おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「あられもなさ」という性的快楽 —— なぜ、恋愛感情とセックスはつながるのか (2)

概要

 セクシュアリティにかんする問題は本ブログのテーマの一つである。*1

 恋愛感情とセックスの関係については以下の記事で詳しく論じたのだが、今回はこの話のつづきである。*2

tunenao.hatenablog.com

 

  SOGI(ソジ)

 最近では「LGBT」にかわって「SOGI」という分類法が推奨されている。SOGIとは「Sexual Orientation and Gender Identity」の頭文字を取った言葉であり、性的指向(Sexual Orientation)と性自認(Gender Identity)のことを指す。

 セクシュアリティに関する考察をするからには、まずは筆者のセクシュアリティが分かっていなければならないと思われる。そこで、私のセクシュアリティを簡単に提示しておきたい。*3

 ・性別 ⇒ 「男性」  

 ・性自認 ⇒ 「男性」

 ・性的指向 ⇒ 「ヘテロ・デミロマンティック・アセクシュアル

 性的指向について簡単に補足すると、「デミロマンティック」とは〈 例外的に恋愛感情を抱く人 〉という意味。要するに「恋愛感情がほとんどない人」である。まったく恋愛感情を抱かない人は「アロマンティック」と呼ばれる。(私の場合は、アロマンティックに近いデミロマンティックかもしれない。)

アセクシュアル」とは、〈セックスの欲求がない人〉という意味。これは「セックスしたい」とか「キスしたい」といったような性的欲求がない人である。

 どんな人にも言えることかもしれないが、私の性的指向は流動的である。デミロマンティックからアロマンティックに変わるかもしれないし、ヘテロからバイセクシュアルに変わるかもしれない。特に、最近はデミロマンティックぎみだけど、何かの拍子にロマンティックに変わるかもしれない。

 あと、マスターベーションの有無はアセクシュアルには含まれないと私は考えている。なぜなら、問題になっているのはあくまでも「生身の身体によるセックスをしたいかどうか」という性的欲求(セックスへの欲求)のことだからだ。(加えて言うなら「アセクシュアルの人はマスターベーションもしない」というのは事実に反する)

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mtwrmtwr.hatenablog.com

 

本当に知りたいでしょうか? 勝間さんの恋愛事情!

 非ロマンティック(恋愛感情がない・ほとんどない)に分類される人たちは、おそらく世の中の恋愛事情のようなものにもあまり関心がないと思われるのだが、どうだろうか...。私の場合は、恋愛小説はたまに読んだりするけど、映画やドラマやアニメの恋愛メインのラブストーリーに関してはほとんど興味がない。あと、芸能人の恋愛情報にも興味がない。

 最近、経済評論家の勝間和代さんが同性愛をカミングアウトした件が話題になっていた。(勝間和代氏の「同性愛カミングアウト」に反響続々

 勝間さんのカミングアウトは社会的に意味があることだと思うし、とても素晴らしいことだと思う。だけど私は、勝間さんの恋愛事情なんてクソどうでもいいとも思っている。そもそも私は「恋愛」を特別なものとは思っていない。

 誰かが誰かを好きになった。その誰かが同性だった。事実としてはただそれだけのことなのだが、同性愛というのが「普通ではありえないこと」だと思われている度合に応じて社会のなかに「反響」が巻き起こることになる。

 非ロマンティックの側から見れば、そのような反響にはもう一つのレイヤーが隠されていると感じる。それは「人間ならみんなごく自然に恋愛感情を持つだろう」という自明性である。

 社会の多数派であるマジョリティ(ロマンティックな人)が重視する恋愛は、人間関係におけるコミュニケーションの問題として一般化される。ここから「コミュニケーション能力の低い人=恋愛ができない人」という等号が成立し、恋人ができにくい人を「非モテ」とよんだりする。そのような「非モテ」というスティグマも「すべての人間がロマンティックな恋愛感情を持つだろう」ということを前提としている。

