おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"がつづる日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想など。

「強さ」というイデオロギー —— 精神的に生きづらいのは「心が弱い」からなのか

 生きづらさや精神的なつらさを訴えることは「弱音を吐く」(意気地がない)ということになるのでしょうか。あるいは、自死する人やうつ病になる人は「心が弱い」ということになるのか。今回はそういうことについて一考してみたいと思います。

 

〈強さ-弱さ〉が問題なのか

 まず、どうして精神的につらいときに正直に「つらい」と言ったりすると「弱い」ということになってしまうのでしょうか。

 結論を先に言うなら、つらいときに「つらい」と訴えることは強いとか弱いとかの問題ではないと思います。

 しいていうなら生きづらさの問題は〈強い-弱い〉の問題ではなく〈合う-合わない〉の問題だと考えます。精神的な生きづらさは、足のサイズと靴のサイズが合わずに靴ずれを起こしているようなもので、こういうときに「靴ずれになるのはあなたの足が弱いからだ」とか「靴ずれの痛みに耐える強さがたりないからだ」なんてことは言えないはずです。

 靴ずれが起きて痛みが酷いのならまずは「靴を脱ごう」と言うべきなのに、靴ではなく足の方を問題にして、こうなってしまうのは「お前の足が悪いからだ」とか「お前が弱いからだ」ということになるのは明らかにおかしいと思います。

 生きづらさの問題は〈合う-合わない〉の問題です。不一致・ズレ・折り合わなさ・不適合・摩擦係数の大きさ......。こういう問題系だと思います。けっして精神的な〈強さ-弱さ〉の問題ではない。

〈合う-合わない〉の問題を〈強い-弱い〉の問題だと履き違えてしまうこと。合ってないことが問題なのにその合わなさを強さで突破しようとすること。これを例えるなら、小さなカギ穴に大きなカギを力いっぱい差し込んで「カギが入らないのはお前の力が弱いからだ。もっと強い力が必要だ!」と言っているようなものです。合わないことが問題なのに弱いことが問題だと勘違いしているわけです。

 

「強さ」というイデオロギー 

 どうして〈合う-合わない〉の問題が〈強さ-弱さ〉の問題に変換されてしまうのか...。社会には「強いことはよいことだ=強くあらねばならない」という価値=規範があるからです。強さや弱さというのは単なる事実の問題ではなく「強いことは良いこと/弱いことはダメなこと」という価値観の問題として存在しています。

 このような「強さの論理」が幅を利かせている社会では、何かにつけて個人の〈強さ-弱さ〉が問題にされ、何かができなかったり失敗したり上手くいかなかったりすることはすべて個人的弱さに還元されていきます。「そうなったのはあなたが弱いからだ。もっと強くなろう。弱くあってはならないのだ。」いわゆる精神論的自己責任論です。

〈強い-弱い〉の問題になった瞬間にすべては個人の問題になってしまいます。「靴ずれ=生きづらさ」は靴のサイズや形が問題なのではなく足のサイズや形が問題にされる。強さの論理は足に靴を合わせるのではなく、靴に足を合わせるように仕向けるわけです。そして「靴ずれ」の痛みを個人的弱さの問題に粉飾し、努力や我慢の言説(精神論)で痛みに耐えることを強いてきます。

 

「我慢がたりない」という精神論 

 精神的なつらさを口にすると「我慢がたりない。つらいのはみんな同じだ。みんな我慢しているんだよ...」みたいなことを言ってくる人たちがいます。そもそも我慢できないから「つらい」と訴えているのに、どうしてその状況のうえでまたしても「我慢がたりない」ということになるのか。

 我慢の強弱なんて数値化できないのだから「たりてない」とか「たりてる」なんてことは言えないはずです。それに、まったく何も我慢していない人間なんていないでしょう。

 なぜなら、生きることは我慢の連続で、お腹が空いたら即座に満腹になるわけでもないのだから何かを食べるまでは空腹を我慢しなければならないし、尿意をもよおすことがあっても近くにトイレがなければ少しの間は我慢しなければならない。

 寒さ暑さも我慢しなければならないときがあるし、欲しいものがあってもお金がなければ我慢するしかありません。眠くても勉強やら仕事やら用事やらをしなければならないこともあります。すべてのことを自分の思うがままにコントロールできる人でないかぎり、「生きる」とは何かを我慢しながら前へ進むことでしょう。  

 こうやって人間というのは大なり小なり何かを我慢しながら生きているわけです。なのにどうして「精神的につらい」ということを言うと「我慢がたりない」ということになるのか。我慢なんてとっくの昔にしています。だって生きているのですから...。

