瞬間の出来事でしかなく、そのような出来事は生じては消えてゆくだけである。一日を振り返ったときに意識に上ってくるのは、言語がつくる意味的な記憶(とその派生物)であり、これは一日のごく一部の出来事を切り取っただけのことでしかない。しかもそれは「体験」ではない。一日を振り返ったときに「何もない」という感覚はまさにその通り真実である。それでも私は「今日一日を生きた」という感覚を持っている。今日という持続する一日を私は途切れることなく朝から晩まで連続的に生き、今はベッドの中で一日の終わりを迎えている。

 言語的な意味的世界がつくる「過去・現在・未来」という客観的時間の世界では、私の「今日」という一日は刹那的に消えたのではなく「過去」に保存されたことになっている。だから、こちらの世界(意味的世界)では私は紛れもなく「今日一日を生きた」ということになる。

 以上のような仕方で、私たちは刹那的な体験的世界と持続的な意味的世界を矛盾なく同時に生きることが可能になっている。決して捕捉することのできない刹那的体験を言語的意味に変換することによって、私たちは持続的な意味的世界を制作している。

 正確に言うと、刹那的体験は消滅しただけで「変換」されたのではない。消滅した空白地帯に「体験」とはまったく別種の言語的な「意味」が補填され、消滅した体験的世界を意味的世界に置き換えただけである。このように本当は何も「ない」ことをあたかも「ある」かのように生きさせられていることが「不在」(不在の哲学の主旨)である。

 今年一年、いろんなことがあった。しかし、そのすべてはもはや「ない」。そのような一年が「あった」と思わせているのは言語的な意味的世界がつくる虚構である。

 素朴に純粋に「すべては言葉の意味でしかない」と思えれば、生きていくことにともなう負荷(生きづらさ)を軽減させることができるのではないか。たとえば、恥をかいて穴があったら入りたいといったような体験をしたとしても、刹那的体験が消滅してしまえばすべては「ない」ことになる。「恥をかいた」という過去形の体験はすべて言葉の意味がつくっている二次的制作でしかなく、過去世界の中に「恥をかいた自分」が永久保存されているわけではないのだ。本当は「恥をかいた自分」など世界のどこにも存在していない。あるのは「ない」ことをあたかも「ある」かのように思わせしめる言語的仕掛け(トリック)だけである。

 

不在の哲学 (ちくま学芸文庫)

不在の哲学 (ちくま学芸文庫)

 
七〇歳の絶望 (角川新書)

七〇歳の絶望 (角川新書)

 

 

 

生きる職場 小さなエビ工場の人を縛らない働き方

生きる職場 小さなエビ工場の人を縛らない働き方

生きる職場 小さなエビ工場の人を縛らない働き方

 

  この本はネットですごく話題になっていたので知っている方も多いのではないかと思う。「パプアニューギニア海産」という小さなエビ工場が世に問うた「働き方革命」の書である。

 見開き部分の説明から引用。

 

「出勤・退勤時間は自由」「嫌いな作業はやらなくてよい」など、非常識とも思える数々の取り組みが、いま大きな共感を呼んでいる。そして、その先にあったのは思いもしなかった利益を生むプラスの循環だった。2011年3月11日14時46分、東日本大震災石巻のエビ工場と店舗は津波ですべて流された。追い打ちをかけるような福島第一原発事故。ジレンマのなか工場の大阪移転を決意する。債務総額1億4000万円からの再起。

 人の生死を目の前にして考えたのは、「生きる」「死ぬ」「育てる」などシンプルなこと。そしてそれを支える「働く」ということ。自分も従業員も生きるための職場で苦しんではいないだろうか。そんななかで考え出したのが「フリースケジュール」という自分の生活を大事にした働き方。好きな日に出勤でき、欠勤を会社へ連絡する必要もない。そもそも当日欠勤という概念すらない。これは、「縛り」「疑い」「争う」ことに抗い始めた小さなエビ工場の新しい働き方への挑戦の記録。

 

 社員2名 パート9名の小さな工場だが、著者である工場長(武藤さん)が打ち出した精神はすべての労働現場に活かせるはずだ。「生きる職場=働きやすい職場」というのは〇〇10ヶ条的なものではなく、緻密な設計によってつくられる。単にルールをつくるだけでなく、ルールを生かすためのルールまでつくる。「空気の支配」が優位性をもつ日本社会(殊に職場という閉鎖空間)では、空気で物事が決まらないようにするためにこそルールのルールが必要になる。

 忘年会はやらないという。なぜなら…

《もしみんなが親睦のために飲みたいのであれば、自分たちで開催するでしょう。》

《一緒に酒を酌み交わすことで、本音が話し合えることもあるといったことを言う人もいますが、もし酒を飲んでアルコールの勢いでしか本音を言えない会社であるならば、まずはそこが問題があるということに気づくべきです。》

 激しく同意である。

 

 

ブラック部活動 子どもと先生の苦しみに向き合う

ブラック部活動 子どもと先生の苦しみに向き合う

ブラック部活動 子どもと先生の苦しみに向き合う

 

  政府の方もやっと動き出したようで、やはりネット言説の力も馬鹿にならないということが証明されたのではないかと思う。

教員の働き方改革:見回りや部活を外部へ 中間まとめ提出 - 毎日新聞

 ブラック部活動を複雑化しているのは二つのグレーゾーン(曖昧さ)があるからだ。一つは部活動の教育的位置づけに関するもの。もう一つは教師だけに適用される特殊な労働法制(給特法)に関するもの。実は後者の給特法の問題はブラック部活動とは直接関係はない。二つをまとめると以下のようになる。

(1)部活動は法律的には「教育課程外」である。なのに部活動は学校教育のなかで熱心に行われている。(部活動の過熱化)。

(2)教師は給特法という法律により、原則として時間外勤務は認められていない。なのに教師は事実上、残業をしまくっている(教師の過重労働化)。

 二つの曖昧さ(グレーゾーン)を許しているのは、法原則が想定している前提を事実上、慣習的(あるいは超法規的)に踏み破っているからだ。法律的想定を踏み越えて慣習が常態化すると、歯止めになるものが何もなくなって暴走しはじめる。ゆえに部活はブラック化したと考えられるのだ。

 解決策は、まずは慣習と法律の齟齬をなくすことである。(1)部活動の教育的位置づけをはっきりさせ、(2)教師の労働法制(給特法)を改善して労働時間を短縮させればいい。

 

 

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 以上、今年の3冊をざっと紹介いたしました。本来なら1冊ごとに詳しいレビューを書きたいところなのですが、「ブログを書く時間」よりも「本を読む時間」の方を優先しているので今回は「ざっくり雑感レビュー」モードで書きました。

 

 

読者の皆様へ

 今年一年ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

 来年はいま以上に更新頻度上げ(月4〜6記事くらい?)、もっと書けるように努力する所存であります。