おんざまゆげ

@スラッカーの思想

ポルノ擁護論とマスターベーション論 ——セクシュアリティ・フェミニズム・クィア理論 (3)

 今回はいままでの流れとはちょっと外れて、上野千鶴子さんのセクシュアリティ定義、ポルノグラフィ擁護論(=表現の自由を擁護し、ポルノ規制に反対する立場)マスターベーション論を考えてみたい。

 

 性欲/性行為/性関係

 まず、上野さんは「性愛」という用語は誤解をまねくのでもはや使う必要はないと言う。

  性は欲望の言語、愛は関係の言語。性と愛とがべつべつのものであることがこれほどはっきりした今日の世界で、「性愛」などという混乱を招く用語を使う必要はない。わたしたちが知っているのは、性が愛を随伴することもあれば、そうでないこともある、というあからさまな経験的事実だ。

[ 上野千鶴子『女ぎらい—ニッポンのミソジニー』(紀伊國屋書店 2010:75) ]

 

 次に、セクシュアリティを「性欲/性行為/性関係」の三つに区分する。

 まず、性欲(性欲望)から。

 性欲は、個人の内部で完結する大脳内の現象である。… セクシュアリティとは、「両脚のあいだ (between the legs) 」にではなく「両耳のあいだ(between the ears)」、すなわち大脳にある。だからセクシュアリティ研究とは、その実、下半身の研究ではない。何が欲望の装置になるかは、人や文化によって違う。… 欲望が「恋愛」という「関係妄想」をファンタジーとしてともなっている場合にさえ、欲望そのものは個人内で完結している … その限りで、欲望は ―― 想像力と同様に ―― 自由である。人は神と交わることも、聖母に抱き取られることも、あるいは強姦することも、幼女を切り刻むことも、欲望することができる。それを禁止したり、抑圧することは ―― 本人以外には ―― だれにもできない。(同:75-6) *1

 

 そして、「性行為」とは《 欲望が行動化したもの 》であり、《 その行動には、他者(身体)を必要とするものと必要としないものとがある 》という。そのうち前者を「性関係=他者身体とのエロス的な関係」とよび、後者の「関係不在」(他者身体を必要としない)性行為を「マスターベーション=自己身体とのエロス的関係」と定義する。(同:76)

 以上の「性欲/性行為/性関係」という三つの区分でとりわけ重要だと思われるのは、「性欲望は妄想段階にとどまっていれば、想像力と同様にどこまでも個人の自由である」という命題。次に、マスターベーションを「自己身体とのエロス的関係」として「性行為」(=他者不在のセックス)に位置づけている点である。

 

上野千鶴子のポルノ擁護論

 上野さんの分類に依拠するなら、個人の脳内プレイとしての「強姦妄想」はどこまでも個人の自由ということになる。だが、当然のことながら強姦妄想を現実化する性行為(=性関係)は「強姦罪」になる。 

 もし、「強姦妄想は強姦行為を導く」というふうに因果関係的に考えるなら、ポルノ規制派のロジックに近づくだろう。反ポルノ派フェミニストの有名な言葉は「ポルノが理論で、レイプが実践」というものだ。しかし、強姦妄想と強姦行為の因果関係は実証不能とされ、むしろ逆に「AVを見ることによって強姦妄想の現実化を防いでいる」という「ガス抜き作用」説が主張されることすらある。

 アメリカのフェミニスト法学者であるキャサリン・マッキノンは、ラディカル・フェミニストアンドレア・ドウォーキンとともに「ポルノが理論、レイプが実践」とする立場から反ポルノ法を起草した。この動きに対しては、フェミニスト内部からも論争をよびおこしたらしいが、現段階でのポルノ規制論はゾーニング/フィルタリング規制で対処可能であるという見解がとられているようである。

 以下では上野さんのポルノ規制に対する見解を紹介しよう。

 日本でもポルノ規制をめぐって、一部のフェミニストとコミックライターや作家とのあいだに「表現の自由」論争が起きたが、わたし自身は、フェミニストのなかでも「表現の自由」を擁護する少数派に属する。(同:80)

「まずポルノはそれを不法化しても抑えることができません。そして私は『ポルノは理論であり、レイプは実践』だというマッキノンの主張に同意しません。インターネットであれ、DVDであれ、バーチャルな性的表現物をたくさん消費する男性が、実際の性生活で必ずしも積極的ではないという調査結果があります。」(https://wan.or.jp/article/show/1917) 

 

 次の意見はいかにも「社会学者」的である。

 それならいっそのこと、かれらが性関係から撤退し、性行為をマスターベーションに限定し、自己完結した性的欲望のファンタジーのもとにとどまってくれているほうが、ずっとよい。ヴァーチャルなシンボルで充足できる「二次元萌え」のオタクや、草食系男子のほうが、「やらせろ」と迫る野蛮な肉食系男子よりもましだ。メディア系の性産業はすべて、「抜くためのおかず」、つまりマスターベーションのための性幻想の装置として機能している。たとえ二次元平面のエロゲー美少女アニメが、誘惑者としての女がすすんで男の欲望に従うあいもかわらぬ男につごうのよい男権主義的な性幻想を再生産している、としても。想像力は取り締まれない。かれらがそれを性行為に移すことさえなければ。 (同:86)

 

 次の文章はかなり説得力がある。

 性行為に他者身体を介在させたとたんに、性関係という名の関係が成立する。性欲のなかには、性関係欲というものが含まれる。だが、他者が登場したとたん、それは自己完結する欲望ではなくなる。そのなかに、緊縛した相手の自由を奪ってセックスしたいとか、だれかにむち打たれながらでないと射精できないという欲望があったとしたら? 自分で調達できない装置なら、他者の合意を得て、その身体の一部を使わせてもらうことがあるかもしれない。あるいは自分の性的ファンタジーのシナリオの一部を、これも同意を得て、だれかに共演してもらうことも可能だ。そのために対価を支払う可能性もある。が、たとえば、いやがる相手の抵抗を排して性交したほうがずっと興奮するとか、子どもの無知や無垢につけこんでその身体を性的に玩弄したいという関係欲があったとしたら? ―― それらの欲望をも、「性的少数者」の欲望の一種として、認めることができるだろうか?

