おんざまゆげ

@スラッカーの思想

異性愛主義と性差別 —— セクシュアリティ・フェミニズム・クィア理論 (1)

 今回は竹村和子さんの書籍(論文集や対談集)などをひもときながら「セクシュアリティ」について考えてみたいと思います。

 すなわち [ヘテロ]セクシズムが、わたしの身体/精神の隅々までを構造化している … (竹村 2002:135)

 なぜ「セクシュアリティ」を問うのか

 セクシュアリティにこだわる理由 —— それは、すべてのひとがもれなくセクシュアリティに巻きこまれている=“被害”を被っているから…。多様で多義的で混雑的(ハイブリッド)な身体を「二つの性的身体」——「男の身体」と「女の身体」 —— へと強制的に分割し、二分法的に切断した二つの性的身体を強制的に組み合わせる。このような原理(異性愛主義)は性差別を内包しながらさまざまなひとたちの可能な生/性のありようを簒奪している。

 社会のマジョリティ(たとえば、標準世帯を構成している「男」)であればあるほど、そのようなセクシュアリティジェンダーの規範が生みだす毀損性から距離をおくことができる。一方、性的マイノリティのほうは「ただ一つの正しいセクシュアリティ」を社会から強制されることになる。

 いろんな生/性のかたちがありうるのに、バサッと二つの性に分割すること――。これはどこかおかしいのではないか。そういう問題意識からセクシュアリティを問うことが必要だと考える。

〈混雑的人間のジェンダー二元論〉
 ジェンダーは男女の社会的な性差である。ということは、社会のなかに「男」と「女」がいるということである。それはどういうことか? それは、社会のなかに「男」と「女」以外の者はいないということであり、人はかならず「男」か「女」かのどちらか一方であるということだ。したがって「男」でもなく、「女」でもない「中途半端な」人間は、ジェンダー規範(ノルム)のなかでは存在することができない。「気味が悪い(クイア)」とか「異常(アブノーマル)」だとみなされる。ある側面をとれば「男」であり、べつの側面では「女」であり、さらにべつの側面では「男」であり……といった混雑的(ハイブリッド)な人間は(しかしすべての人間はこの混雑性を有しているのだが)、ともかくもその混雑性に蓋をして、どちらかのジェンダー […] 強制的に振り分けられていく。しかしそもそもジェンダーは、社会的構築物のはずではなかったか。したがって、もしも社会的なジェンダーの属性が一人の人間のなかに首尾一貫してうまく当てはまらない場合には、首尾一貫した「男」や「女」のジェンダーであり続けることの方に無理があると考えなければならないのではないか。もっと穿った見方をすれば、生物学的なセックスで有無を言わせず人を分類する思想をカムフラージュするために、あたかも社会的なジェンダーが人を弁別しているかのように語っているにすぎないのではないか。(竹村 2000:21-2)

フェミニズムは「本質=自然」を「脱自然化=歴史化」すること〉
 フェミニズムは「女」というもっとも身体化されている存在、本質化されている存在を切り開いて、それを歴史化すること、つまりそれをとりまく社会関係の糸をたどり、「女」というカテゴリーのみならず、それと相補的な関係にある「男」というカテゴリーを解体し、そして女と男という「異なった二つの性」を必須のものとしている異性愛主義の桎梏――「非異性愛者」だけではなく、いわゆる「異性愛者」をも呪縛している桎梏――を明らかにすること、またひいては、「女」のアナロジーを利用して戦略的に説明されてきた他のさまざまな抑圧形態から、そのアナロジーを奪い去ることである。(竹村 2000:vii)

〈「女」の検証=社会の権力関係の検証〉

 …「女」という概念を検証することは、同時に「男」という概念を検証することであり、この二つの概念を必須の要素とする「異性愛」を検証することであり、また「異性愛に内在する非一貫性」に反応する「非異性愛」を検証すること、さらにはそのような性体制を構成している——性体制そのものである——階級や人種や民族などを含む社会の権力関係の布置を検証することでもある。(竹村 2000:46)

 

竹村和子さんの経歴

 竹村さん(1954-2011)は元お茶の水女子大学大学院教授。専門は英語圏文学、批評理論、フェミニズムセクシュアリティ研究。(著書にかんしては参考文献リストを参照)

 2013年に上梓された遺稿集『境界を攪乱する』を編集した上野千鶴子さんは…わたしは彼女を文学研究者である以上に、フェミニズム思想家であったと呼びたい。日本におけるフロイトの最良の理解者であり批判者、バトラーの翻訳者であり解説者、フーコーの言説理論やデリダスピヴァク脱構築理論を自家薬籠中のものとし、マルクス理論やネグリマルチチュード論までを土俵に載せ、文学、哲学、心理学、社会学を縦横に越境するこの女性の専門分野を、いったい何と名づければよいだろうか? 》(408)と表する。

 竹村さんは言語的社会構築主義者であり、みずからが翻訳した『ジェンダー・トラブル』(のちに「クイア理論」と呼ばれるジュディス・バトラーの主著)に依拠しながら、性別二元論的な本質主義にもとづく「異性愛主義(ヘテロセクシズム)」の廃絶をめざしていたフェミニスト思想家である。

〈境界を攪乱する〉
 本書で、竹村さんがくりかえしくりかえし果敢に挑むのは、異性愛制度(ヘテロセクシズム)とそれが強制する性的アイデンティティである。男か女か、二種類の身体のあり方しか許されず、そのジェンダー化された性的身体のもとに欲望を配置し、それ以外のあらゆる欲望を病理化し、強制されたものにすぎない異性愛を自然化する…...その全プロセスがあばかれる。それが国家と家族の基礎となり、生と死と再生産の制度をしるしづけ、人口と国境の管理をもたらし、富と再分配の原理となる。したがって男女という二項対立にもとづく異性愛制度というセクシュアリティについて批判的に論じることは、けっして局所的な「セクシュアリティ研究」に参与することではなく、世界と秩序の生産と再生産に「攪乱をもたらす」行為なのだ。