 世間的には、非ロマンティックに分類される人たちはロマンティック陣営によって一方的に「非モテ」に分類されてしまう。非ロマンティックな人は、ロマンティックな人たちから「あの人は恋愛できない人⇒モテない人」というレッテルでもってロマンティック化される。よって、非ロマンティックな人は非ロマンティックな人としてあるがままを理解されることがない。*4

 セクシュアルマイノリティにおける概念化(アロマンティックやアセクシュアルなど)の重要性は、「異性愛があたりまえ」という偏見を破壊すると同時に「恋愛するのはあたりまえ」という偏見をも破壊する点にある。同性愛が社会的に受け入れられることはよいことであるが、それは「恋愛するのはあたりまえ」という前提にもとづくものであってはならないと思う。

 

恋愛感情とセックス

「恋愛感情とセックスは分離していてもよい」というのが前回の記事で出した私の結論である。「好き」という恋愛感情と「セックスしたい」という性的欲求はそもそも独立したものであり、その二つがつながる場合もあれば切れている場合もある。

 性欲を否定的に考える性道徳ではプラトニックラブ(精神的な愛)が推奨されていたが、「性愛」に関してはむしろ恋愛感情とセックスをごく自然につなげてセックスを推奨する。それによれば、性愛における恋愛はセックスにおける至福体験によって完結する。

 巷で理解されている恋愛やラブストーリーが想定している恋愛は、セックスを前提とした恋愛(つまり性愛)である。たとえば、物語において「男が女に告白して付き合うことになる」といった話は「恋愛が始まる」ということを意味する。と同時に、うまくいったら行く行くは「セックスしたい」ということをも意味する。

 私が疑問に思うのは、「恋愛感情のモード」と「セックスのモード」は明らかに違うのに、なぜ二つはごく自然に「性愛」というかたちでミックスされるのか、という点にある。「好き」という恋愛感情と「セックス」という肉欲モードは「文化」がぜんぜん違うからだ。

 

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なぜ、恋愛感情はセックスにつながるのか

 ごく簡単に整理しよう。

 恋愛感情の文化は「日常モード」(ほのぼのモード)であり、お互いに節度を重んじながら服装や見た目を気にしたり相手に失礼にならないようにしたりして人間関係の距離を徐々に縮めていく。食事をしたりデートに行ったりしながら二人の関係性を深めて、たくさんの思い出をつくっていく...。おそらく、恋愛感情のモードにおいてはそれだけで満足するはずである(友情がそうであるように)。

 一方、セックスの文化は「非日常モード」(肉欲モード)であり、お互いに裸になってタブーとされている行為を思う存分、行う。この行為は「同意」がなければ直ちに「暴力」になり、公衆の面前で行えば犯罪になる。つまり、セックスというのは日常的には禁止(タブー化)されている行為であり、見方によっては犯罪的な行為になりうる。

 以上のように、「恋愛感情」と「セックス」とでは文化がまったく違うのだ。しかし、性愛という形式の恋愛では、「服を着た状態」の恋愛感情の文化=日常モード=ほのぼのモードから「服を脱いで性器を露出した状態=日常では禁止されている猥褻な状態」であるセックスの文化=非日常モード=肉欲モードへとごく自然に接続される。

 こう思わないだろうか。つまり、恋愛感情の文化=日常モード=ほのぼのモードの空間を生きている恋人が好きだというなら、その大好きな恋人に対して、日常では禁止されている猥褻な行為=服を脱がせて性器を露わにする行為=タブーな行為=アブノーマルな変態的行為=野獣のような犯罪的行為...をしてしまってもいいのだろうか、と。「好き」だというのなら、むしろそんなことをしてはいけないのではないか。なぜ、よりにもよってこの世で一番「好き」だと思う人にそんな「酷いこと」をするのか...。

 

動物行動学者の言い分

 ある人は次のように言うかもしれない。「好き」だと思う相手だからこそ禁止されている行為をすることが「性的に気持ちいい」のではないか、と。

 普段は禁止されている行為を思う存分にやってしまうこと(たとえば「祭り」などがその典型)はすごく気持ちがいいと思う。そして、好きな人に猥褻な行為をするのと好きでもない人に猥褻な行為をするのと、どっちの方が気持ちいいかといえば、確かに前者の方が気持ちいいのかもしれない。

