前回は異性愛主義について論じた。要約すると以下のようになる。
異性愛主義(ヘテロセクシズム)は、性差別(セクシズム) —— 性差の階層秩序(女性差別)と性対象の階層秩序(同性愛差別) —— をつくりだし、この性差別のうえに支えられているのが異性愛主義([ ヘテロ ] セクシズム)という規範システムである。
異性愛主義は「男」と「女」という二つの性的身体を必要とし、この二つの身体を強制的に組み合わせる。このセックス・ジェンダー二元論を巧妙に支えているのがセクシュアリティという神話である。異性愛主義のセクシュアリティは、たった一つの「正しいセクシュアリティ」しか認めない。
「正しいセクシュアリティ」は、性器=生殖セクシュアリティとして機能し、本来は多様であったエロスの自由を「膣へのペニスの挿入」という矮小化したエロスに仕立て上げる。また、性器=生殖セクシュアリティは、生殖イデオロギー(次代再生産というエロスの目的論)と、家族イデオロギー(家庭というエロスの合法化)によっても支えられている。生殖イデオロギーと家族イデオロギーは資本主義社会からの要請(あるいは結託)として機能する。
セックス(生物学的な性差)/ジェンダー(社会・文化的な性差)は、セクシュアリティという神話をとり入れることによって、身体の二分割とジェンダーの二分割を正当化し、セックスがあたかも自然であるかのように隠蔽する。
わたしたちが疑問視するのは、ジェンダー規範だけではない。この世に誕生した子どもの身体を外性器の特徴から「男」と「女」という二つの身体(セックス)に強制的に分割することも、当然のことながら疑問符がうたれることになる。
今回は、竹村和子さんらの言語的社会構築論を紹介しながら、生物学的性差としての身体(二つの性的身体という虚構)がいかに言語的、社会的に構築されているかを考え、最後に「クィア存在(マイノリティ)」の生き方としての可能性について論じてみたい。
〈セックスは本質的か〉
… ジェンダー/セクシュアリティ/セックス——とくにもっとも本質的に決定されているとみなされているセックス——がいかに社会的につくられ、所与の本質的な事実となるかという仕組みを解明することなく、公的制度、私的領域、自己把握のすべてを覆う性の体制を置換していくことにはならない。(竹村 2000:46)
〈セックスの虚構性〉
... 解剖学的な女というカテゴリーも、近代医学が追証しようとしているフィクションではないのか。女を判別する基準は、性器をふくむ身体形態なのか、ホルモンなのか、染色体なのか、出産能力なのか。しかし皮肉なことに、そういった判別基準は近代医学の発達によって逆に曖昧にされているものではないか。判断基準を精密にすればするほど、一個の個体を男女に弁別することの正当性が揺らぐことにはならないか。また女性性器をもっていることと、社会的に〈女〉であることのあいだに、どれだけの直接的な因果関係が見いだされるのか。… (竹村 2002:73)
社会構築主義
生物学的本質主義
まず、本質主義を定義する。以下参照。
〈本質主義とは…〉
ものごとには永遠不変の本源的な性質があるとし、この性質にすべてを還元して説明する立場。ここでは特に、性差が実在する、すなわち女には女らしさが、男には男らしさが実在すると考える立場のこと。(上野 2001:168)
「男の身体」と「女の身体」が生物学的、解剖学的に実在すると考える立場を「生物学的本質主義」とよぶ。「男」と「女」という性差が、実体であり、自然であり、本質であると捉えるのが特徴である。
本質主義者はそのような性差を「絶対に変えられないもの」「常識的な事実」「当然の普通(ノーマル)」「受け入れなければならない宿命」などと措定する。そして、それらの信念をすべての人に押しつける。自然で、本質なのだから…という理由で。
社会構築主義がめざすのは、そのような本質主義を破壊すること、永遠なる不変/普遍を歴史化することにある。
〈社会構築主義が批判するもの〉
… 社会構築主義の眼目は、社会構築されたものであるにもかかわらず、「事実」や「本質」として詐称されていることをあばくこと … 事実や物質という「基盤」がじつは基盤ではない。だから事実や物質として基盤化するには、たえず言語によって構築しなければならない。構築されるものは、たいていはばかばかしい公理です。女は産む性だとか、異性愛は生命の再生産をおこなうものだとか。 … また強迫観念のように再生産させなければならないのは、生命ではなく、システムのほうです。だから、よくよく考えてみれば変な公理なのに、公理として立てなければならないために、たえず言語によって確認され、引用される必要があります。そのことをあばき、そのメカニズムを問おうとするのが社会構築主義だと思います。(上野 2001:215-6)
〈社会構築主義の課題〉
… 現在の課題は、社会的虚構がいかに「事実」や「本質」として「構築」されていくのか、そのプロセスを読み解くこと——すなわち、いかにわたしたちがみずからの身体把握や心的位置を通じて、その「事実」や「本質」を行為遂行(パフォーマティヴ)に再生産しているのか、…どのように「本質」という亡霊が、記述的かつ処方的なものとして思わず知らずに徘徊しているのかを解明していくこと——である。(上野 2001:248)