[解説 上野千鶴子あなたを忘れない」(竹村 2013:414)]

 

異性愛主義」という規範

異性愛主義と異性愛

 まず、「異性愛主義ヘテロセクシズム)」は「異性愛ヘテロセクシュアリティ」のことではない。異性愛主義とは、多様なセクシュアリティのなかからたった一つの「正しいセクシュアリティ」を強制する規範システムである。そのほかの名称に「異性愛規範ヘテロノーマティビティ)」「強制的異性愛」「異性愛制度」などがある。

 ポイントになるのは、「異性を好きになる」ということ(=ヘテロセクシュアリティと、「異性を好きになるべし(=ヘテロセクシズム)を区別すること。したがって、批判対象になるのは異性愛主義であって「異性愛」や「異性愛者」ではなく、異性愛主義を問題化することは異性愛異性愛者を否定することにはならない。

ヘテロノーマティビティ=二元論的権力〉
 … 同性愛/異性愛の二元論によって異性愛から同性愛が分離され、互いに対立的な位置に配置されているが、それは両者が対等な関係に置かれるのではなく、むしろ異性愛という規範を生成するために同性愛を構成的外部として位置づけるだけのことである。したがって、問題にすべきは、こうした同性愛と異性愛を分けて配置する二元論的権力自体であるということで、そうした権力的な規範形成力を「ヘテロノーマティビティ」と呼んでいるのだ。(河口 2003:53)

 

「マイノリティ」と「マジョリティ」

 異性愛主義は「異性を愛すべし」という規範システムである。この異性愛規範に合致しない人たちは「性的マイノリティ」と呼ばれる。ドゥルーズはマイノリティ/マジョリティを以下のように定義する。

 マイノリティーとマジョリティーは、数で区別されるわけではありません。マイノリティーがマジョリティーより数が多いこともありえます。マジョリティーを定義するのは、合致すべきモデルです。例えば、中流、成人、男性、都市在住のヨーロッパ人です。他方、マイノリティーにはモデルがありません。それは生成であり、プロセスです。…

[ドゥルーズ「革命的生成と政治的創造物」(現代思想1991.8月号 p129 / 青土社)]

  つまり、マイノリティとは単に「少数」であること(数の問題)ではなく、「合致すべきモデル」がないということである。よって、性的マイノリティの本質的な問題は、マジョリティが依拠する「合致すべきモデル=異性愛主義」から周縁化されているという点にこそある。

 日本社会において「合致すべきモデル=異性愛主義」に最も合致しているマジョリティは「男性/異性愛者/標準世帯(父・母・子の核家族)/大企業の正社員」であるが、そのような条件をすべて満たした「男」はいまや恵まれた少数者でしかない。この「恵まれた少数者」だけが得をする異性愛主義という規範システムは、依然として大多数のマイノリティを生みだしながら資本主義社会と次代再生産を支えているのである。

 

性的マジョリティは「性自認」を必要としない

 規範システムにはかならず「正常・普通/異常・逸脱」という正/負コードが存在する。歴史的構築物にすぎない「正常・普通」をあたかも自然的本質であるかのように見せかけるために「異常・逸脱」は要請され構築される。

 たとえば、「ヘテロセクシュアル」という用語は、同性愛を意味する「ホモセクシュアル」という用語がつくられたあとに「異端ではないセクシュアリティ」という意味で歴史的に誕生したという(1869年ハンガリーで生まれた)。(竹村 2002:309) つまり、ヘテロセクシュアルはあまりにも自然的本質 (普通すぎて疑うことすら必要がない)とみなされていたために、ある時期までは名指す言葉すら必要なかったのだ。

 セクシュアル・アイデンティティもこれと同じである。異性愛主義の浸透によって「正常・普通」に位置づけられた異性愛者は、性自認の必要性を免除されている。一方、異性愛主義は性的マイノリティのみに性自認の負担を押しつけ、「普通ではない」というスティグマを性的マイノリティの側に見いだしながら普通/逸脱という二元コードの再生産を維持しつづけている。

異性愛者と性自認
 異性愛を「自然」「正常」と考えている大多数の異性愛者は、性自認の必要もない […...] 「自然」であるはずの異性愛が、じつはある特定の文化によって方向づけられた異性愛の一形態でしかなく、その形態のなかでエロスがいかに制限され規制されているか、またその形態を自然化すべくいかに自己が社会的、経済的に形成されてきたかを、異性愛を自動化する異性愛者は気づく機会を奪われているのである。[......] そして自己に無自覚の多数派は、普遍/特殊の個の階層秩序を再生産する〈性自認〉を同性愛者に押しつけることで、多数派の位置を再確認することになる。(竹村 2002:68)

 

結婚と異性愛主義

 社会の規範システム=異性愛主義に適合したマジョリティは、みずからの性的アイデンティティを疑わない。では、なぜ、どのように恋愛結婚するのか。

 じつは、性的マジョリティが結婚する(したいと思う)のは、異性愛ヘテロセクシュアリティだからではなく、ただ単に異性愛規範ヘテロノーマティビティ)にしたがっているからである。社会に順応する性的マジョリティは(マジョリティであるがゆえに)、性的マイノリティとはちがってみずからの性的アイデンティティを問う必要も、性的指向を問う契機もない。異性愛者はみずからがヘテロセクシュアリティであるという自覚などないままに、単に慣習的な異性愛規範にしたがって結婚しているだけなのだ。