 そう考えると、性愛という行為の本質は「気持ちいいセックスができる」ということに集約されるのではないか。恋愛感情のモードにおいて「好き」だと思った人とセックスする方が、そうではない人とセックスするよりも「気持ちがいい」。ということは、つまり、恋愛感情のモードはセックスの気持ちよさを高めるための「味付け」程度の意味でしかないのかもしれない。*5

 この世で一番「好きな人」は、この世で一番「大切な人」でもある。この世で一番大切な人に、日常では禁止されている絶対にやってはならないこと=タブーなこと=猥褻なこと...をしてしまう! 性愛の本質とは、そのような「落差」(=ギャップ)から性的快楽を引き出すところにあるのではないか...。

 ヒトの性行動の専門家である動物行動学者も概ねそのように考えているようである。動物行動学者は生物学的・進化論的に性行動を考えるので、おのずと「生殖」に関連づけてセックスや恋愛感情を説明する。

 ヒトには動物特有の発情期がない。ヒトが発情するタイミングはいつかというと、それは「服を脱いで性器を露わにしたとき」である。人間社会ではセックスがタブー化されている。日常では必ず服を着て性器を隠さなければならない。このように「猥褻はタブー」とされているからこそ「服を脱いで性器を露わにすること」が威力を発揮する。このタイミングでセックスのモード(発情スイッチ)は発動するようにできている。

 つまり、「服を着た状態」と「服を脱がせた状態」のギャップからセックスのモードは作動するわけである。これは「世界で一番大切な人に、よりにもよって猥褻な行為をしてしまう」という先ほどの性愛的ギャップと同じ仕組みであることがわかる。動物行動学者の説明によれば、そのような仕組みによるセックスが「生殖」をするうえで有利なように働いてきたという。

 私はひとまず「生殖」に関しては横においておく。ここで注目すべきことは、やはり「発情スイッチ」と「性的快楽」を同時に引き出す「性愛的ギャップ」についてである。

 

恋愛感情とセックスをつなぐのは「あられもなさ」である

「ギャップ萌え」という言葉があるように、ある種のギャップが「萌え=興奮」に結びついているということは異論のない事実であると思う。*6

 性的興奮に結びつく「性的ギャップ」を一言で表現する言葉があるとすれば、それは「あられもない」ではないだろうか。「あられもない」とは、「そうであるはずがない」「あるまじきことだ」という意味である。非セクシュアルな意味でも使用されることがあるが、そのほとんどの使用法は女性に対するセクシュアルな意味で用いられることが多い。*7

 「あられもなさ」を分かりやすく例示するなら、「あんな人が...こんなことを...」という形式になる。たとえば、「あんなに清楚な人が、こんなに淫靡なことをするなんて...」とか、「あんなにまじめでかわいい人が、こんなに乱れた姿になるなんて...」など...。

 これに関しては、人それぞれの好みのシチュエーションがあったりして、一概に「これだ」という決定的な具体例はない。とりあえず、どんなシチュエーションを想像したとしても、「あんな人が...こんなことを...」という形式から引き出される「あられもなさ感」によってギャップを生みだそうとしていることは共通していると思われる。

 要するに「あられもなさ」とは、私たちが「あんな人が...こんなことを...」の形式でつくりだす物語=イマジネーションである。どんなに想像力の乏しい人であっても「服を着た状態」から「服を脱いで性器を露わにした状態」へと変化すれば、「あんな人が...こんなことを...」という物語=「あられもなさ」が生じるはずである。

 

《 結論 》

 私が今回提示する仮説は身も蓋もないものだと思う。

 セックスを前提にする恋愛(=性愛)における恋愛感情とセックスとの関係は、箇条書きにすると以下のようにまとめることができる。

(1) 性愛において、より本質的なのはセックスである。

(2) 性愛における恋愛感情はセックスをより気持ちいいものにするための手段(味付け)

