おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「生まれてこない方がよかった」/デイヴィッド・ベネターの誕生否定と反出生主義

 今回はデイヴィッド・ベネターの主著『生まれてこない方が良かった —— 存在してしまうことの害悪』で展開されている「反出生主義」について考えてみたい。

 

 

 

反出生主義 「子どもを生むべきではない」

 ベネターの結論は次のようなものである。

「非存在者」(未だ存在していない他者=未来の子ども)をこの世に存在させることは道徳的に許されない悪である。したがってすべての人間は子どもを生むべきではない。

 力点は「子どもを生むべきではない」という一点にある。その根拠になっているのは「この世に存在してしまうことは常に深刻な害悪である」という誕生害悪テーゼである。この誕生害悪テーゼをすでに存在している私たちに適用すると、「私たちは生まれてこない方がよかった」という誕生否定論になる。

 もうこれ以上、私たちのような不幸な存在者を生みだしてはならない。だから子どもを生むべきではないのだ。これがベネターの反出生主義である。

 

〈存在してしまうことの害悪〉

 私たちの誰しもが、生まれさせられてしまったことで害悪を被っています。その害悪は無視できるものではなく、たとえどんなに質の高い人生であっても、人生は非常に悪いものなのです。大抵の人がそう認識しているよりも遥かに悪いのです。とはいえ、私たち自身の誕生を防ぐにはもう遅すぎます。しかし、将来生まれてくる可能性のある人々の誕生を防ぐことはできます。というわけで、新しく人々を生み出すことは道徳的に問題があるのです。(p3) *1

  

 

反出生主義と出生主義

 反出生主義の立場には大きく分けると「子どもを生む自由」を一部制限する立場とベネターのように全面的に制限(=禁止)する立場がある。

 一部制限派として知られるジョン・スチュアート・ミルは『自由論』で次のように述べている。

 一個の人間存在をこの世に生み出すこと、それは人生のうちでもっとも責任を伴う行為である。この責任を引き受けること —— 親にとって災難にも祝福にもなりうるものに生命を授けること —— は、生まれてくる子どもの人生が望ましいものになる見込み、少なくとも人並みになる見込みがないのであれば、まさしく子どもにたいする犯罪である。

 [ …… ]

 ヨーロッパ大陸の多くの国では、家族を養えるだけの所得があることを証明しないかぎり、カップルが結婚することを法律で禁じている。この法律は、国家権力の正当なあり方を逸脱するものではない。この法律は、当を得たものであったかどうかはともかく(これは主としてそれぞれの国の事情と国民感情に依存する問題である)、自由を侵害するものとして非難することはできない。…

(No.2602 自由論 (光文社古典新訳文庫) Kindle版 斉藤悦則 訳)

 

「生む自由」と「中絶の自由」を整理すると以下のようになる。

(1) 「生む自由」の全面禁止(強い反出生主義・ベネターの立場)

  ・すべての人間は子どもを生んではならない

  ・中絶の義務化

(2)「生む自由」の一部制限(弱い反出生主義・ミルの立場)

  ・ある条件を満たした場合は子どもを生んでもよい

  ・選択的中絶=優生主義

(3)「生む自由」を認める(弱い出生主義・リベラリズム

  ・すべての人間は子どもを生んでもよい

  ・条件をクリアしていれば中絶は原則自由

(4) 「生む自由」を奨励する(強い出生主義・日本社会?)

  ・すべての人間は子どもを生んだ方がよい

  ・条件付きで中絶は認められる

(5)「生む自由」の強制(強制的出生)

  ・すべての人間は子どもを作り生まなければならない

  ・中絶の禁止

 

 (1)は理屈上は可能だが、(5)は不可能である(結婚できない人や子どもができない人は必ずいるから)。(3)は「生む/生まないは個人の自由」というリベラリズムの立場であり、(4)は「生まないよりは生んだ方がいい」という出産奨励主義になる。日本社会はおそらく(4)の立場に近いと思われる。

 ミルが(2)の立場を提唱したのは「子どもの貧困」(を含めた“不幸な子ども”)を減少させるためである。ミルが言うには子どもの貧困は子どもに対する「犯罪」に当たる。この場合、ある水準以上の所得がなければ子どもを生むことは犯罪になる。

 もし、子どもの貧困が犯罪レベルの重大な問題であるなら、親の「生む自由」を一部制限することによって子どもの貧困を未然に防ぐことは合理的な解決策ではある。だが、この考え方は優生思想(“不幸な子ども”は生まれない方がいい)とほぼ同じロジックであり、「生まれる子どもに障害があるなら選択的に中絶すべきだ」という優生主義が肯定されかねない。

 ここから分かるのは、反出生主義は優生主義と親和的であるということである。(ベネターはあくまでも(1)を主張しているため優生主義に陥ってはいないが、優生主義者に同情的ではある。*2

 