ヘテロセクシュアリティヘテロノーマティビティ〉
 ヘテロセクシュアリティというと、セクシュアリティの問題に聞こえますが、それをヘテロノーマティビティ(異性愛を標準と捉える価値観)というと、単なる社会規範の問題になる。/そうすると、皆が結婚していたのは、[…] ヘテロセクシュアルだったからというのは、間違った答えです。実は単にヘテロノーマティビティという社会規範があって、そのヘテロノーマティビティを支えていたのは、男が女なしで暮らせず、女が男なしで暮らせなかったという社会経済状況がインフラとしてあったから。(上野 2015:203-4)

異性愛主義と「わたし」〉
 … 異性愛を強制する社会が「異性愛の人間」に対して社会的利便と経済的特権を用意しているのならば、「異性愛的な人間」とは、「異性を性対象とする人間」というよりも…、異性愛主義の語彙で自分の社会的条件や経済的位置を説明するように強制された人間――異性愛主義の言語を媒介として、何らかのかたちで「わたし」を位置づけている人間――ということである。(竹村 2013:15-6)

 

「正しいセクシュアリティ

セクシュアリティ」の発明

 セクシュアリティという用語が頻繁に使用されるようになったのは、フーコー『性の歴史』(1976)以降であり、歴史的にセクシュアリティが発明されたのは近代以降(ヨーロッパの歴史では18世紀頃)だと言われている。したがって、わたしたちが知っているセクシュアリティはたかだか200年そこらの歴史しかない。日本にかぎっていえば明治以降、大衆化したのは高度成長期あたりが妥当である。(たとえば、恋愛結婚とお見合い結婚が逆転した時期は1960年代半ば)(上野 2001:206) 

 

性実践/性欲望/性幻想

 セクシュアリティは「性実践/性欲望/性幻想」の三点セットで説明できる。性実践とは「どのようにエロスを実践するか、行動するか」ということであり、このような性実践を引きだす力が「性欲望」である。

 性欲望は人間の場合は「本能」ではない。そこで性欲望を生みだす言語的で文化的な装置 ―― だれに、何に、どのように欲望するか、というシナリオ ―― を「性幻想」とよぶ。 簡単に言えば、セクシュアリティはエロスについての自己説明 である。(上野 2001:206)

セクシュアリティは「本能」ではない〉
 異性愛の性行為は、生殖という個体の本能に導かれているので「自然」であるという言説は、現在でも日常的に広く流布している。だが人間の性行為を、ヒトの生殖行動と同義とみなすことはできない。人間は、たとえ異性間の性行為であろうとも、生殖=交接に直接結びつかないさまざまな行動をとり、それだけでなく、生殖=交接とはまったく無縁の行動も、またそれを回避する行動も、性行為のプロセスとしておこなうからである。つまりどのような行動(群)を「規範的な」性行為とするか、何をそのような性行為へとみちびく欲望とするか、何をイメージして性的興奮を構築するかは、社会や文化によって決定されるのであって、文化や歴史や個人を横断する唯一、普遍的なエロスはありえない。むしろ存在しているのは、文化/言語によって構築される人間の性行為のみであり、ヒトの生殖行動は、純粋に思弁的な概念にすぎない。 (竹村 2002:58-9)

セクシュアリティ=エロスの意味づけ〉

「セックス」は解剖学的な性差であり、女/男の身体的な区別(と考えられているもの)にもとづくが、「ジェンダー」は女/男の社会的・文化的区別で、女/男を社会的に分離するために必要とされる〈女らしさ〉や〈男らしさ〉の社会形成であると考えられている。一方セクシュアリティは、この二つのカテゴリーよりも広範囲の意味を包摂し、快楽、性実践、性アイデンティティをふくむエロスの意味づけ ―― 性にまつわる心的反応、肉体的反応、アイデンティティ形成 ―― をさすと捉えられている… (竹村 2002:40)

〈性幻想=性的意味づけ=セクシュアリティ

セクシュアリティが意味をもつのは、[…] わたしたちにとって性的な事柄が、動物の交尾から連想される性本能からは隔たったところに存在しているからである。もしもわたしたちの性生活が交尾だけで説明されるのであれば、セクシュアリティという概念は必要ではない。わたしたちは交尾とは無関係で不必要なさまざまな身体部位(たとえば髪や顔だち、胸、ふくらはぎ、二の腕、指、体型など)を性的な身体として意味づけ、さらには衣服や装飾品、身のこなしや態度や社会的地位までも、身体の延長や身体的顕現として性的に意味づける。(竹村 2000:51-2)

 

性差別を生みだす [ヘテロ]セクシズム

 異性愛主義は性差別を内包しながら異性愛者を含めたほぼすべての人間を抑圧している。竹村さんは性差別=セクシズムを強調するために異性愛主義を「[ヘテロ] セクシズム」とよんでいる。

 異性愛を規範とみなす異性愛主義(ヘテロセクシズム)は、男女の性差別(セクシズム)と不可分な関係にある抑圧構造だと捉えて、それを[ヘテロ]セクシズムと呼ぶことにした。(竹村 2002:3-4)

  異性愛主義は性差別を生みだし、性差別のうえに異性愛主義は成り立つ。本来、エロスというものは多様であるはずなのに、異性愛主義はただ一つの「正しいセクシュアリティ」をすべての人に強制する。すなわちそれは、「男」と「女」という異性が出会い、恋愛し、セックス(膣へのペニスの挿入)をし、結婚して子どもを産む(次代再生産)というものである。この「正しいセクシュアリティ」は、性別二元論(男/女)にもとづく階層秩序=性差の非対称性と、性対象二元論(異性/同性)にもとづく階層秩序=性対象の非対称性という、二つの性差別を同時に生みだす。