「言語論的転回」以降
社会構築主義は、思想史的にいうと20世紀後半の「言語論的転回」(構造主義~ポスト構造主義)という流れに位置する。特に、セクシュアリティ研究の分野でエポックだったのはフーコーであり、竹村さんが重要視しているのはジュディス・バトラーやアルチュセールである。
〈言語論的転回〉
ソシュールらの構造言語学をきっかけとして20世紀後半に起きた思想のパラダイム・チェンジ。それまでの思想は主体の実在を前提にして意識の分析を行ってきたが、転回後は主体そのものを言語によって構築されたものと見なし、言語の分析を行う。(上野 2001:167)
〈フーコー〉
フランスの哲学者。すべての存在は言説の網の目を通してはじめてとらえられるとし、知の系譜学を創始した。フーコー以前と以後とでは「主体」「権力」「知」「真理」などの意味が大きく変わる。『性の歴史Ⅰ』(1976)では、言説を通して「主体」が構築される際にセクシュアリティの装置が重要な役割を担うことを論じる。…(上野 2001:161-2)
〈アルチュセール〉
フランスの哲学者、マルクス主義者。構造主義の立場からマルクスを再解釈し、その後のヨーロッパ・マルクス・ルネッサンスの基礎を作った。『国家とイデオロギー』(1971年の論文他を収録)において、イデオロギーに服従する主体が構築されるメカニズムを、「呼びかけ」という概念を使って分析した。(上野 2001:214)
バトラーの『ジェンダー・トラブル』
竹村さんの社会構築主義は、みずからが翻訳したバトラー著『ジェンダー・トラブル』に多くを負っている。バトラーは社会構築主義を限界までおしすすめ、いままで疑われることのなかったセックス(生物学的性差)も、ジェンダー同様に構築されているということを前書において説得的に論証した。上野千鶴子いわく、《 バトラー以降、フェミニズム理論の中で一つのパラダイム・シフトが起きた…》。(上野 2001:163)
〈バトラー理論は社会構築主義の到達点〉
... [社会構築主義とは ] あらゆる現実は言説によって構築されるととらえる認識論・方法論であり、20世紀後半以降の思想の底流をなす。特にフェミニズム理論おいては、性差を不変的・普遍的な実在とみなす「生物学的本質主義」…を乗り越え、なおかつジェンダー構造の変革の契機を理論化しようとする中で、社会構築主義が練磨されてきた。ジュディス・バトラーの理論は、社会構築主義のひとつの到達点とも言える。(上野 2001:163-4)
〈セックス/ジェンダー/セクシュアリティはすべて社会的に構築されたもの〉
… 主張の根幹にあるのは、いままで「自然な事実」とされていたものが、じつは基盤として構築された虚構にすぎないということです。つまり、これ以上還元不可能だとされて検証されてこなかったものは、そのような「還元不可能性」として作られた「結果」にすぎず、むしろわたしたちは、その「還元不可能性」産出の系譜を批判的にたどらなければならない … /『ジェンダー・トラブル』では、はっきりと、ジェンダーも、セクシュアリティも、セックス(生物学的な性)も、すべてが社会的に構築されたものであると、いわば、理論的に宣言したわけです。(上野 2001:160-1)
〈ジェンダーはセクシュアリティを捏造し、セックスを本質化する〉
… 身体の性的意味づけは … 社会の成員を男女に二分し、両者の権力関係で社会を維持するジェンダー規範に基づいてなされている。… バトラーが語っているように、セクシュアリティはつねにすでにジェンダーであって、性の権力関係を支える男女の二分法につねにすでに汚染されている。そしてセックス(身体的な性差)はセクシュアリティを実現する〈器〉であるとか、セクシュアリティを用意する〈所与の条件〉であるとみなす考え方 —— つまりセックスが原因であり、セクシュアリティやジェンダーは結果であるとみなす因果関係 —— はじつは転倒されたもので、ジェンダーこそがセクシュアリティの物語を捏造し、セックスという身体的性差を事実として遡及的に生産しているものである。(竹村 2000:52)
「パフォーマティヴィティ」
バトラーの社会構築論のなかでもっとも重要な概念だと思われるのが「パフォーマティヴィティ」である。「行為遂行的」と訳される。構築主義は、まず最初に「実体」が存在し、次に、その実体を「認識する」という順番(存在→認識)が誤りであると指摘する。「存在」は「認識」によって遡及的にあとから「あたかも実在する」という言語的作用(すなわち認識)によって制作されたものにすぎない。よって、構築主義は「認識→存在」という順番になる。
バトラーは、それに言語行為論を組み合わせて「行為→存在」という順番を提示した。「認識」が「実在」をつくりだすのと同じように、「言語行為」が「実在」をつくりだしている。それが「パフォーマティヴィティ(行為遂行)」である。つまり、「すること(行為)」が「あること(実在)」をたえず反復的につくりだしているわけである。
〈バトラー理論『ジェンダー・トラブル』〉
