おんざまゆげ

@スラッカーの思想

『経済成長がすべてか? — デモクラシーが人文学を必要とする理由』/ 「ディーセントな人間」になるために

著者である「マーサ・ヌスバウム教授」の経歴

 アメリカのシカゴ大学教授で女性哲学者。専門はアリストテレス研究だが、哲学以外にも古典学、政治哲学、法哲学、教育学、フェミニズムなど多数の著作があり、幅広い分野で活躍している。2016年には京都賞を受賞した。

 本書はヌスバウム教授の「教育論」に関する本である。 *1

 

日本で巻き起こった「文系学部不要論」

 ことの発端は以下。

 2015年6月、《 下村博文文部科学相は8日、全国の国立大学法人に対し、第3期中期目標・中期計画(2016~21年度)の策定にあたって教員養成系や人文社会科学系の学部・大学院の廃止や転換に取り組むことなどを求める通知を出した。》*2

《 人文社会科学系と教員養成系の学部に関し「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努める」と迫った。》 *3

 反発は必至だ。

日本学術会議が「大きな疑問」との声明を発表するなど、学術界から異論が噴出し、マスメディアも批判を強めています。文科省は「人文社会科学系などの特定の学問分野を軽視したりしない」(高等教育局長、9月18日)と釈明していますが、現実には、人文・社会科学系の縮小が進行しています。》*4

 

 この「騒動」がきっかけになり、2015年以降、以下のような本が出版されている。

現代思想 2015年11月号 特集=大学の終焉 -人文学の消滅-
 

 

哲学しててもいいですか?: 文系学部不要論へのささやかな反論

哲学しててもいいですか?: 文系学部不要論へのささやかな反論

 

 

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

 

 

 

それは世界的な流れだった...

 本書は2013年出版である。*5 ヌスバウムによれば、大学の一般教養教育(主に人文学)を廃止しようとする流れは、先進国(欧州・米国)やインドの大学に見出される顕著な特徴であるという。

 理由は簡単。「コスパ重視」である。すぐに利益に結びつくような教育(職業訓練的教育)を効率的に教えたいがために、文学や哲学、芸術といった科目を削減する。これは経済界からの要請でもある。安倍政権による2015年の文科省通知も、実は世界のトレンドを反映したものだった。

 

「人間的な人間」になるために

 なぜ、一般教養教育(人文学)は必要なのか。一言でいえば「人間的な人間」(まともな人間=ディーセントな人間)になるためである。

 他者の立場に身を置くこと(想像力)、権力を疑うこと(批判的精神)、自然を情感的に感じること(美的感受性)、平等や公正を重んじること(正義感覚)、正当な怒りや憐れみを持つこと(人間的な道徳感情)...など。これらの要素を備えた「人間的な人間」になるためには教育が必要であり、特に「人文学」は必要不可欠である。

 すべての人間が「人間的な人間」になる必要はないが、デモクラシーが正常に機能するためには市民社会の主たる構成員が「人間的な人間」でなければならない。なぜなら、「貧困は自己責任」といったような自己責任論を弄する人たちが多数派になってしまったら、もはやデモクラシーは機能不全に陥り、国は崩壊してしまうからだ(崩壊する過程では社会的に弱い立場の人たちから犠牲になっていく)

 ヌスバウムが最も危惧するのはそのような「デモクラシーの機能不全」である(米国における「トランプ現象」がまさにそうであるように...)。 したがって、本書の要諦は次のようになる。*6

(1) デモクラシーが機能するためには「人間的な人間」が必要。

 

(2) 「人間的な人間」になるためには、すぐに利益に結びつくような教育だけではなく、地道な一般教養教育(人文学)が必要。

 

もはや日本は手遅れでは...

 さて、日本はどうなのか。日本は経済的には「成功」したのかもしれないが、弱い立場の人々に冷たい人たちが増えているのではないか。日本ほど「経済的豊かさ」を急速に追求した国はないのではないか...。その副作用が「失われた20年」以降、顕在化しつつあると思われる。

(詳しくは次を参照:「データで明らかになった「残酷で冷たい日本人」⇒阿部 彩『弱者の居場所がない社会——貧困・格差と社会的包摂』/すべての人が包摂される「ユニバーサル・デザイン社会」

 ヘイトスピーチネトウヨ的な言説、パワハラやセクハラ、陰湿ないじめ、能力が疑問視される政治家たち(地方議員も含む)、無責任な官僚(改ざん・隠蔽・破棄)、都合のよいことしか報じない大手メディア、エゴイズム丸出しの経済界経団連非正規労働者を排除する労働組合(連合)ブラック企業ワーキングプア(特に保育士や介護士)、外国人労働者差別技能実習制度)、いじめを隠蔽する教師、子供の虐待、障害者差別...。

 問題は山積している。もはや手遅れではないか? 今から呑気に「人文学」か?

 しかし、それしかないと思われる。地道に人間性を涵養するしかない。

 

*1: マーサ・ヌスバウム教授

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*2:教員養成系など学部廃止を要請 文科相、国立大に :日本経済新聞

 

*3:【信濃毎日新聞】 人文学の危機 大学の足元を揺さぶる – THE 社説一覧

 

*4:国立大学文系の再編・縮小 安倍政権の不当な介入(上)/「ミッション再定義」で押し付け

 

*5:原書は2010年刊

『Not for Profit: Why Democracy Needs the Humanities (利益のためではなく — 民主主義に一般教養教育が必要な理由)』

 

*6: アダム・スミスは有名な『国富論』を出版する以前に道徳哲学の古典である『道徳感情論』を著している。ここからわかるのは、経済がまともに機能するためには、人間の感情がまともでなくてはならないということである。