〈「正しいセクシュアリティ」は「性器=生殖セクシュアリティ」〉
「正しいセクシュアリティ」とは、終身的な単婚(モノガミー)を前提として、社会でヘゲモニーを得ている階級を再生産する家庭内のセクシュアリティである。「正しいセクシュアリティ」は「次代再生産」を目標とするがゆえに、男の精子と女の卵子・子宮を必須の条件とする性器中心の生殖セクシュアリティを特権化する。したがって「正しい」性行為には、理念的には、かならず膣へのペニスの挿入と射精が伴わなければならず、それ以外の性行為は前戯であり、後戯であり、要するに、付け足しとみなされ、次代再生産をおこなわない・おこなえないカップルは ―― たとえ合法化された夫婦であっても ―― 不完全な形態だとみなされる。子供のいない夫婦、セックスレスの夫婦が、そのことによって「特殊」としるしづけられているのは、その証左である。したがって当然のことながら、ペニスと膣のどちらかを欠く同性同士のセクシュアリティは、異端として排除される。アナルセックス、フェラチオ、クンニリングス、相互マスターベーション等々しかおこなわない性行為は、「正しい」性のあり方ではないということになる。(竹村 2002:37-8)

〈[ヘテロ]セクシズムと「正しいセクシュアリティ」〉
 近代の市民社会の性力学を構成しているのは、一方に性差別、他方に異性愛主義という別個の抑圧装置ではなく、性差別と異性愛主義を両輪とした[ヘテロ]セクシズムであり、ただ一つの「正しいセクシュアリティ」を再生産するメカニズムである。 (竹村 2002:40)

 

… 規範として近代社会が再生産しつづけているのは、異性愛一般ではなく、ただ一つの「正しいセクシュアリティ」の規範ではないだろうか。(竹村 2002:37)

 

異性愛主義と性差別の二つが連携しないかぎり、近代のセクシュアリティの権力関係は成り立たないと思います。(上野 2001:189)

 

「対幻想」と性差別

 異性愛主義は、「男」と「女」の二つの性を必要とし、異性愛コード(対幻想)によって男女を一つの「対」に誘導する。「女」には「対でなければ女でない、男に選ばれなければ女でない、男に愛されなければ女でない」というジェンダー非対称的な自己定義が与えられる。「対」によって「男」は定義されないのに「女」のほうは 男によって性的な存在として選ばれる、ということが、女性性の定義要件の中に書きこまれている (上野 2001:188)

異性愛主義は「異」性を必要とする〉
異性愛主義は、必ず、明確に区分された女と男を必要とします。女と男がまったく別物であり、明確に区分されたカテゴリーでないかぎり、異性愛と同性愛を分けることはむつかしいからです。異性愛主義は、「異」性を必要とし、「異」性という概念を生みだすのです。…/だからこそ、異性愛主義(ヘテロセクシズム)と性差別(セクシズム)は、一緒に論じていかなければならない。(上野 2001:177)

〈性によってしるしづけられた存在=「女」〉

… 社会には二つの性があるように見えるが、じつは一つの性しか存在しておらず、それは「男」という性である。逆説的なことだが、社会に一つしかない性――男という性しかない――ということは、男は、弁別されるために性を持ち出さなくてもよいということである。だから男は性によってしるしづけられることはなく、「普遍的な人間主体」になりうるが、他方、女は、普遍ではない「特殊」、主体にはなりえない「他者」、性によってしるしづけられている存在だとみなされる。女はその特殊な性であることが強調されて、「ジェンダー化された存在」と解釈されるのである。…またさらには、「男」は、特殊な存在の「女」がいなければ、普遍的な存在になりえない。「男」は、「男」ではない存在を作りだすことによってのみ――つまり「女」というもうひとつのカテゴリーを作りだすことによってのみ――みずからのカテゴリーを保持することができる。[…]「男」は、周縁的で特殊な位置にある「女」に依存してはじめて、中心的で普遍的になりうる。したがって二分法の思考は、二つの平等な差異を水平的に並存させるものではなく、一つの垂直的な階層秩序を求めるものである。(竹村 2000:19-20)

 

「性器=生殖セクシュアリティ」と「同性愛者の病理化」

 異性愛主義が強制する「正しいセクシュアリティ」は性器中心的なセクシュアリティとなる。「正しいセクシュアリティ」は、本来は自由であるはずの性欲望/性実践/性幻想の営み(エロスの自由)を、「性器=生殖セクシュアリティ」—— ペニスの膣への挿入=次代再生産 —— へと構造化していく。「同性愛」とはその構造を強化するために歴史的に構築されたものであり、同性愛を病理化することによって異性愛主義の「正しいセクシュアリティ」を確固たるものに位置づけ、ひとびとを性器=生殖セクシュアリティへと誘導していく。

〈正しいセクシュアリティと同性愛〉
 [ヘテロ]セクシズムが 異性愛主義と性差別を両輪とした「正しいセクシュアリティ」を標榜する制度だとすれば、その双方によって負の意味づけを与えられてきた女の同性愛こそ、この体制によって幾重にも沈黙させられてきたものである。 (竹村 2002:4)

 

 「正しいセクシュアリティ」は性器=生殖セクシュアリティであるがゆえに、「男」と「女」という二つの性的身体を必要とし、多様な身体を二つの性的身体に切断する(性別二元論)。この二つの性的身体を、資本主義社会からの要請どおりに「男らしい男」と「女らしい女」に仕立て上げ、二つの「異」性を強制的に「対」にし、ジェンダー非対称性が強制される。

 以上の性器=生殖セクシュアリティがうまく作動するためには、異性愛の性幻想の強制が必要であり、「異性愛幻想の強制=異性愛主義」を規範システムとして構成するために要請されたのが「同性愛者の病理化」だったのである。