…『ジェンダー・トラブル』(1990)において、言説以前に実在があるという信念を「実体の形而上学」と呼んで徹底的に批判し、生物学的性差(セックス)をジェンダーによる構築物と主張することで、「性差は生まれか育ちか」という不毛な論争に終止符を打ち、ジェンダー理論を新たな地平へ導いた。さらにバトラーはオースティンの言語行為論とアルチュセールの「呼びかけ」による主体形成の議論を発展させ、言語行為をそれに先立つ言語の「引用」であり「パフォーマンス」であるととらえる「パフォーマティヴィティ」の理論を提唱する。ここにおいて実在論・本質論的な「主体」概念は棄却され、行為の帰属先は「エージェンシー(行為体)」と名づけられる。この理論は、言語行為の場にジェンダーの再生産と変革の両方の働きを見ようとするものであり、現在もっとも注目されるジェンダー理論である。(上野 2001:158-9)
〈ジェンダーの行為遂行的な性質〉
例えば、一般的に男らしい/女らしいと意味づけられている行為を遂行し、これを反復することで、その人の内面にあたかも男/女という本質があるかのような錯覚が起こる、という考え方がある。このような行為を通じて形作られる性別を行為遂行的(パフォーマティヴ)ジェンダーという。(『セックス・チェンジズ』p502)
〈セックスはパフォーマティヴに構築される〉
…「ジェンダーはセックスのうえに構築される社会的・文化的な性差である」という定義は十分なものではなく、「社会的・文化的な性差であるジェンダーによって、セックスという虚構が構築される」と定義しなおさなければならない。しかもこの虚構の構築は、一回だけでは終わらない。たとえば人は一生で言えば、誕生時にそのときだけ、身体が性的にしるしづけられるわけではない。セックスという虚構を「事実」とみなすために、わたしたちは、あたかもジェンダーがその事実の「うえに」構築されたものであるかのように、繰り返し繰り返しジェンダーを演じつづけている。演じること(おこなうこと)によって、事実性を(再)生産するパフォーマティヴィティ(行為遂行性)のメカニズムは、ジェンダー規範のもっとも根幹をなすものである。ゆえにジェンダー規範は、社会的規制として人の外部にあるのではなく、規制を内面化している人の〈認識〉そのものであり、規制を身体化している人の〈形態〉そのものであると言えるだろう。(竹村 2000:53-4)
〈ジェンダーのパフォーマティヴな反復的構築とセックスの虚構性〉
わたしたちはともすれば、誕生時におこなわれる性別化を決定的なものと考えがちである。だがそれ以降も「女」であること「男」であることをつねに確認し続けなければ、誕生時の性別化は単なる外性器による分類にとどまるだけである。皮膚の色は所与のものだが、人種は社会的な意味づけであると語られるのと同様に、誕生のさいの身体的な性別化と、それ以降のパフォーマティヴ(行為遂行的)に反復しておこなわれる「男」「女」の性別化は異なるものであり、後者の社会的な性差を正当化するために、前者の身体的な性差がその「起源」としてつねに想起されているにすぎない。(竹村 2000:50)
「引用」
バトラー理論においてもうひとつ重要な概念だと思われるのが「引用」である。引用とは、「読み」(認識)と言語行為を媒介するものであり、これによってたえずパフォーマティヴなジェンダー再生産が行為水準の場において行われている。したがって、わたしたちはなにか行為をするたびごとに言語的な引用を反復するしかなく、その構造的な循環のなかから脱出することはできない。
〈引用する発話行為〉
…「わたし」は、言語の外に出ることはできない。「わたし」の行為は、「引用」だけなのですから。(上野 2001:225)…法も制度も文化も慣習も「わたし」のそとに客体として存在しているものではありません。引用する発話行為のなかにあるのです。(上野 2001:241)
しかし、引用はたんなるコピーではなく、たえずそのたびごとのバージョンがつくられる。この引用のバージョン変化は「ずれ」を生みだし、攪乱(=変革の契機)となる可能性をたえず秘めている。つまり、パフォーマティヴなジェンダー再生産は、再生産であると同時に変革の契機でもあり、ここにおいて構造決定論を免れることになる。
構築主義は本質主義を批判する。だが、「すべては言語によって構築されている」と宣言することによって、今度は言語的決定論という本質主義になってしまいかねない。「再生産的反復と攪乱的変革の同根性」を指摘したバトラーは、そのような決定論をうまく回避することに成功している。
〈引用のずれ=行為体の自由〉
読みが発話行為に変わるときに、引用による再生産が起きる。引用という言語実践の中では常にバージョンがつくられているんです。(上野 2001:217)
…言語というものが常にすでに社会的な資源であって、外から受けとる、つまり引用するしかない、そういう所与として引用可能な資源であると語られています。つまり、選択可能な資源は限られているけれども、その限界内においてさえ、行為体は自由を持つ。(上野 2001:220)
「引用」と「物語=比喩」
社会にオリジナル(本質)は存在しない。あるのは「言語」という引用可能な資源だけだ。わたしたちはオリジナルなき引用の反復によって、あたかもオリジナルが認識以前に実在していたかのような錯覚をひきおこす。この錯覚のうえに物語=虚構は築かれ、パフォーマティヴな再生産運動をくりかえしている。