〈子どもの苦しみを防ぐたった一つの方法〉

 善良な人々は、自分の子どもを苦しみから逃れさせるためにどんなことでもするわけだが、奇妙なことに、自分の子どもの苦しみ全てを防ぐのに保証された一つの(そして唯一の)方法は、そもそもまず第一に、その子どもを存在するようにしないことである、ということに気づいていると思われる善良な人はほとんどいない。人々がこうしたことに気づかない理由はいろいろあり、また、たとえそれに確かに気づいたとしても、人々はその理解に基づいて行為しないし、ともあれ、存在し得る子どもの利益を彼らは考慮に入れないのだ。(p14)

 

 

ベネターの立場 「客観主義・功利主義・悲観主義」

 ベネターが反出生主義を主張する際に取っている視座(拠って立つ立場)は以下の三つである。

 (1) 客観主義

 (2) 功利主義

 (3) 悲観主義(苦痛と快楽は非対称)

 

 (1)客観主義は世界全体を三人称の視点(神の視点)で捉え、私たちが存在する〈世界〉と私たちが存在する前の〈非存在の世界〉を比較する立場である。

 (2)功利主義は「良いこと=快楽」「悪いこと=苦痛」と捉え、世界全体の快楽の総量と苦痛の総量を比較する道徳理論である。

 (3) 悲観主義の立場は、快楽(良いこと)と苦痛(悪いこと)を同等の存在として捉えるのではなく、苦痛は快楽よりも常に重いと考える(苦痛と快楽の非対称性)。世界には良いことも悪いことも存在し、良いことに目を向ければ「世界は良い」(楽観主義)になり、悪いことに目を向ければ「世界は悪い」(悲観主義)になる。ベネターは後者の立場を採用する。

 (1)から(3)にはそれぞれ異なる立場が存在する。客観主義に対しては主観主義の立場、功利主義に対しては義務論的立場、悲観主義に対しては楽観主義の立場である。

 ベネターと同じ視座に立つかどうかは読者の価値観の問題であり、「私はその視座には立たない」と言うことは常に可能だ。たとえば、コンビニのスイーツを食べて「生まれてきてよかった」と思う人は実際に存在するが、このような人がベネターと同じ視座に立つことはほとんど不可能であると思われる。

 どの視座に立つかという問題は論理の問題ではなく個人の感受性や価値観の問題である。個人的な感受性や価値観をもれなく論理的一般性に還元することはできないのだ。したがって、なぜ楽観主義ではなく悲観主義なのか、なぜ快楽よりも苦痛を重視するのか、という疑問には論理的に解答することができない。

 ベネターは自身の反出生主義の主張を説得的に論ずるためには(1)~(3)の立場を採用するのが有効であると考えた(あるいは(1)~(3)の立場からは反出生主義が帰結する)。

 なぜ「この舟」ではなく「あの舟」に乗るのか。ベネターの議論からはそれは分からない。だが、もし「あの舟」に乗るなら反出生主義に辿り着くはずだ…。もちろん私たちはベネターと同じ船に乗る必要はまったくないが、もし同じ船に乗るなら反出生主義に辿り着くのかもしれない。

 ここから分かるのは、ベネターの反出生主義に異論を呈する仕方には二種類あるということである。一つは、ベネターの拠って立つ立場(1)〜(3)に対して「私はあなたの立場には乗らない(乗れない)」というタイプの異論。もう一つは、ベネターと同じように(1)〜(3)を採用しつつ「そうとは言えない」というタイプの異論である。

 

 

誕生否定と反出生主義

 ベネターが主張する「子どもを生むべきではない」という反出生主義は以下のような論理展開(1から3へ)となっている。

 (1)「誕生害悪テーゼ」

  存在してしまうことは常に深刻な害悪である。

 (2)「誕生否定」

  すでにこの世に存在している者は例外なく生まれてこない方がよかった。

 (3)「反出生主義」

  すべての人間は非存在者を存在させてはならない(子どもを生むべきではない)。

 

 次に、(2)の「生まれてこない方がよかった」という誕生否定の仕方には以下の三つが考えられる。

 (A)「私」は生まれてこない方がよかった(主観主義)

 (B) 「障害者」は生まれてこない方がよかった(優生主義)

 (C) 「すべての存在者」は生まれてこない方がよかった(客観主義)

 

 (A)のように「私なんて生まれてこない方がよかった」と言う場合、「私」以外の人は否定の対象になっていない。主語はあくまでも一人称としての「私」に限定されている。

 (B)の優生思想的な立場もその対象範囲は擬制的カテゴリーである「障害者」に限定されている。

 しかし、(C)は「すべての存在者」を対象にしており、この世に生まれてきたすべての人間を例外なく含んでいる(全称命題)。ベネターの議論は(C)を前提として展開されており、(A)や(B)は対象外になっている。

  

 

「誕生害悪」論

 反出生主義の根拠になっているのは「存在してしまうことは常に深刻な害悪である」という誕生害悪テーゼである。この命題は以下の二つに分割することができる。

 (1) 存在してしまうことは常に害悪である。

 (2) 存在してしまうことは深刻な害悪である。

 

 (1)の「常に害悪」というのは「例外なくどんな場合も絶対に害悪である」(=絶対的害悪)という意味である。(1)が言いたいのは、この世に存在してしまうことはたとえ利益があったとしても害悪になる(利益と害悪の相殺は不可能)ということである。