〈同性愛者の病理化と「正しいセクシュアリティ」〉

 十九世紀末になるにつれ、女同士の愛は病理化されていく。[…] 性器=生殖中心的なセクシュアリティによって女の快楽や性実践や性幻想を構造化する「正しいセクシュアリティ」の規範(性差別)の、きわめて当然の帰結と考えるべきである。むしろこののち猛烈な勢いで社会を席巻する異性愛主義の言説は、「正しいセクシュアリティ」の理念の強化のために ―― 言葉をかえれば、男女のセクシュアリティを非対称形に固定する性差別的な性配置の虚構性を糊塗するために ―― でっちあげられた、性対象の性別をめぐる階層秩序である。いわく、生殖を目的としない性行為や欲望は「倒錯」である。...(竹村 2002:50)

 〈夥しく生みだされた異端の性〉
… 家庭内の生殖中心的な性規範は、エロスの制御であり、エロスの矮小化である。したがってこの性規範は、それを侵犯するセクシュアリティを夥しく生み出すこととなり、それを統御するために、フーコーが言うように、異端の性が否定されるべきものとして名前を与えられ、夥しく生み出された。曰く、サディズムマゾヒズム、同性愛、自慰、フェティシズム、視姦、幼児の性虐待、異人種・異民族のセクシュアリティなどなどである。(竹村 2000:39-40)

セクシュアリティ規制と「同性愛者の病理化」〉
 [ 近代のセクシュアリティの言説は ] セックス(生物学的な身体的性差)とジェンダーセクシュアリティを同心円状に重ね合わせて男と女の二つのカテゴリーをつくりだしただけでなく、性対象の性別によって、異性愛者、同性愛者というカテゴリーをつくりだした。そして「生殖イデオロギー」に貫かれたセクシュアリティ規範は、再生産装置としての異性愛を絶対化し、異性愛行為であれば家庭内の「正しい」セクシュアリティでなくても、ある部分容認するのに比べ、非異性愛については、徹底的にこれを排除しようとする力学がはたらいた。同性愛「者」は、病人や犯罪者となり、異端の人物に仕立て上げられたのである。(竹村 2000:41)

正しい異性愛/まちがったセクシュアリティ
 問題なのは、異性愛/同性愛の階層秩序ではなく、「正しい」異性愛/それ以外のすべてのセクシュアリティの階層秩序ではないでしょうか。(上野 2001:201)

 

生殖イデオロギーと家族イデオロギー

 異性愛主義は、「生殖につながる性交(=正常)/生殖につながらない性交(=異常)という規範コードのもとで、生殖につながらない性交を「倒錯」として周縁化しながら「男」と「女」という二つの身体を異性愛構造へと強制する。異性愛主義が強制する「正しいセクシュアリティ」は、性器=生殖セクシュアリティである。

 このとき作動している重要なイデオロギーに「生殖イデオロギー」と「家族イデオロギー」がある。生殖イデオロギーとは 生殖につながる性交を愛の成就とみなすこと。家族イデオロギーとは 愛の成就を次なる愛の成就を用意するためのファミリー・ロマンスにすりかえることである。この二つが複合しながら 性愛と生殖が直結して解釈され、それを保障するために家族形態が正当化されていく(竹村 2002:116-7) 異性愛主義の家族制度は 愛する二者を固定化するための物語装置 である。(同:317) 

 換言すれば、生殖イデオロギーとは「生殖というエロスの目的論」であり、家族イデオロギーとは「家庭というエロスの合法化」である。(同:125-6) また、「終身的な単婚」は、合法的な異性愛を特権化し、婚外子の差別や、離婚・再婚の制限をもたらした。》(同:39)

〈生殖という種=個人の愛=家族という制度〉
… 生殖イデオロギーが繰り返される地点において […] 生物学という「実体論」に再度、依拠することによって作り上げようとするフィクションとは、いったい何だろうか。おそらくそれは、生殖という〈種〉のドラマと、個人の〈愛〉のドラマと、家族という〈制度〉のドラマをひとつにまとめあげて、〈個〉のなかに重ね合わせようとする近代のフィクションである。あるいは、生殖という〈種〉のドラマと家族という〈制度〉のドラマを自然で、整合性のあるものとして繋ぐために、個人の〈愛〉のドラマに、ある特定の心的/身体的な解釈が与えられると言っていいかもしれない。(竹村 2002:98)

〈受胎―射精―挿入―性器〉
… 私的事柄となったエロスが公的に認可された唯一の場所が家庭であり、公的に認可された唯一のセクシュアリティの様態が、次代再生産にかかわるものだった。そのため家庭内のセクシュアリティは、出産から遡って正当化される性実践、性欲望、性幻想を意味した。それは受胎―射精―挿入―性器の快感を中心化するものだった。したがって男の快楽はペニスに収斂し、女の快楽は膣に収斂することになり、男の性欲望の能動性と、女の性欲望の受動性(あるいは欠如――なぜなら、男のジェンダーからのアナロジーによって欲望は能動的なものとみなされるので)という意味づけがなされ、男の強迫観念的な勃起信仰と、女の慎み深さの神話が生みだされた。(竹村 2000:39)

 

「童貞蔑視」とペニスの特権化

 セックス(性交)は「男」と「女」のセックス(膣にペニスを挿入する)だけではない。なぜなら、セックスは多義的だからだ(定義不能)。なのになぜ、セックスからイメージされるのは性器結合的なセックスだけなのか。

『日本の童貞』(澁谷知美 河出文庫 2015)では、冒頭から童貞定義の不可能性に直面している。

 先人が童貞定義に苦労している様を見てわかったことは、童貞にはさまざまな定義があり、一つにしぼることはできない、ということだ。/だから、人びとが「童貞」と呼ぶものを童貞と見なしたい。…(20)