〈言語的、間主観的に構成される「わたし」と「あなた」〉
わたしたちが感情と呼んでいる事柄、あるいは身体性の帰結と思っている事柄、また衝動や本能とみなしている事柄は、所与の言語がそれらに与えている名称や意味であり、そして〈わたし〉がその言語を内面化し、身体化している様態である。…それらはつねにいまここで、〈わたし〉と〈あなた(たち)〉のあいだで、つまりはその「あいだ」を再生産し、「あいだ」によって再生産されている〈わたし〉の「なかで」起こっていることである。(竹村 2002:24-5)
〈わたしたちは物語=言語なしでは生きられない〉
わたしたちは何らかの「物語」なしに、自分の感情を感じることも、自分を把握することも、行動することも、何かを理解することも、他の人々との同意を得ることも、あるいは誤解、決裂することもできない。そして現代の発話理論が語っているように、個別的な物語は、それを認識可能にさせる参照の枠組み、いわば集合的な物語を必要とする。逆に言えば、わたしたちは集合的な物語 ——《言語》と呼ばれたり《法》と呼ばれるもの —— と、まったくかけ離れた個別的な物語を語ることはできない。わたしたちはつねにすでに既存の言語のなかに、ハイデガーの言う意味で「投企」されている。けれども逆説的なことに、集合的な物語は、それ自体で存在しつづけることはできない。集合的な物語は、個別的な物語をとおして —— 個別的な物語として —— のみ存在する。物語は、いつも「比喩」である。もっと正確に言えば、「事実」と価値づけられた比喩である。わたしたちはそれと気づかぬまま、比喩である物語を事実と思い込み、あるいはいわゆる事実と同じ機能をもつ物語を、比喩と錯覚する。(竹村 2002:1)
〈本質的な事実性をつくりだす物語=比喩〉
個々の実践においてはかならずしも生殖と結びつかないさまざまな行為や感情を、生殖を中心にして「比喩化」したものが、女の性欲望であり、男の性欲望ではないだろうか。そしてその比喩を生産し、流通させているのが、通常は事実とみなされない、巷にあふれるさまざまな物語である。しかしそれらの物語は単なる比喩ではなく、それを受け入れるわたしたちに、遡及的な事実性を生産していく。わたしたちは知らず知らずのうちに、そういった物語にのっとって自分自身の経験を解釈し、それによってわたしたちのなかに、本質的な事実性——身体性——というものを形成してしまう。そしてその事実性からすべては始まったのだと、錯覚していく。(竹村 2002:2)
ラカンの鏡像理論
精神分析理論も社会構築主義の重要な武器となる。ラカン以降の精神分析では、言語による欲望と自己=身体の動的な相互不可分性を提起した。
欲望は言語によって構造化されるので、欲望は言語的に制作される〈他者の欲望〉となる。これと同様に、自己=身体は他者をつうじて言語的に獲得される〈身体像=形態〉であり、これは鏡に写った鏡像としての身体イメージである(身体そのものではなく身体像=形態)。
つまり、欲望も自己=身体も、実体として獲得するものではなく、言語をつうじた〈他者〉—— 永遠に到達しえない虚像 —— として構築されるフィクションということになる。
〈ラカンの鏡像理論〉
ラカンによれば、自己は自己の身体をつねに鏡に写った像として獲得する。… 自己の身体の外延を獲得するとき、それを実体的に獲得するのではなく、他者の眼差しによって、すなわち自己の身体として社会によって差し出された虚像として、想像的に獲得する。わたしたちは自己の身体を、自己が参入する社会の〈言語〉にしたがって解釈するのである。身体がじつは自己形成のさいに言語的に構築される虚像であるというこのラカンの理論は … 所与の条件として社会的性差(ジェンダー)の正当性を保証している生物学的な身体の事実性(セックス)が、じつは社会的な言語によって構築されているフィクションでしかないことを明らかにするものである。(竹村 2000:37-8)
〈「身体」は「身体像(認識)」である〉
「わたしたちの身体とはどのようなものか」という問いは、身体の〈存在〉を問いかけているのではなく、身体についての〈認識〉を問いかけているものである… このように問いかけること自体が、身体はありのままに存在しているのではなく、つねに認識されたものとしてのみ存在していることを物語っている。(竹村 2000:50-1)
形態と反復、そして資本主義
ラカンの鏡像理論とバトラーのパフォーマティヴ理論を組み合わせると、以下のようなことが言える。すなわち、「身体」というものは実体ではなく形態(身体像)であり、この形態としての身体像をたえず模倣する営みが反復的なパフォーマティヴィティ(行為遂行性)である。
《… 身体は形態を「模倣した」ものである —— 形態を反復することによってパフォーマティヴに生産されるものである —— ということは、身体は模倣(反復)すべき形態モデルから、つねにずれているということを意味する。… まさに「どのような身体も、それに適切に正確に近づくことはありえない」...》(竹村 2000:66)