 (2)の「深刻な害悪」というのは「量的に大きな害悪」(=相対的害悪)を意味している。この世に存在してしまうことは、事実として利益よりも害悪の方が大きい。だから存在することは害悪になるということである。

 以上の(1)の命題と(2)の命題を合わせると「存在してしまうことは常に深刻な害悪である」という誕生害悪テーゼになる。(ベネターの著書では第二章で(1)が論じられ、第三章で(2)が論じられている)。

 (1)と(2)はそれぞれ独立に成立する命題になっており、(1)から(2)が導出されたり(2)から(1)が導出されることはない。したがって、(1)「存在してしまうことは常に害悪」とまでは言えないとしても(2)「存在してしまうことは深刻な害悪」だと言えるなら反出生主義は導けると考える。

 

 

誕生の絶対的害悪 「存在してしまうことは常に害悪である」

 

〈苦痛と快楽は非対称的である〉

 ベネターの著書のなかで最もユニークな点は第二章で論証されている以下の(1)の命題である。

 (1) 存在してしまうことは常に害悪である。

 なぜ存在してしまうことは「常に害悪」になるのか。この世に生まれてきたら良いことも悪いこともあるはずなのにどうして「常に悪い」ということになるのか。

 ベネターは「良いこと」を代表している「快楽」と「悪いこと」を代表している「苦痛」は非対称的であると考える。快楽と苦痛は価値的に異なったあり方をしており、快楽よりも苦痛のウェート(価値)の方が必ず重くなると評価する。

 例えていうなら、苦痛と快楽が戦った場合、引き分けになるのでも快楽が勝つのでもなく「常に苦痛が勝つ」。これは論理的にそうなる(苦痛が勝つ)ということではなく、現実世界の事実を反映させるなら快楽よりも苦痛のウェートを重くせざるをえない、というベネター自身の価値判断から導かれたものである。

 整理すると以下のようになる。

 ・苦痛と快楽は対称的ではない(苦痛と快楽の非対称性)

 ・苦痛と快楽は価値的に異なったあり方をしている

 ・苦痛と快楽は相殺されない(「引き分け」がない)

 ・苦痛は快楽より重い(苦痛が常に勝つ)

 

〈良いことと悪いことの非対称性〉

 存在してしまうことが常に害悪であるという主張は次のように要約されるだろう。良いことも悪いことも存在している人にのみ生じる。しかしながら、良いことと悪いことの間には極めて重大な非対称性がある。例えば痛みといった悪いことがないことは良いことなのである。たとえその良いことを享受する人が誰もいなくても。だが他方で、例えば快楽といった良いことがないことは、悪いことなのである。ただしそれは、そうした良いことを奪われた人がいる場合に限る。(p22-3)

 

潜在的苦痛(可能的苦痛)は悪い〉

 次に、苦痛と快楽の非対称性テーゼから苦痛に関する以下のような命題が導かれる。

 ・苦痛の可能性潜在的苦痛=可能的苦痛)があるのは悪い

 ・苦痛の可能性潜在的苦痛=可能的苦痛)がないのは良い

 「苦痛がある」というのは悪い。だが、「苦痛の可能性がある」ということだけで悪いことになるのだろうか。「苦痛がある」ということと「苦痛の可能がある」ということはまったくちがう事態である。普通に考えるなら、苦痛が悪いことになるのは実際に苦痛が顕在化(現実化)した場合だけにかぎられるだろう。

 たとえば、自動車事故が悪いことになるのは実際に事故が起きた場合だけであり、「自動車事故の可能性がある」ということだけで(実際には事故が起きていないのに)悪いということにはならない。宝くじが当たることは良いことであるが「宝くじが当たる可能性がある」ということだけで(実際には当たっていないのに)良いことになるとは言えないはずである。

 しかし、苦痛に関しては「苦痛の可能性がある」ということだけで悪いことになる。実際には顕在化していない潜在的苦痛(可能的苦痛)があるだけで苦痛は悪いのである。ここから反転して「苦痛の可能性がない」ことは「良い」ことになる。

 普通に考えたら「苦痛の可能性」じたいが存在しないなら苦痛がないことの良し悪しの判断じたいがそもそも成立しないはずである。自動車が存在しない(事故の可能性がない)世界では事故は起こりえないのだから、自動車事故が起きないのは「良い」とは言えない(なぜなら「良い悪い」の判断が成立しないから)

 宝くじがはずれることは(当たることより)悪いことだが、これは「はずれる可能性」があった場合にのみ言えることであって、「はずれる可能性」じたいが存在しないなら「はずれることは悪い」とは言えない(なぜなら「良い悪い」の判断が成立しないから)

 ベネターが「苦痛は悪い」という場合、これは実際に顕在化した苦痛だけを問題にしているのではなく、顕在化していない「あり得る苦痛」潜在的で可能的な苦痛)までを視野に入れて判断している。苦痛というのは実際に苦痛を感じたときだけ悪いことになるのではなく、たとえ実際に苦痛を感じていなくても「苦痛の可能性がある」ということだけで悪いことになるのだ。

 