 当然のことながら、セックスは多義的で定義不能なのだから、童貞も定義不能である。しかし、童貞は当然のごとく定義されている。 人びとが「童貞」と呼ぶもの とは、異性愛主義から導かれる「正しいセクシュアリティ」―― 性器=生殖セクシュアリティ ―― にもとづくセックスをしていない男性のことをさす。

 ホモソーシャルな男性集団のなかで覇権的男性性のマウンティングをおこなうときの最大事項とされているのも「童貞/非童貞」という階層秩序である。ホモソーシャルな絆(男性同士の暗黙の連帯感)は、ミソジニー(女性蔑視)とホモフォビア(同性愛嫌悪)で成り立っている。したがって、性差別と結託している異性愛主義はホモソーシャルを支え、逆に、ホモソーシャル異性愛主義を支えている。だかこそ、童貞はあたりまえのように定義され、覇権的マウンティングの指標に最大限利用され、性差別(童貞蔑視も含む)を生みだすのである。

 ゆえに、異性愛主義的な童貞/非童貞の階層秩序で特権化されているのが「ペニス」(膣への挿入)であり、ホモソーシャリティと共犯する「正しいセクシュアリティ」が特権化しているのも「ペニスの快楽」である。

〈ペニスの快楽への統合〉

 異性愛の男と同性愛の女を分け隔てて、後者を倒錯化するには、異性愛の男のエロスをペニスの快楽だけに限定しなければならない。あるいは他のすべての快楽を二次的なものとして、最終的、理念的にはペニスの快楽に統合させなければならない。それ以外の性愛の実践 […] [多様で多義的なセクシュアリティを ] フェティシズムサディズムマゾヒズム、服装倒錯などという病理として排除しなければ、異性愛の男のエロスを同性愛の女のエロスから分離し、特権化することはできない。逆に言えば、男/女、異性愛/同性愛という階層秩序は、性差の非対称性、性対象の非対称性によってのみ成立するのではなく、現実に存在しているあらゆる形態の性実践や性幻想、また心遣いのすべてを、ペニスの快楽へと編成しなおし、ペニスの快楽以外のものを不完全で二次的な快楽として周縁化する巨大なエロスの解釈地図によって生み出されるものである。(竹村 2002:129-30)

 

クリトリスの快楽

 ペニスの快楽しか認めようとしない男根挿入主義者にとって「クリトリスの快楽」は不都合な真実となる。クリトリスの快楽オーガニズムこそ、セクシュアリティの神話異性愛主義→「正しいセクシュアリティ」→性器=生殖セクシュアリティ→ペニス(挿入)の特権化→膣オーガニズム...)からの脱却を意味するからだ。

 性科学者らの実証データをうけるかたちで発表されたアン・コート(米国のフェミニストは、論文『膣オーガニズムの神話』(1968)において、《…オーガニズムの神話は、挿入-射精-次代再生産という男の性欲望と生殖機能を機軸に女の性欲望を矮小化して作られたものであるから、女は自分自身の性の快楽クリトリスの快楽)を取り戻さなければならないと主張した。》(竹村 2000:24)

〈膣オーガニズム=男根挿入主義は「神話」である〉

 一九六八年、デンマークアメリカ人のフェミニズム活動家アン・コートは、まだ発表されたばかりのマスターズとジョンソンの研究結果を踏まえ、「膣オーガズムの神話」と題する論文を発表した。女性の性的快楽は、これまで男性による研究しか行われておらず、男性研究者は女性の快楽を軽んじ、女性を男性に劣る存在として論じてきたというのが、彼女の主張だ。クリトリスのオーガズムは価値がないとされ、膣オーガズムばかりが賛美されつづけてきた。そのせいで、女性たちはマスターベーションによって快感を得ることを恥じ、自分が異常者ではないかと不安を抱いてきたのだ。「膣オーガズム」を得ることができない女性は、(不当に)不感症と決めつけられてきた。(クリトリス革命 2018 )

  「正しいセクシュアリティ」が生みだす性器=生殖セクシュアリティの抑圧構造に抵抗するためには、《…セクシュアリティ(性欲望、性実践)を含みつつも、それによって構造化されないエロス…》が必要であり、 主体の欲望の性器的クライマックスを中心に構造化されることのない拡散する快楽 … 》が有効な性実践となる。(竹村 2002:85) まさにクリトリスの快楽こそがその一例である。

男根主義=性器・生殖セクシュアリティは「クリトリスの快楽」を否定する〉

 クリトリスが正式に発見されたのは一五五九年。再び注目されるようになったのは、一九五〇年代である。… 一九九〇年代には、クリトリスのオーガズムと膣オーガズムがあり、クリトリスによるオーガズムは、膣オーガズムよりも弱く、つまらないものだと言われていた。長い間、クリトリスは不要なものと思われ、無視されていたのだ。何の役にも立たない器官のようにしか考えられていなかった。その理由の少なくとも一部は、これまで、男性の快楽のほうが女性の快楽よりも優先的に考えられ、研究されてきたことにあるだろう。性は、基本的に「挿入」という行為を中心に語られてきた。今もなお男根主義は、女性の快楽の大きな妨げとなっている。データはどれも男性目線のものばかりだ。(クリトリス革命 2018 )

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 男性主義、つまり男根主義者たちは、クリトリスの存在を歓迎しなかった。女性が挿入なしに快感を得ることができるなら、女性は男性を必要としなくなる。それは彼らにとって恐怖だった。だから、ずっとクリトリスの重要性を認めようとしなかったのだ。(クリトリス革命 2018 )

 [......]