要するに、「これぞ男の身体、これぞ女の身体」というもの(=実在する正真正銘の性的身体)などこの世に存在しないということだ。セックス(生物学的性差)が実在しているかのように思わせるしくみは、わたしたちがじつは「形態として身体像」しか持ちえないこと、この形態を反復的に模倣しつづけなければならないということに起因している。このようなフィクションを支えているのはイデオロギーとしての「言説=言語」と、この言説群を支える政治経済体制=資本主義社会である。
〈形態と模倣、それを支える経済的な価値体系〉
女を「女」とみなすもっとも基盤的な根拠とされているものは、女の身体である。だが身体も… 模倣によって得られる身体「形態」でしかない。しかしその身体形態(最初の名づけ)は、そのうえに塗り重ねられていくさまざまな言説によって、その形態性——虚構性——が覆われて、逆に言説の物質的な起源として立ち上がってくる。問題は、身体の基盤的な虚構性を覆うこの言説群が、政治、経済、社会の複雑な価値体系によって構造化され、またその価値体系を構造化するものでもあるということだ。(竹村 2000:69)
脱アイデンティティ
社会構築主義は「脱アイデンティティ」を説く。なぜなら、自己同一化(アイデンティフィケーション)は、社会的につくられたカテゴリーへと自己を同一化し、言語によって自己を定義することによって社会的カテゴリーを本質化してしまうからである。「わたしは女である」という自己定義は、「わたし」を構築すると同時に「女」というカテゴリーを本質化する。
〈自己同一化=カテゴリーの本質化〉
… カテゴリーに自己同一化して自分を説明していくかぎり、そういったカテゴリーは「社会的に自然な」もの、「社会的に必然な」ものに擦りかわり、カテゴリーのあいだには —— たとえば「女」と「男」、あるいは「同性愛者」と「異性愛者」のあいだには —— 横断不可能な境界が画されていく。社会的カテゴリーは、個々の人間のアイデンティティの構築と別個に存在しているのではない。個々の人間がカテゴリーに自己同一化していく、その過程が、カテゴリーを「社会的本質」に仕立て上げていく。(竹村 2013:29)
〈脱-アイデンティティと社会構築主義〉
…社会構築的な思考が分析すべき事柄は、そもそも偶発的な制度や慣習の集合体 —— すなわち「物語」—— でしかないものが「社会的な本質」として、さらには非歴史的な「普遍的な事実」として認知されていく、その構築の過程性である。すなわち各々のカテゴリーを所与の意味づけにとどめたまま内面化、身体化、個人化して、それに自己同一化していく、そのアイデンティティ形成を「脱構築」することが必要である。(竹村 2013:30)
バトラーと「アイデンティティ政治」
バトラーの『ジェンダー・トラブル』以降、「アイデンティティ・ポリティックス」は不可能になったと言われる。正確にいえば、ガチでマジの「アイデンティティ」を本質的に提示し、そこから「女」という社会的カテゴリーに同一化しながら「女たちの連帯」をおこなうようなアクションはできなくなった。
〈『ジェンダー・トラブル』は一つの事件だった〉
『ジェンダー・トラブル』がなぜトラブルをフェミニズムにもたらしたかというと、本質主義がなくなれば、「私とあなたは女だから同じよね」とは言えなくなってしまう。そのことによって、女性という共同性が掘り崩されていく。それがフェミニズム業界にパニックをもたらしたということも含めて、やはり一つの事件だったと思います。(上野 2001:165)
〈バトラーの衝撃〉
バトラーが『ジェンダー・トラブル』でジェンダー本質主義に最終的な死を宣告したことによって、フェミニズム業界が大混乱に陥ったのは周知のとおりである。バトラーの登場は、フーコーがもたらした西欧哲学における「主体の死」と同じぐらいの激震を、フェミニズムにもたらした。(竹村 2013:419)
戦略的本質主義を可能にする「とりま主義」
しかしながら、アイデンティティ政治はマイノリティの権利を回復する当事者運動にとっては重要である。では、同一化の原理から生まれる意図せざる結果(本質主義化が孕む問題性)を回避すると同時に、マイノリティの政治的なアクティヴィズムを実行することは、はたして両立可能なのだろうか。
竹村さんが提示するのは「戦略的本質主義」、あるいは「とりあえずの連帯」(バトラー)である。社会的カテゴリーをガジでマジなカテゴリーとしてではなく、搾取や差別や抑圧を弾劾するときにかぎって、対抗言説を生みだすための〈非難のレトリック〉として「戦略的」に使用する。同様に、政治的に連帯するときは「とりあえずの連帯」として“とりあえずの”社会的カテゴリーを用いる。
「とりあえず、まあ…(略して“とりま”)」という構えや態度が戦略的本質主義を可能にする。このようにして、社会的カテゴリーを目的性や誰性を問う〈テロスのレトクリック〉として使用しない、また、アイデンティティの基盤を形成する文脈では使用しないように心がけるのが戦略的本質主義=「とりあえずの連帯」なのである。(竹村 2000:117)
〈戦略的本質主義〉
「女の身体」が有効になるのは、歴史的経緯や社会的環境や状況的文脈といった留保をおいて、限定的に主張するとき、つまり戦略的本質主義の言説においてである。(竹村 2013:58)