〈顕在的快楽(現実的快楽)は良い〉

 では、快楽の方はどのように判断するのか。快楽に関する命題は以下のようになる。

・快楽の可能性潜在的快楽=可能的快楽)がある場合、快楽が生じることは良い

・快楽の可能性潜在的快楽=可能的快楽)がない場合、快楽が存在しないのは悪いとは言えない

 苦痛に関しては「苦痛の可能性がある」ということだけで悪いことになる。だが、快楽に関しては「快楽の可能性がある」ということだけで良いことにはならない。快楽が良いことになるのは実際に快楽を感じた場合だけにかぎられるのだ。

 苦痛に関しては顕在化していない「あり得る苦痛」潜在的で可能的な苦痛)は悪いことになるが、快楽に関しては顕在化していない「あり得る快楽」潜在的で可能的な快楽)は良いことにならない。快楽が良いことになるのは「あり得る快楽」が実際に現実化して「顕在的快楽」が生じた場合だけである。ここから反転して「顕在的快楽が生じないことは悪い」ということになる。

 つまり、「あり得る快楽」が顕在的快楽へと変化することは良いことであり、「あり得る快楽」が顕在的快楽へと変化しないことは(変化するよりも)悪いということである。しかし、「あり得る快楽」というものがそもそも存在しない(快楽の可能性が存在しない)場合、「あり得る快楽」から顕在的快楽への変化じたいが起こりえない。よって、「快楽の可能性」じたいが存在しない場合は快楽の良し悪しを判断することはできず「悪いとは言えない」という結論になる。

 快楽については以下のようにまとめることができる。

 (1) 顕在的快楽があるのは良い

 (2) 顕在的快楽がないことは(1)より悪い

 (3) 潜在的快楽があるのは良いとは言えない

 (4) 潜在的快楽がないことは悪いとは言えない

 

〈存在してしまうことは常に害悪である〉

 今までの議論をまとめると以下のようになる。

 まず、苦痛と快楽の非対称性テーゼがある。

 ・苦痛と快楽は価値的に異なっている(苦痛は快楽より重い)

 ・苦痛と快楽が戦ったら常に苦痛が勝つ(快楽が勝つことはない)

 ・苦痛を快楽によって相殺することはできない(引き分けがない)

   これによって苦痛と快楽を平等に取り扱うのではなく、苦痛を快楽よりも常に重く取り扱う。苦痛は快楽より相対的に重いのではなく、苦痛は快楽より絶対的に重いのだ。

 この世に生まれてきた存在者は苦痛の可能性と快楽の可能性を同等に持つ。この場合、苦痛と快楽は対称的なはずである。しかし、苦痛と快楽の非対称性テーゼによって苦痛と快楽は価値的に異なった評価を受ける。すなわち、苦痛に関してはその可能性があるだけで悪いことになり、快楽に関してはその可能性があるだけでは良いこと(評価の対象)にならない。

 もし、存在者がこの世に生まれてこなければ、苦痛の可能性も快楽の可能性もどちらも存在しないだろう。したがって、非存在者は苦痛に関してはその可能性がないことは良いことになり、快楽に関してはその可能性がないことは悪いこと(評価の対象)にならない。

 ポイントになっているのは苦痛と快楽の可能性(潜在性)を評価の対象にするかどうかである。苦痛の方は可能性潜在的苦痛)を「悪い」と評価し、快楽の方は可能性潜在的快楽)を評価の対象外にする。これを表にまとめると以下のようになる。

 

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  まず、(1)の「潜在的苦痛があることは悪い」と(2)の「潜在的快楽があることは良いとは言えない」について。

 この世にXが存在する場合、Xは苦痛を感じる可能性と快楽を感じる可能性が同等に存在する。苦痛に関しては、Xはたとえ苦痛を感じていなくても潜在的苦痛があるだけで悪いことになる。一方、快楽に関しては、Xは潜在的快楽があるだけでは良いことにならない。快楽が存在することが良いと言えるためには潜在的快楽が顕在化した場合(顕在的快楽)だけである。

 次に(3)の「潜在的苦痛がないことは良い」と(4)の「潜在的快楽がないことは悪いとは言えない」について。

 この世にXが存在しない場合、Xは苦痛を感じる可能性も快楽を感じる可能性も同等に存在しない。苦痛に関しては「潜在的苦痛がないこと(3)」は「潜在的苦痛があること(1)」よりも良い。一方、快楽に関しては「潜在的快楽がないこと(4)」は悪いことにはならない。快楽の場合、評価の対象になるのは顕在的快楽だけであり、潜在的快楽は評価の対象外になるからだ。

 以上により、総合的に判断すれば「Xは存在するよりも存在しない方がよい」ということになる。

 なぜ「存在してしまうことは常に害悪である」と言えるのか。

 それは潜在的苦痛を評価の対象にするところからきている。苦痛については実際に苦痛を感じること(顕在的苦痛)だけが悪いのではなく、実際に苦痛を感じていなくても「苦痛があり得る」というただそれだけで悪いことになる。このように潜在的苦痛を評価の対象にすると「苦痛の可能性」が存在することは「例外なくどんな場合も絶対に害悪である」ということになる。