 性は、いつも男根主義に偏った視点から語られてきたのだ。…角度も体位もリズム感もすべてはペニス中心に考えられてきた。とにかく、単調なピストン運動だけで男の子は興奮し、女の子はうっとりすると思われていた。(クリトリス革命 2018 )

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  生殖に重要なのは精子卵子であって、クリトリスは関係ない。こうしてクリトリスは早々に忘れられていった。(クリトリス革命 2018 )

〈性科学者の「クリトリスの快楽」にかんする実証データ〉

 一九五三年、キンゼイは『キンゼイ報告』のなかで、膣壁よりもクリトリスのほうが敏感であり、官能の器官として可能性を秘めていると発表した…。それから十年以上の時を経て今度は、マスターズとジョンソンが、クリトリスを快感の源としてとらえなおした…。七百人の女性を対象に調査した結果、性交・マスターベーションの区別を問わず、オーガズムの源はクリトリスであり、クリトリスで発生した快感が膣へと波及することを突き止めたのだ。(クリトリス革命 2018 )

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 一九七六年、アメリカの性科学者シェア・ハイトが、前代未聞の調査を行った。… ハイトは、多くの女性 [三千人] から証言を得て、クリトリスを女性の快楽の中心であると結論付けたのだ。ハイトの主張は、挿入を絶対条件とするこれまでのオーガズム論を覆すものだった。女性の快楽は必ずしもペニスによって与えられるものではないという結論は、多くの男性にとって受け入れがたいものだったのだろう。 ハイトのもとには脅迫状が届き、ついにはドイツに移住しなければならなかった。(クリトリス革命 2018 )

  

セクシュアリティ/セックス/ジェンダー

 解剖学的で身体的な区分であるセックス(生物学的な性)と、社会的で文化的な区分とされるジェンダー(社会的な性差)は、セクシュアリティとどのような関係にあるのか。結論から言えば、セックスとジェンダーセクシュアリティによって捏造されている。あるいは逆に、セクシュアリティはセックスとジェンダーによって捏造される。互いが互いに循環的に前提を供給しながら異性愛主義を巧妙に支えている。

セクシュアリティ=男女の身体区分を捏造するもの〉

 … 近代社会が認知するセクシュアリティが、終身的な単婚を前提とした、社会でヘゲモニーを得ている階級を再生産する家庭内のセクシュアリティであることを考えれば、セクシュアリティは普遍的な分類法のなかで、セックスやジェンダーと並列的にならぶ独立した一項目ではなく、片方に生殖=次代再生産という目標をもち、もう片方に家庭を基盤とする男女の非対称性を戴く相互連関的なカテゴリーと捉えるべきだろう。言葉を換えれば、セクシュアリティは、歴史的に決定されたカテゴリーであるジェンダー区分の「偶発性」を隠蔽しようとして、「本源的な」男女の身体区分を捏造しようとするときに語られる、エロスにまつわる〈フィクション〉なのである。したがってセクシュアリティは、ジェンダーやセックスにおける男女の二元論の正当性を強力に傍証・捏造するものとなり、同時に、ジェンダーやセックスの二元論の正当性を批判するときに再定義されるものである...。 […] どちらにせよセクシュアリティは、ジェンダーやセックスと相補的な関係をとりながら、[ヘテロ]セクシズムの文法制度の不可視の部分を充填し、それを支えてきた「黒子」のようなものだと言うことができる。(竹村 2002:41)

〈エロスのジェンダー化、エロスのセックス化〉

「正しいセクシュアリティ」は次代の再生産を目標とするので、「産む」性である女の身体は子宮に収斂され、女の快楽もまた、挿入行為を中心に構造化される。家庭内で夫の帰りを待つという女の社会的役割と、そのような女の資質(「女らしさ」)と、受動的な女のセクシュアリティという性倫理と、精子を受け止める器という女の身体イメージが同延上に重ね合わされて、性の社会的役割(ジェンダー)と解剖学的性差(セックス)という二つのフィクションを往還しながら女のセクシュアリティが捏造されていくのである。いわば〈エロスのジェンダー化〉、〈エロスのセックス化〉がおこなわれたのだ。 (竹村 2002:46)

〈エロスにまつわるフィクション=セクシュアリティ
 歴史的カテゴリーであるジェンダー区分の「偶発性」を隠蔽しようとして、「基盤的な事実」としての男女の身体区分を捏造するときに語られる、エロスにまつわるフィクションがセクシュアリティです。セクシュアリティというのは、あくまでもそのパラダイムのなかで機能する概念であって、確実に抑圧的なものだと思います。(上野 2001:209)

ジェンダーは非対称的な権力=性差別〉

 ポスト構造主義ジェンダー論の中で、ジェンダーが項ではなくて差異である、しかもその差異は、非対称な権力関係であるということが明晰に示されていきます。/ジェンダーが権力関係の概念であるということをはっきりと打ちだした。だからジェンダーは決してニュートラルでもなければイノセントな用語でもありません。権力関係を指し示し、それを告発する用語です。(発言者:上野) (上野 2001:167)

〈性別二元論と性体制〉
 性差は次代再生産が問題になるときにのみ浮上する話題ではなく、つねに繰り返しわたしたちを分類しつづけている差異化軸である。現在の性の体制のなかにいるかぎり、次代再生産とは無関係なエロスの実践(異性愛であれ非異性愛であれ)は言うに及ばず、セクシュアリティとはおよそ無縁な社会活動にいたるまで、わたしたちはつねに「男」か「女」のどちらかであるとみなされ続ける――あるいは自らみなし続けている。(竹村 2000:50)