〈とりあえずの連帯〉
わたしはむしろ「とりあえずの連帯」を積極的に評価しようと思います。永久不変の固定したカテゴリーを想定しない連帯。将来の姿は不可能な連帯。べつの言葉で言えば、代表するときには、つねに「とりあえず」という「留保」を置かなければならない。…(上野 2001:233)
〈「原因」と「目的」の本質化〉
本質主義は、通例、本質を「原因」とみなし、その不変の属性から定例の現象が導き出されるとする考え方だと理解されている。たとえば女のセックスという生物学的な本質が「原因」となって、女というジェンダーや女というセックスが当然に発現するという考え方がそうである。ただ本質主義は、「目的」を本質とみなし、その「目的」に向かって、差異をふたたび固定化するものでもある。… 結局、差異は、現在の言語の内部で語られる目的性によって、未来へと遡及的に再配備され、その場所に確定的に位置づけられることになる。(竹村 2013:25-6)
「クィア存在」の可能性
「クィア理論」とは、いままで長々と説明してきたことすべてのことをさすのだが、一応、定義的に説明するならば以下のようになる。
〈クィア理論とは…〉
クィアとはもともと「変態」の意味。クィア理論という用語は、1990年代初めにテレサ・ド・ラウレティスが、アイデンティティを前提としがちな従来の「レズビアン/ゲイ研究」にかわって提唱した。クィア理論は異性愛主義的なセクシュアリティを構築する言説を問題化し規範を攪乱する「クィア」なパフォーマンスを追求する。(上野 2001:164-5)
〈クイア理論と『ジェンダー・トラブル』〉
バトラーが『ジェンダー・トラブル』でジェンダー/セクシュアリティの二分法に斬り込んだとき、それをあとから「クイア理論」と呼んだのは本人ではなく、テレサ・デ・ラウレティスであった。日本語で「変態研究」と訳されるクイア理論は、何もLGBTのようなセクシュアル・マイノリティに特殊化した研究領域をさすわけではない。(竹村 2013:412)
「命令」と「呼びかけ」
竹村さん=バトラーによれば、《 パフォーマティヴは「選択」ではなく同一性を強要する「命令」である》という。(竹村 2013:16)
つまり、《… ジェンダー/セクシュアリティ/セックスが社会構築されたものだとはいえ、それはけっして「選択される」ものではなく「命令される」ものであること、また何度も命令され続けなければならない同一性の構築であるということだ。》(同:15)
アルチュセールの「呼びかけ」の概念を使用するなら、わたしたちはたえず、社会が構築した「合致すべき規範モデル」から「呼びかけ」られ、「普通」という規範に同一化するように「命令」される。「呼びかけ」という命令にこたえるかたちでパフォーマティヴな実践が反復され、そのたびごとに自然的本質(たとえば「男」や「女」)が構築されていく。
クィア理論とは、そのような強制的な命令的「呼びかけ」を、選択的な行為に変換する理論である。しかし、クィア理論はたんに「変わり者」を開きなおり的に正当化する理論ではないし、金子みすゞ的な「みんなちがって、みんないい」という宣言だけに還元されるわけではない。クィア理論は、「変わり者」のほうが問題なのではなく、「合致すべき規範モデル」のほうこそが問題だと提起する理論である。
〈アルチュセールの「呼びかけ」〉
女は女に生まれるのではない、女になるのだ、とシモーヌ・ド・ボーヴォワールは書く。それなら女はいかに女になるのか? それは「女というカテゴリー」を引き受けることによって。「わたしは、女だ」と自認することによってだ。…
人はだれでも、すでにそこにある言語の世界に、あとから生まれてくる。言語は自分のものではなく、他者に属している。「女」というカテゴリーは自分以前に存在し、「おまえは女だ」と他者から名指しを受ける。「そうよ、わたしは女よ」と自己定義したときに、「女」は生まれる。アルチュセールの言うように、「おい、そこの女」という「呼びかけ(interpellation)」に答えるときに、女という「主体」は生まれるのだ。…「女」という強制されたカテゴリーを、選択に変える —— そのなかに、「解放」の鍵はあるだろう。(上野千鶴子『女ぎらい』138-9)
「クィア連続体」としての「クィア存在」
わたしは「クィア」という用語を「性的マイノリティ」だけに限定せず、もっと幅広いマイノリティに適用できる概念として使用したい。
レズビアン・フェミニストのアドリアンヌ・リッチが、女性たちの絆を「レズビアン連続体」とよび、このレズビアン連続体を構成している女性を「レズビアン存在」と言ったように、ひとは「クィア連続体」のどこかに位置する「クィア存在」として生きているのではないだろうか。
ここでもういちどドゥルーズのマイノリティ定義を再確認しよう。
〈ドゥルーズのマイノリティ定義〉