 ベネターは誕生の絶対的害悪を次のように説明する。

 私の論は、良いことで満ちていても悪いことがほとんど皆無に等しい人生でも —— つまり、ちょっとしたピンで刺されたような痛みが混在しているだけの全くこの上なく幸せな人生でも —— 、人生がそもそも完全にないことより悪いということすら含意している。[……]

 たった一つの些細な鋭い痛みだけがある素晴らしく幸運な人生を享受している人物に関して、彼の人生がまた実際に喜ばしいものだろうとも、決して存在しないことを超える利点は彼の人生にはないということは真実である。(p58)

 

  つまり、ビル・ゲイツのような大富豪であっても、画びょうを踏んでチクッとした痛みを感じる可能性があるだけで(実際には画びょうを踏まずに痛みを感じることがなかったとしても)ビル・ゲイツは生まれてこない方がよかったわけである。たとえビル・ゲイツ本人が「私の人生は幸福であり本当に生まれてきてよかった」と思っていたとしても、である。

 誕生の絶対的害悪論にもとづくならば、この世に「些細な鋭い痛み」の「可能性がある」だけでビル・ゲイツはこの世に生まれてこない方がよかったのだ。これがベネターの言う絶対的誕生害悪 ——「存在してしまうことは常に害悪である」の意味である。

 

 

誕生の相対的害悪 「存在してしまうことは深刻な害悪である」

 

〈この世は“地獄”である〉

「存在してしまうことは常に害悪である」という誕生の絶対的害悪論は、私たちの直感に反する極端な議論であった。が、ベネターは第三章において絶対的害悪論とは質的に異なる相対的害悪論を展開する。相対的害悪論を一言でいえば以下のようになる。

 「存在してしまうことは深刻な害悪である」

 絶対的害悪論では害悪の量や大きさは問題にされていなかった。そこでは単に害悪(苦痛)の可能性が存在するだけで悪いことになっていたからである。一方、相対的害悪論では害悪の大きさを問題にする。この世に存在する害悪の総量と利益の総量を比較した場合、事実として害悪の総量が圧倒的に大きい。だから「存在してしまうことは害悪である」と結論づける。

 以下の引用部分の前半が絶対的害悪、後半が相対的害悪について述べている。

  人生のなかに最小限の悪いことさえ含まれていれば、存在してしまうことは害悪なのである…。この結論が受け入れられようが受け入れられまいが、多大な悪いことを含んだ人生は害悪であるということは認められるだろう。(p71)

 

  ベネターは第三章の「苦痛の世界」という節において、いかにこの世が残酷な場所なのかを災害死や餓死や戦死などの絶望的統計データを駆使して説得的に論じている。

 誕生の相対的害悪論というのは、要するに「この世は地獄である」という現実的認識から導かれるものになっている。強いて言うなら絶対的害悪論は「哲学的害悪論」、相対的害悪論は「社会学的害悪論」である。

 もし「この世は地獄である」ということが分かれば、「この世に存在してしまうことは深刻な害悪である」ということになる。ここから「したがって、すべての人間は子どもを生むべきではない」という反出生主義が導かれる。

 

〈子作りロシアンルーレット

 存在させられてしまう人には誰にでも大きな苦痛が待ち受けているだろう。それでも、恵まれた人のほとんどが、我慢できないほどの苦痛を被ったり、強姦されたり、暴行を受けたり、残酷なやり方で殺されたりするだろう子どもに命を宿すことになるだろう。

 

 楽観主義を貫くのなら、この子作りロシアンルーレットを正当化する責任を負わなければならない。存在させられる人にとって、決して存在しないことに勝る真の利益などないという事実を考慮すると、子作りロシアンルーレットという深刻な害悪が生まれる重要な賭けを正当化できる方法を見つけるのは無理だろう。

 

 どんな人でも耐えられないような非日常的な耐え難い害悪だけでなく、普通の人の人生に含まれるような実に日常的な害悪も考えると、陽気な子作り人たちにとって事態はより悪くなる。つまり彼らは、めいっぱい弾が込められた銃で、ロシアンルーレットをしている —— 勿論その標的は、自分自身の頭ではなく将来生まれてくる自分の子どもの頭なのだ。(p102)

 

 

【結論】なぜ「すべての人間は子どもを生むべきでない」のか

 今までの議論をまとめると以下のようになる

 まず、ベネターの反出生主義は次の(1)から(3)の順番で導かれる。

 (1)「誕生害悪テーゼ」

  存在してしまうことは常に深刻な害悪である。

 (2)「誕生否定」

  この世に存在している者は例外なく生まれてこない方がよかった

 (3)「反出生主義」

  すべての人間は子どもを生むべきではない。

 

 (1)「誕生害悪テーゼ」には次の二つがある。

  (A) 存在してしまうことは常に害悪(絶対的害悪)

  (B) 存在してしまうことは大きな害悪(相対的害悪)

 

 (A)と(B)は直接的な関係はなくそれぞれ独立に成り立つ。よって(A)と(B)のどちらかが成り立てば(2)「誕生否定」から(3)「反出生主義」が導出される。

 