 もし「我慢指数」とか「我慢量」というものがあるなら数字でもって客観的に示してほしい。そして「この我慢指数を下回ったら我慢がたりない」ということを示してほしい。それが言えないのなら根拠もなしに「我慢がたりない」などとは言えません。

 当てずっぽうのふわっとした感じの漠然とした流れのノリや気分や空気に身をまかせながら、他者への想像力も働かせずに「我慢がたりない」などと言わないでほしいのです。

 それでも精神論を言う人たちは相も変わらずこう言います。「人生には我慢しなければならない時があるんだよ。そんな時には耐えることも必要なんだよ」と。たとえば、失恋、失業、不採用、事故、病気、不運、失敗......等々。人生ゲームに登場しそうな定番化している不幸事です。

 不運にもそういった不幸なマス目に止まってしまった時、精神論は個人的我慢を強要し「弱音を吐くな。我慢するのだ!」ということを言う。そして、そういうマス目に止まった時に精神的につらくなるのは「自分の心が弱いからだ」と考える。ここから「心を強くしよう。もっと強くあらねばならない!」という強さのイデオロギーに取り憑かれることになる。

 これは本当に滑稽なことです。失恋などが精神的につらいのは当然自然なことなのに、そのつらさを我慢しなければならない。なぜ「我慢」なのか。つらいのなら我慢などせずに「つらい」と言えたほうがよいのではないでしょうか。つらいことはつらいのだから、そんなときに心から「つらい」と言えないのなら、つらさをつらさとして体験できないことになります。これはつらさの否認(抑圧)になってしまいます。

 

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【 まとめ 】

 精神的な生きづらさは〈合う-合わない〉の問題なのに、そのような精神的なつらさを「強さ」というイデオロギーは強さの論理でもって〈強い-弱い〉の問題に変換し、すべての原因を個人的弱さに還元します。そして、精神的なつらさは「我慢がたりない」から生じるのであり、もっと我慢できるように、もっと強くなるように要求します。

 そのような強さの論理が幅をきかせている社会では、精神的なつらさを正直に訴える人は「弱い人」だと見なされます。精神的なつらさは我慢しなければならない。なのに、それをせずに「弱音を吐いている人」だと決めつけられる。結果、周囲からそう見られてしまうことを過度に恐れるようになり、つらさを否認するしかないのです。

 しかし、そもそも精神的な生きづらさは〈強い-弱い〉の問題ではなく〈合う-合わない〉の問題(靴ずれ)です。だから精神的なつらさを口にしてもそれは「弱音を吐く」ことではない。「弱い」のではなく「合わない」ことが問題なのだから、「合わない=つらい」と訴えることは当然のことだと思います。*1

 

*1: 「身体」と「精神」の〈強さ-弱さ〉という問題を整理すると以下のようになります。

〈身体〉

 (1) フィジカル的な身体の強さ(筋肉的な強さ・運動能力など)

 (2) 医学的な身体の強さ(かぜをひきやすいとか病気にかかりにくいなど)

 

〈精神〉

 (3) 意志の強さ(目標へ向けての継続性・持続性)

 (4) メンタルの強さ(不安や緊張)

 (5) 心の強さ(生きづらさ・精神的なつらさ)

 

 以上の(1)~(5)のなかで本当のところ〈強さ-弱さ〉が問題になっているのは(1)のみではないかと思います。その他の(2)~(5)は〈強さ-弱さ〉の問題ではない。

 (3)の「意志の強さ」はアルコール依存症のセルフヘルプ・グループによって真っ先に否定されています。依存症(アディクション)は意志の強さの問題ではない。意志の強さによって依存症を断ち切ることができると思ってしまうことが逆に当事者を困難な道に招き入れてしまうのです。

 (2) の「医学的な身体の強さ」とは、「生まれてから一度も病気になったことがない」というようなときに「身体が強い」と表現したりすることを意味しています。(1) の「フィジカル的な身体の強さ」とは、プロレスラーやボディビルダーを想像すると分かりやすい。

 プロレスラーはいかにも身体が強そうに見えますが、プロレスラーだって病気になったりかぜをひいたりします。(1) は鍛えることができますが (2) はそういう意味では鍛えることができません。病気のなりやすさは〈強い-弱い〉だけでは語れない身体の体質的なものが関係していると思います。(4) は (2) とほぼ同じことで、(5) は〈合う-合わない〉の問題です。