マイノリティーとマジョリティーは、数で区別されるわけではありません。マイノリティーがマジョリティーより数が多いこともありえます。マジョリティーを定義するのは、合致すべきモデルです。例えば、中流、成人、男性、都市在住のヨーロッパ人です。他方、マイノリティーにはモデルがありません。それは生成であり、プロセスです。マジョリティーは、誰でもないと言えるでしょう。あらゆる人が何らかの面でマイノリティーの生成に捕えられているのであり、もしその生成に従う決心をしたとするならば、見知らぬ道に引きずり込まれることになるでしょう。…
「合致すべきモデル」とは、社会的に構築された「普通」という規範モデルであり、この「普通」という規範モデルに「通用(パス)する者」を「マジョリティ」とよぶ。逆に、合致しない人間たちは「マイノリティ=クィア」とよばれる。
社会構築主義からすれば、「本質」や「自然」などというものはどこにも存在しない。よって、本質的自然を前提とする「正常」や「普通」という規範モデルは当然のことながら虚構ということになる。だから「マジョリティーは、誰でもない」のだ。
とりわけ重要なのは、マイノリティにはモデルがなく、生成プロセスであるという点である。ドゥルーズはその点に革命的生成の契機を見いだしており、これはバトラーのパフォーマティヴ理論 —— 反復に内在する攪乱(=変革の契機)—— と同じである。
以上のことをまとめると、クィア存在とは、率先して「見知らぬ道に引きずり込まれること」を選択する者たちであり、強制された「命令」を「選択」に変換する者であり、「普通」という規範モデルからの「呼びかけ」に応じない者たちである。
〈「すべての人はトランスセクシュアルである」〉
セクシュアリティを論じることがアイデンティティに結びつくことは、自己がなによりも性的自己として定義されているからだ。ヘテロセクシズムに抵抗する者は、したがって(異性愛の)男/女のいずれに分類されることも拒むだけでなく、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどの非異性愛のアイデンティティに同一化することも同様に拒む。なぜならこのような非異性愛の同一性のカテゴリーは、異性愛制度の残余であり、境界の管理の産物にほかならないからだ。...バトラーにならって、竹村さんも徹底した同一性の解体を求める。したがって「クイア理論」とは「クイア(性的少数者)」のための理論ではなく、異性愛制度を解体し転覆するための理論である。だからこそ「ストレート(異性愛者)」も含めて「すべての人はトランスセクシュアルである」という命題が成り立つ。...「けんめいにゲイになる」というフーコーのことばを借りれば、ストレートもまた「けんめいにストレートになる」途上にある。アイデンティティをこのように関係的・動態的・過程的なものととらえれば、だからこそセジウィックが言うように、異性愛者にとってホモフォビアというホモエロティシズムの自己検閲が厳重にならざるを得ない事情が理解できる。(竹村 2013:415)
伏見憲明さんの [ ヘンタイ ] 宣言
おそらく日本においていち早く「クィア存在」であることを宣言した人物は、ゲイをカムアウトした伏見憲明さんではないだろうか。伏見さんは命がけで書いたとされる処女作『プライベート・ゲイ・ライフ』(1991)の冒頭で「[ ヘンタイ] 宣言」を打ちだした。重要なのでその全文を以下に引用しておく。
〈 [ ヘンタイ ] 宣言 〉
ぼくは [ ヘンタイ ] が好きだ。自分のことを [ ヘンタイ ] って言えちゃう人が好きだ。だってそれは、自分を基準値に近づけようとしたり、規格化されることから降りちゃった人のことだからね。(ちなみに漢字の [変態]は、他人に迷惑をかけるのが好きな人のこと)
[ ふつう ] っていう、実ははっきりしない中心点からの距離をはかりながら生きるのは疲れるし、知らず知らずのうちに既成社会のヒエラルキーに組み込まれてしまう。それは [ 個 ] であろうとすることとは、逆のベクトルを指している。そんなのはもう、やめたほうがいいんじゃないのかな? 降りてしまえばいい。
だから、ぼくはゲイと呼ばれるマイノリティだけど、「ぼくだって [ ふつう ] なんだ!」と叫ぼうと思わない。それよりは「あなたもあなたであろうとすれば、 [ ヘンタイ ] なんだ」とメッセージしたい。 [ ふつう ] っていう言葉はその向こう側に、永遠に [ ふつう ] でないものを用意し、差別していくような気がするんだよね。目指すところが同じでも、ぼくは [ ヘンタイ ] という言葉を選び取りたい。
みんなが自分のやり方を見つけ、自由にやっていけばいいんだ。 [ ふつう ] をつくる必要なんてないでしょ? それが無いことに耐えられない人は、セフルリスペクトが足りないんだと思う。もっともっと自分を愛してみようよ。自分に語りかけてみようよ。
そしてその [ ヘンタイ ] と [ ヘンタイ ] が、どうやって折り合いをつけながらいっしょに生きていくのかが、 [ 関係 ] ということ。一方的に自分らしさを押しつけ合っていったら、 [ 共生 ] することはできないからね。そう簡単にはいかない。
ぼくは今、捜しているんだ。多様な人間ができるだけリラックスしながら、寄り合って生きていくための、 [ 関係 ] のありようを。
「生きづらさ」と「クィア存在」の可能性