〈子どもを持つことは「誤り」である〉

 これから生まれる可能性のある人間が耐えることになる苦痛は、彼らが存在するようにならない方が良いと言うのに十分なほど大きいと思う。第2章[絶対的害悪論]での私の主張はこうした非常に明瞭な直感を詳述しているのであって、遥かに少ない苦痛でも —— 実際にはとにかくどんな苦痛でも —— 存在してしまうことが害悪であると言うのに十分なものだろうということを示している。

 

 繰り返しになるが私の主張からは、人生に悪いことが何かしらある限り人生を始めない方が良いということが示唆されるが、もし人生の悪の量が本当に非常に少ないのであれば、子どもを持つことは必ずしも誤りではないということが言える。というのは、その害悪よりも他者への利益が大きいと妥当に言えるだろうからだ。

 

 けれども第3章[相対的害悪論]で主張したようにあらゆる人生に含まれる害悪は決して少なくはない。みんなの人生は、最も恵まれた人のものでも、通常考えられているよりも遥かに悪い。更に、これから生まれる可能性のある子どもが最も恵まれている人の中に入れると考える根拠は誰にもほとんどない。単純に人生を悪くするものが多過ぎるのである。(p214 脚注6)

 

 

なぜ自殺は肯定されないのか

「存在してしまうことは常に深刻な害悪である」というのであれば、なぜいますぐ自殺しないのか。「この世は地獄である」というなら尚さらのこと、害悪を回避するために早めに死を選ぶことは合理的であるように思われる。

 ベネターは「生れてきたこと」(誕生)と「生きること」(生存)を区別して論ずるべきであると提案する。そして、誕生が悪いことだからといって生存をやめる(死を選ぶ)必要は必ずしもないと言う。これはいったいどういう意味なのか。

 まず、誕生と生存を以下の4つの区分に分ける。

 (1) 生まれないこと(非存在)

 (2) 生まれてきたこと(誕生)

 (3) 生き続けること(生存)

 (4) 死ぬこと(非存在)

 誕生害悪論によれば、「非存在」(1)は良いことになるが「誕生」(2)と「生存」(3)は存在することにともなう害悪を被っているから悪いことになる。では、「誕生」(2)を経由して「生存」(3)に至った存在者は必ず「死」(4)を選ぶべきなのか。そうとは言えない。

 なぜなら、「生存」(3)は「死」(4)よりも悪いわけではないからである。つまり、「誕生」(2)は「非存在」(1)よりも悪いのだが、「生存」(3)は「死」(4)よりも悪いとは言えない。

 生まれる前の非存在(1)と死んだ後の非存在(4)は同じような非存在ではない。生まれないことの非存在(1)は存在してしまった者にとって常に良いことになるが、死ぬことの非存在(4)は生存している存在者にとって常に良いことになるわけではない。

 したがって、私たちが為すべきたった一つの可能なことは「死ぬこと」(4)ではなく「新しい存在者を生み出さないこと(反出生)」であるとベネターは述べる。よって、反出生主義は自殺肯定論を支持しない(誕生否定は生存否定を意味しない)。

「存在してしまうことは常に深刻な害悪である」という誕生害悪論は「生まれてこない方がよかった」という誕生否定論につながって行く。だが、この誕生否定論は「今すぐ死んだ方がいい」という生存否定論にはつながらない。

 なぜなら、「存在が生み出されたこと=誕生」の否定と「生き続けること=生存」の否定は根本的にちがうからだ。また、死んでしまうことは生存していることより悪いかもしれない(少なくとも良いとはいえない)からである。

 自殺肯定論を主張したいのであれば、誕生害悪論とは独立に「生き続けることは常に深刻な害悪である」という生存害悪論を打ち立てたうえで、したがって「今すぐ死んだ方がいい」という生存否定論を導くしかない。

 誕生害悪論というのは「生まれてきたこと=誕生」と「生まれないこと=非存在」を比較し、「生まれてきたこと=誕生」は「生まれないこと=非存在」よりも常に深刻な害悪になるということである。これに倣えば、生存害悪論とは「生き続けること=生存」と「死=非存在」を比較し、「生き続けること=生存」は「死=非存在」よりも常に深刻な害悪になるということである。

 もし、「生き続けることは常に深刻な害悪である」という命題を「生き続けることは害悪になり得る」と緩和するなら自殺は肯定されるかもしれない(たとえば末期がん患者の安楽死のようなケースなど)。

 

〈誕生否定は生存否定(自殺)を意味しない〉

… 私は存在し続けることが常に死よりも悪いと考えることなしにでも、存在してしまうことが常に害悪であると人は考えることができると主張したいのだ。従って、たとえ存在してしまうことが悪いことであるとしても、死もまた私たちにとって悪いことである可能性がある。それ故、私の見解は自殺を必然的に含意しているわけではないということになる。自殺は、少なくとも場合によっては、一つの可能な回答ではあるかもしれないが。(p25)

 

 人生は、存在してしまわない方が良いと言えるほど悪いかもしれないが、存在し続けるのを止めた方が良いと言えるまでは悪くはないかもしれないのである。

 … 存在者は存在し続けるのに様々な利害関心を持ち得る…

… たとえ存在してしまうことが害悪であるとしても、死もまた害悪だと考えてよいのは、私たちが存在し続けることに利害関心を(通常は)持っているからである。…(p220)