(3) 恋愛感情が高まるほど「セックスがしたい」という欲求は高まる。

(4) 恋愛感情が高まるほどセックスは気持ちいいものになる。

(5) 恋愛感情とセックスを相関させるのは性的興奮を触発する「ギャップ」にある。

(6) 性的興奮を触発する「性的ギャップ」の本態は「あられもなさ」にある。

(7) 「あられもなさ」はセックスの発動(発情スイッチ)とセックスの快楽を増幅させる。

(8) 日常的にセックスがタブー化されているのは「あられもなさ」のインパクトをより高めるための文化的工夫である。

(9) 猥褻は「あられもなさ」を引き出すために生まれた文化である。

(10) 以上のすべては生物学的には「生殖」に関係している。

 

まとめ

 私たちは普段「日常」の中を生きている。そこでは必ず服を着て性器を隠しているし、身だしなみを気にしている。日常では私たちは「乱れてはならない」のである。このような日常の中から恋愛感情のモードは生起し、恋愛の文化は営まれている。これを「表の文化」と呼ぶとすれば、セックスのモードは「裏の文化」である。セックスの文化は「非日常」であり、裸になって性器を露出する。これは「あられもない乱れた行為」であるが、生物学的には生殖に結びつく最も重要な行為でもある。

 そう考えると、表と裏は逆転する。実は、裏の文化を機能させるためにこそ表の文化は営まれているのではないか。つまり、「あられもなさ」というギャップを維持するためにこそ日常の礼節(=規範)は厳しく設定されているのかもしれない。そして、「世界で一番大切な人を犯す」という最大級のギャップによって私たちの発情スイッチはオンになり、最大級の性的快楽を得るわけである。

「あられもなさ」とは、私たちの文化がつくりだす盛大なイマジネーションの産物である。したがって、上にあげた(1)から(9)は客観的な事実などではない。セックスをすると子供ができることがある、というのは生物学的事実であるが、それに至るまでの性愛的な過程のすべては私たちの脳がつくりだす壮大なイマジネーションである。*8

 そのような「あられもなさ」というトリックにたまたま反応しない人たち・反応しづらい人たちがいる。それが「アセクシュアル」なのではないだろうか。私たちの性的欲求は動物的な本能などではなく、文化的なトリックとしての「あられもなさ」に反応するだけの擬似的本能であるにすぎない。ゆえにトリックに反応しない人がいたとしても何ら不思議ではない。

 以上が私の結論であるが、あるいは次のようにも言えるのかもしれない。セックスというのは「合意」がなければ暴力=犯罪になってしまう。だから、そのような「合意」を裏付けるものが恋愛感情の有無にあるのだと...。これは常識的な公式見解であり、表の文化では通用するロジックである。しかし、恋愛感情がなくても「合意あり」の合法的セックスをすることはいくらでも可能である(愛人契約・セフレ・出会い系・援交など)。

 また、何よりも裏の文化のロジックでは、恋愛感情を媒介にした「あられもなさ」の性的ギャップこそがセックスへと誘導する要因(発情スイッチ)であり、気持ちいいセックス(性的快楽)を高める資源になっている。

 したがって、私たちの「日常」に猥褻という観念があり、猥褻を厳しく取り締まる法律が維持されている限り、「あられもなさ」は恋愛感情を媒介にして私たちを永遠に裏の文化へと導き続けるはずである。(了)

 

《 脚注 》 

*1: セクシュアリティは重要なテーマである...

 理由としては、私が「セクマイ」で「百合好き」という個人的な問題からであるが、しかしその一方で、マイノリティを苦しめる社会的文化的な規範性に対して打撃を与えたいという動機もある。社会のなかで「普通」と思われているものは実はぜんぜん「普通」ではないということが分かれば、マジョリティはもっと謙虚になるだろうし、マイノリティはもっと生きやすくなると思うからだ。

 

*2: 前回の続きを書いてみた...