〈身体を二分するジェンダー規範=イデオロギー
… あたかも生殖が中心的な要件であるかのように人を男女に二分する社会的なジェンダー規範が、性に関する身体把握において、何よりもまず外性器の形状を特権化し、それを中心に身体を意味づけ、「二種類の身体」という虚構を作り上げて、人を男女のどちらかに振り分けていく。この振り分けがけっして事実に基づいたものではなく、イデオロギーに基づいたものである…(竹村 2000:53)

〈二つの差異と一つの差別〉

ジェンダー規範の問題点は、まず第一に、ジェンダー規範は「男」と「女」という二極化され分離されたカテゴリーを作りだし、そのどちらかに人を当てはめること、第二に、このジェンダーの二分法は階層秩序をもつものであり、〈二つの差異〉ではなく、〈一つの差別〉を意味しているということだろう。(竹村 2000:19)

〈「~らしさ」を生みだすジェンダー規範〉
ジェンダー規範は、男特有、女特有の行動パターン生みだし、男女の領域を分離して、社会的な権利や機会の不平等に導くだけではない。内面化されて「男らしい心映え」や「女らしい心根」といったフィクションを作りだし、また身体化されて「男の身体」「女の身体」の理想像や美学を生みだしもしている。このように行動・精神・身体までも網羅するジェンダー規範は執拗にわたしたちにとり憑き、[…]「男らしさ」や「女らしさ」の神話から逃れられなかったり、身体の認識という点では「男の身体」や「女の身体」の固定観念を打ち破れない場合も、いまだに多々見受けられる。(竹村 2000:18)

 

ジェンダーハビトゥス

 社会学者のピエール・ブルデューは『ディスタンクシオン(1984)において 社会構造が経済だけでなく文化の領域でも再生産されることを、「文化資本」という概念を用いて理論化した。》(上野 2001:216) 

 そのさいに案出した概念が「ハビトゥス」である。おおまかな定義は、行動様式の体系、慣習行動、知覚-評価図式、認識枠組、価値観、マインドセット......等々(ものの見方、考え方、何をどう感じ、どう認識し、どう評価し、どう行動するか...)をひっくるめた規範システムのことをいう。身体レベルにかぎっても、容姿や服装は当然のことながら、箸の上げ下ろしからはじまって、喋り方、声のトーン、うなづき方、歩き方、姿勢、目線......つまり、頭の先から足の先までがハビトゥス化している。当然のことながらジェンダー規範もハビトゥス化しており、〈身体化された文化〉〈知覚に組み込まれた慣習〉を構成している。

 もっとも重要なのは、ハビトゥスは「構造化する構造」であると同時に「構造化される構造」でもあるという点だ。この循環構造によって、ハビトゥスは、偶然的で歴史的でしかないものをあたかも自然的本質であるかのように見せかける象徴権力(抑圧的な差別的暴力)として構成される。

 ハビトゥスジェンダー化されると同時に、ジェンダー化する構造でもある。よって、ジェンダーハビトゥスは、わたしたちの自己(精神)と身体をジェンダー化し、同時にわたしたちはハビトゥスジェンダー(再生産)している。

〈男のハビトゥス
 ハビトゥスは〈身体化された文化〉であり、〈知覚に組み込まれた慣習〉である。そして近代社会は、ブルデューが述べているように、ジェンダー化しジェンダー化されたハビトゥス、すなわち「男の身体の必然」と「女の身体の必然」を生みだし、男の身体を公的領域に、女の身体を私的領域に割りふるものである。文化的慣習によって築かれている男たちの共同体は、知へのアクセスの仕方、運動競技への関わり方、人間関係の構築、友情の持ち方、食事の仕方、装い方、話し方、振るまい方などによって、若年のときから男たちのあいだに男のハビトゥスを醸成する。(竹村 2000:75)

〈女のハビトゥス
ハビトゥスの内部では、女は、男の愛(エロス)の対象となること、それを制度的に保証する妻になること、妻の身分を安定化させる母になること等々にまつわる、さまざまな慣習行動や知覚を自然化することを求められている。 ハビトゥス潜在的な象徴権力は、女のなかに内面化、身体化されている。「女の慣習行為」は ——もやは「幻想」であると知覚されることもなく——身体に刻み込まれている。(竹村 2000:77-8)

 

(2) へつづく

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引用文献

竹村和子フェミニズム』(岩波書店 2000)

フェミニズム (思考のフロンティア)

フェミニズム (思考のフロンティア)

 

 

竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』(岩波書店 2002)

愛について―アイデンティティと欲望の政治学

愛について―アイデンティティと欲望の政治学

 

 

竹村和子『境界を攪乱する 性・性・暴力』(岩波書店 2013)

境界を攪乱する――性・生・暴力

境界を攪乱する――性・生・暴力

 

 

上野千鶴子竹村和子 上野千鶴子対談集 ラディカルに語れば...』(平凡社 2001)

ラディカルに語れば…―上野千鶴子対談集

ラディカルに語れば…―上野千鶴子対談集

 

 

上野千鶴子,水無田気流『非婚ですが、それが何か!? 結婚リスク時代を生きる』(ビジネス社 2015)

非婚ですが、それが何か! ? 結婚リスク時代を生きる

非婚ですが、それが何か! ? 結婚リスク時代を生きる

 

 

河口和也『クイア・スタディーズ』(岩波書店 2003)

クイア・スタディーズ (思考のフロンティア)

クイア・スタディーズ (思考のフロンティア)

 

 

 澁谷知美『日本の童貞』(河出文庫 2015)

日本の童貞 (河出文庫)

日本の童貞 (河出文庫)

 

 

アレクサンドラ・ユバン, カロリーヌ・ミシェル 著, 永田千菜 (翻訳) 『クリトリス革命 ジェンダー先進国フランスから学ぶ「わたし」の生き方』(太田出版 2018)

クリトリス革命

クリトリス革命