 

 

【異論1】「人称視点」問題 —— 生む側と生まれる側の非対称性

「生まれてこない方がよかった」という誕生否定の仕方には概ね以下の二つがある。

 (A)「私」は生まれてこない方がよかった(主観主義の立場)

 (B)「すべての存在者」は生まれてこない方がよかった(客観主義の立場)

 (A)と(B)のちがいで重要なのは、一人称視点と三人称視点のちがいである。(A)「私は生まれてこない方がよかった」という命題は「私」の内的な一人称視点からの「私」に対する誕生否定(自己否定)である。

 だが、(B)「すべての存在者は生まれてこない方がよかった」という命題は外的な三人称視点(神の視点)に立ちながらすべての存在者の誕生を否定することである。このように神の視点に立って世界を外側から客観的に眺めたとき、その世界のなかに「私」は存在していない。

 おそらく私たちにとって最も切実な実存的問いなのは、(A)の命題「私なんて生まれてこなければよかったのに…」という誕生否定だと思われる。しかし、ベネターの議論にはそのような重要な問いを問題にする視点そのものが存在していない。

 また、次のような論理展開で反出生主義を導くことはできない。すなわち、「私は生まれてこない方がよかった」→ だから「すべての人間は生まれてこない方がよかった」→ ゆえに「すべての人間は子どもを生むべきではない」という流れである。

「私は生まれてこない方がよかった」という「私」の実感から「すべての人間」へと「だから…」でつなげることは論理的にはできない。しかし、反出生主義の起点になっているのは「私は生まれてこない方がよかった」という「私の実感」であり、ベネターが構築した反出生主義もそのような「私の実感」(=ベネターの実感)がベースになっているはずである。

「すべての人間は子どもを生むべきではない」という反出生主義に至る経路は、誕生否定が(B)「すべての存在者は生まれてこない方がよかった」(客観主義)を意味しているときだけにかぎられる。

 したがって、もし私たちが(A)の主観主義の立場に立つのなら、ここから反出生主義を導くことはできない。私たちが主観主義の立場に立つかぎり、たとえ「私は生まれてこない方がよかった」と思っていても「私」は子どもを生んでもいいのである。ここに論理的な矛盾はない。

 なぜなら「私」と「子ども」はまったくの別人格だからである。「私は生まれてこない方がよかった」と思いつつ子どもを生んだとしても、生まれてきた子どもの方は「私は生まれてきてよかった」と思うかもしれない。

 逆に、「私は生まれてきてよかった」と思いつつ子どもを生んだとしても、生まれてきた子どもの方は「私は生まれてこない方がよかった」と思うかもしれない。つまり、生む側が自らの誕生を肯定していたとしても、生まれる側が自らの誕生を肯定するとはかぎらないのである。このように主観主義の立場に立つかぎり、生む側と生まれる側には常に非対称性が存在することになる。

 ベネターの反出生主義が成り立つためには生む側と生まれる側の非対称性を抹消することが必要になり、したがって主観主義の「私」という内的視点を抹消して客観主義の神の視点を採用しなければならないのである。これがベネターが客観主義の立場を取っている理由であるが、私たちがベネターと同じような客観主義の立場に立つ必要はまったくない。

 なによりもまず、生む側と生まれる側の非対称性は厳として存在するし、抹消されることなどありえないのだ。生む側には「生む/生まない」の選択肢があるが、生まれる側には「生まれる/生まれない」の選択肢はない。生まれる側は「生まれたい」と思ったわけではないのに気づいたら勝手に生まれさせられていたわけである。このような非対称性にもとづく理不尽さは「存在してしまうことの害悪」など考慮に入れなくても成り立つはずであり、ここから客観主義より主観主義の方が根本的であることが言いうるのである。

 

 

【異論2】「誕生」の謎 —— 「心身二元論」の導入

 ベネターが主張する「すべての人間は子どもを生むべきではない」という反出生主義は、以下のような三人称視点(神の視点)を採用している。

 

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 まず、存在者が所属する〈世界〉があり、すべての人間は〈世界〉のなかに住んでる。その〈世界〉のなかに存在していない非存在者は〈非存在の世界〉に所属している。生む側(母親)(1)が生むことを選択したとき、赤ん坊(2)が生まれる。このとき「非存在から存在への移行」(3)が同時に起こり、非存在者は〈世界〉へと誕生したことになる。

 ベネターが反出生主義の根拠としているのは、「存在してしまうことは常に深刻な害悪である」という誕生害悪テーゼである。これは(3)で示されている「非存在から存在への移行」が存在者にとって常に深刻な害悪であるということを意味している。

〈世界〉と〈非存在の世界〉を比較すると、〈世界〉は常に害悪を被る場所になる。よって、存在者は〈世界〉よりも〈非存在の世界〉にいた方がよかったのだ。これが「すべての存在者は生まれてこない方がよかった」の意味である。

 (3)の「非存在から存在への移行」を防ぐたった一つの方法は、生む側(1)が「子どもを生む」という選択をしないときだけである。ここから「すべての人間は子どもを生むべきではない」という反出生主義が導出される。