 といっても、まったくの勉強不足で、新しい知見はほとんどない。(本当はもっと先行研究や文献を調べたいのだが...。)

 

*3: 本文における考察は一般性や普遍性を目指して書かれたものではなく、あくまでも私のセクシュアリティヘテロ男性のアセクシュアル的視点)から書かれたものである。

 本文ではセックスに関しても恋愛感情に関しても「男性視点」になってしまっているが、私はそれでもいいと思っている。セクシュアリティに関しては、すべての人に当てはまる一般性の高い仮説モデルなどないと思うからだ。異性愛が行うセックスと同性愛が行うセックスは違うだろうし、男性の感じ方や女性の感じ方も違う。何に対して性的に興奮するかは人それぞれである。そういった差異性をすべて捨象した「人間」の観点にもとづくセクシュアリティ(すべての人間に共通した感じ方)もあるのかもしれないが、私はそういった考え方こそが “「普通」からの逸脱 ” という偏見や差別につながるのではないかと思っている。

 

*4: 非ロマンティックな人たちは、ロマンティック陣営によって一方的に「非モテ」に分類されてしまう...

 唯一の例外として考えられるのは、容姿が美しかったりイケメンだったりする人たちである。見た目がモテそうな人が「恋愛に興味がない」と公言しても周囲から「非モテ認定」されることはないだろう。

 

*5: 恋愛感情のモードはセックスの気持ちよさを高めるための「味付け」にすぎない...

 そう考えると、恋愛感情も広義の「前戯」(あるいは「前戯の前戯」)とよんでもいいのかもしれない。

 

*6: ギャップ萌えとは...

 簡単に言うと「普段は眼鏡をかけている人が眼鏡を外したときに感じる落差」に萌える(=興奮する)ことである。ちなみに「萌え」にはセクシュアルなものと非セクシュアルなものとがあり、必ずしも「萌え=性的興奮」となるわけではない。

 

*7: セックスとジェンダーの関係について...

 それについては今回は詳細に論じることはできなかった。私はセックスについては必ず非対称性があると思っている。つまり、セックスという行為は同性愛だろうと異性愛だろうと「導く人=能動的な人=俗に言う男役」と「導かれる人=受動的な人=俗に言う女役」というふうに二つに分かれると思っている。しかし、「ハメるのは男、ハメられるのは女」とか「ヤルのは男、ヤラれるのは女」という固定的なジャンダー規範にもとづくセックス文化については反対したいと思っている。

 

*8: 「裏の文化を機能させるためにこそ表の文化は営まれている」...

 以上のように考えてみると、表の文化で重視されている価値観のほとんどは裏の文化からの要請であるということに気づかされる。私たちが見た目の美醜に拘ってしまうのは、見た目が美しい方が「あられもなさ」という幻想を引き出しやすいからである。

 そして、私たちが日常世界=表の文化で毎日せっせと規範に準じて行動しているほとんどのこと(学校に行ったり仕事に行ったり家族は大切だと思ったり、恋愛をしなければと思ったり子供を産まなければと思ったり、身だしなみを整えたり服装を気にしたりすることなど......等のほとんどすべての社会生活の規範意識)は裏の文化=「あられもなさ」の発動のための資源になるからこそ重要なのである。

 そう考えると、私たちはまるでバカげたマリオネットのようで愉快になってくるではないか...。私たちの「自意識」は裏の文化によって操られており、周囲からどう見られているか...といった自意識のほとんどは「あられもなさ」の発動のためにこそある。だからこそ、「自意識過剰」はバカげているし、恋愛幻想やセックス幻想に悩まされるのもバカげている。

 裏の文化が仕組んだ策略から自由になるためには、まずはそのメカニズムを暴露し、その作動条件を吟味したうえで、表の文化を表の文化として生きることを可能にすることが必要であると思われる。すべての「くだらなさ=たかが人生=たかが仕事=たかが学校...」という「たかが...」の構えをつくりだすことが裏の文化が仕組んだ「生きづらさ」を軽減する方法ではないだろうか。私はこのブログも今回の記事もその方針のもとに記述しているつもりである。