当事者研究とクィア理論は共通していると思う。当事者研究は「生きづらさ」を当事者の人生のなかに引き受ける(=研究する)ことによって「苦悩」を「苦労」に読みかえる。ここには、受動的能動性(能動的に引き受ける構え=あえて、生きづらさを選択する態度)がある。クィア存在もまったく同じなのだ。
クィア理論は、「ずれること=攪乱すること」を推奨する。「ずれ」とは、「普通」という規範モデルからの「ずれ」であり、社会が強制的に命令する「普通になれ…という“呼びかけ”」に応じない(スルーする)ことである。TS用語を使用するなら「あえてパスしない」こと、「パス至上主義を拒否する」ことである(サンディ・ストーンの「ポスト・トランスセクシュアリズム」)。
わたしたちは、社会空間を生きるなかでたえずパフォーマンス(演技)することをよぎなくされる。「コミュニケーション能力」とよばれているもののほとんどは「パフォーマンス能力(演技力)」のことだ。
社会が要請する「〇〇として振るまえ」(女として、男として、異性愛者として、既婚者として、所帯持ちとして、健康な労働者として、有能な人材として、一般的な社会人として…)という命令に応じるかたちで、「普通」という規範モデルからの「呼びかけ」に反応するスキルが「演技力=コミュ力」である。わたしたちは「普通だと思われたい」「普通の人として通用(パス)したい」と、たえずパフォーマティヴに、反復的に構築されている。
よって、「普通」からの「ずれ」は、「模倣の失敗=生きづらさ」となる。しかし、この「生きづらさ」こそが攪乱的変革の契機となる。「生きづらさ=ずれ」を選択的、能動的に引き受けること ——「呼びかけ」に“応じられない”のではなく、選択的にあえて“応じない”こと —— が「脱構築=攪乱的なずれ」になる。「生きづらさ=ずれ」を選択的に選びとることは、社会からの命令的呼びかけ(=普通という規範モデル)がたんなる虚構(=演技要請)でしかないことに気づかせてくれる。
いまやクィア存在を選択したわたしたちは「演技」する必要などないし、“普通の人”として「パス」する必要もない。なぜなら、「普通」などどこにもないからだ。したがって、クィア存在がめざすのは以下のような生き方だ。
《…個人的なものと見なされている心的・身体的なものに関する認識や行為の変容をみずからに課すことなく、どのような社会的慣習や政治的制度の変革も、究極的にはありえない …「個人的な」認識や行為の変容が、個人をとりまく —— あるいは個人そのものである —— 社会の姿を変えていく…》(竹村 2000:ix)
〈「…として」から「…のよう」のずれ〉
集合的な物語は、個別的な物語を介して、どこにもないが、どこにでもある物語として立ち上がる。だから集合的な物語を反復しているはずの個別的な物語のなかで経験される「ずれ」は、事実性を保証する集合的な物語がつねにすでに比喩でしかないことを、わたしたちに気づかせてくれる。わたしたちは、女や男“として”感じ、行動していたことが、女や男“のよう”に感じ、行動していたにすぎないことを知る。(竹村 2002:3)
〈脱構築=同一性から“ずれ”ること〉
「脱構築」は、あるものが完全に「瓦解」して、べつのものが唐突に出現することではない。わたしたちが社会構築されている存在であるかぎり、その構築のまったき外側に、わたしたちの位置を —— 現実としても、理念としても —— 定位することはできない。わたしたちにとって可能な道は、構築の過程で生みだされる社会的カテゴリーと個別的な経験のあいだのずれに目を向けることであり、それによって、わたしたちのアイデンティティをアイデンティティの内部で脱構築していくこと…である。そして構築の過程におけるこの個別的で経験的なずれこそ、本質のように錯覚されているカテゴリーがじつは「歴史的な産物」であること、またカテゴリーの強制力は、強制力が作動する個別的な場所でつねに抵抗にさらされていることを、わたしたちに思い出させてくれるものである。その意味でアイデンティティの脱構築は、「同一性の原理」を、まさにマルクスが言う意味で歴史化することにほかならない。(竹村 2013:30)
参考文献
・竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』(岩波書店 2002)
・竹村和子『境界を攪乱する 性・性・暴力』(岩波書店 2013)
・上野千鶴子+竹村和子 他『上野千鶴子対談集 ラディカルに語れば...』(平凡社 2001)
- 作者: 上野千鶴子,河野貴代美,足立真理子,大沢真理,竹村和子
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・パトリック・カリフィア『セックス・チェンジズ』ートランスジェンダーの政治学(作品社 2005)
・上野千鶴子『女ぎらい ニッポンのミソジニー』(紀伊國屋書店 2010)
- 作者: 上野千鶴子
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・伏見憲明『プライベート・ゲイ・ライフ ポスト恋愛論』(学陽文庫 1998)
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