 以上がベネターの説明図式であるが、ここには一つの謎がある。生む側(1)も生まれる側(2)もどちらもずっと〈世界〉のなかに所属している。赤ん坊(2)は母親の胎内から生まれてきたわけだから、赤ん坊は〈非存在の世界〉から〈世界〉へとやってきたわけではなく、もともと〈世界〉のなかに所属している母親(1)の胎内から生み出されたはずである。赤ん坊は始めからずっと〈世界〉のなかの住人なのだ。

 したがって、赤ん坊が生まれてくる(1)→(2)の誕生プロセスと、(3)の「非存在から存在への移行」というのは実は無関連なのである。二つのプロセスを矛盾なく説明するためには、赤ん坊の肉体は母親の胎内から誕生し、赤ん坊の魂は〈非存在の世界〉から〈世界〉へと誕生するという心身二元論を採用するしかないように思われる。

 このような矛盾が生じるのは、神の視点を採用することによって一つの世界を外側から眺めながら「この世」と「あの世」とか〈この世界〉と〈非存在の世界〉といったように世界を二つに分割してしまうからである。この分割された二つの世界に肉体と魂を割り当て、肉体は母親の胎内から誕生し、魂は〈非存在の世界〉から〈世界〉へと誕生する。誕生の起点は「母親の胎内→肉体」と〈非存在の世界→魂〉の二つに分裂しており、この二つに分裂した肉体と魂が母親の胎内に命が宿った瞬間に合一するのである。

 ベネターの主張する反出生主義の議論は〈この世界=肉体〉と〈非存在の世界=魂〉が母親の胎内で合一するという心身二元論を前提としなければ成り立たないモデルになっている。私たちが母親の胎内から生まれきたというのは誰もが疑わない証明不要の事実だと思われるが、私たちが生まれる前に「非存在者」という形式でこの世界とはまったく異なる〈非存在の世界〉に住んでいたというのは反事実的である。残された道は後者を却下するか心身二元論を信じるかのどちらかである。

 

 

【異論3】「生まれてきてよかった」の可能性

 ベネターは悲観主義の立場に立ちながら苦痛を快楽よりも重視する「苦痛と快楽の非対称性」を主張する。しかし、楽観主義者はベネターとは逆に苦痛より快楽の方を重視するはずである。コンビニのスイーツを食べただけで「生れてきてよかった」と思う人は現実に存在するのだから。

 しかし、ベネターはそういう楽観主義者をたった一言「非理性的である」といって却下する。そして、世界には良いこともたくさんあるのに殊さら悪いことだけに目を向けるのだ。

 たった一つの悪いことがあるだけで「生れてこない方がよかった」と言えるのなら、それとは逆に、たった一つの良いことがあるだけで「生れてきてよかった」と言えるのではないか。少なくともそのように言える可能性は常に存在するように思う。

 それに加えて「苦痛=悪いこと」だとしても常に「苦痛>快楽」になるわけではない。私たちの現実的な感覚では「苦痛は嫌だ」と「快楽は良い」が相半ばしながら同居している。この現実的な感覚を手放さないのなら、潔癖症的に「苦痛の可能性」がただあるだけで「生まれてこない方がよかった」などとは言えないはずである。

 

 

【異論4】「人間存在は不合理である」

 ベネターの議論はとても空しく感じる。「子どもを生むべきではない」と主張したい気持ちは理解できるが、なぜそこまでムキになっているのだろう。そもそも「子どもを生む」という選択は論理的に正しいからでも利害損得(快苦の計算)でプラスになるからでもない。

「人間は合理的存在である」という仮定のもとに、「苦痛=悪いこと」「快楽=良いこと」という功利主義を採用しながら「苦痛>快楽」という非対称性を導入すれば損得計算によって「非存在>存在」になる。だから子どもを生むべきではない。これがベネターの反出生主義のモデルである。

 しかし、子どもを生もうとする人は論理や功利計算ではなく「論理」を超えたもの —— 不合理な欲望 —— に突き動かされた結果である。不合理な欲望はただの性欲かもしれないし高尚な愛かもしれないが、そういうものがなければもはや人間は人間でなくなってしまうのではないだろうか。

 ベネターが描いてみせる反出生主義のモデルには、私たちの現実的な人生がまったく反映されていない。私たちの人生全体は苦痛と快楽の損得計算以上の何かを含んでいるはずである。子どもを生むという選択もそういった損得計算以上の「何か」の結果なのである。

 

 

【参考文献】

森岡正博 著『「生まれてこなければよかった」の意味 生命の哲学の構築に向けて(5)』(2013) ⇒PDF

森岡正博 著『「生まれてくること」は望ましいのか デイヴィッド・ベネターの『生まれてこなければよかった』について』(2013)⇒PDF

・吉本陵 著『人類の絶滅は道徳に適うか? デイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」とハンス・ヨーナスの倫理思想』(2014)⇒PDF

 

 

*1: 引用はすべてベネター著『生まれてこない方が良かった』より。読みやすさを考慮して改行を挿入した部分がある。

 

*2: ベネターは第4章[p132〜4]においてロングフルライフを肯定している。