 … 欲望を持つことと、欲望を行為に移すこととのあいだには、千里の径庭がある。M君はスプラッタービデオのコレクターだったことがあとで判明したが、そしてビデオで見たように被害に遭った幼女のカラダを切り刻んだことが報道されたが、あまたのスプラッタービデオの愛好者がそのまま犯罪者になるわけではない。

 … 想像力は取り締まれない。―― それが多数派のフェミニストが暴力的なポルノの法的な取り締まりを求めることに、わたしが同調できない理由である。(同:78-80 )

 

 当然だが、「児童ポルノ」については以下のように注意を促している。

 ただし、急いで付け加えておかなければならないのは、ポルノという表象のうちでも、実在の子どもをモデルに使ったチャイルド・ポルノはべつだということだ。… ポルノのモデルがシナリオにない現実のレイプを受けるのは人権侵害と見なされるが、それだけではなく、トラウマ的なポルノを演じることでもたらされる影響を無視することはできない。とりわけ子どもの場合には、子どもの「同意」能力を前提することはできない。子どもは、それがどんな意味を持つかを自覚することなしに性的な露出を迫られるからである。子どもの身体を性的な道具にすることは、それが表象の生産と流通、消費であっても、それ自体、犯罪と見なすべきだろう。 (同:87)

 

 一方、AV女優に対する見解は複雑のようだ。上野さんはポルノ擁護派だが、AV女優になることには反対のようである。以下は漫画家・ノンフィクションライターである田房永子さんの『男しか行けない場所に女が行ってきました』(イースト・プレス 2015)における はっきり言ってAVは出ないほうがいいと思う。… 》という引用を受けて展開された文章である。

 彼女にならってわたしも若い女たちにいいたい。はした金のためにパンツを脱ぐな。好きでもない男の前で股を拡げるな。男にちやほやされて、人前でハダカになるな。人前でハダカになったぐらいで人生が変わると、カン違いするな。男の評価を求めて、人前でセックスするな。手前勝手な男の欲望の対象になったことに舞い上がるな。男が与える承認に依存して生きるな。男の鈍感さに笑顔で応えるな。じぶんの感情にフタをするな。そして……じぶんをこれ以上おとしめるな。

(上野千鶴子「解説 ―― こじらせ女子の当事者研究」p257『女子をこじらせて』雨宮まみ 幻冬舎文庫 2015)

 

マスターベーションは性行為=私的セックスである

 次に「マスターベーション論」に移る。上野さんによれば、マスターベーションとは「自慰」などではなく、「自己身体とのエロス的関係=性行為」である。つまり、マスターベーションはセックスの一種である。

 セックスを「パートナーのないセックス」と「パートナーのあるセックス」とに分けて、前者を「私的セックス」、後者を「公的セックス」と捉える。すると、公的セックスは「他者身体とのエロス的な性行為=性関係」、私的セックスは「自己身体とのエロス的な性行為=マスターベーション」ということになる。

 私的セックスについて――。

 こういう言い方をしてよいかもしれない。身体は最初の他者だ、と。そして、私的セックス(パートナーのいないセックス)とは、自己身体との合意のいらない性行為だと。 (上野千鶴子『女ぎらい』:77)

 

 公的セックスについて――。

 公的なセックスには、社会関係に関わるすべての市民社会的なルールが適用される。相手の合意がなければ夫婦のあいだでも「強姦罪」が成立するし、相手がいやがる性的アプローチは「セクシュアル・ハラスメント」となる。それらはこれまで、「プライバシー」の名で封印されてきたものだ。性関係は「プライバシー」どころではない。なぜなら性関係も複数の個人のあいだの社会関係の一種だからだ。 (同:77)

 

 マスターベーションは「自慰」である、という一般通念にかんする反論は以下。

 マスターベーションが相手のある性交の不完全な代替物であるという考え方は、今日のマスターベーション研究の地平からは、完全に放逐された。それどころか、実証研究によれば、パートナーとの性関係が活発である人ほど、マスターベーションの回数が多いことも報告されている。つまり性的アクティビティのレベルの高い人は、自己身体とも他者身体とも性的に関係する機会が多く、一方が他方を代替するわけではないことがわかる。(同:91)

 

ポルノに対する個人的な見解

 わたしは暴力的な性表現や性映像は嫌いだし気持ちわるいと思ってしまうタイプですが、個人的な「嫌い」や「不快」や「気持ちわるさ」から一律的に表現を規制するのはむずかしいと思っています。これは性表現だけにかぎらず、最近だったら電気グルーヴ作品の出荷停止問題にも共通する話です。以下は社会学者の宮台真司さんが会見で述べた意見です。参考になります。

 ...1960年代後半にジョンソン大統領の下でのわいせつとポルノグラフィーについての大統領のための諮問委員会っていうのが開かれて、そこで実は今日に至る表現規制の枠組が確立しています。まず第一に、問題表現による社会的悪影響はまったく実証できないということです。問題表現っていうのは、性表現や、暴力表現や、犯罪者を描いた表現や、犯罪者による表現です。

 しかし、こうした表現に不快感を覚える人間も中にはいます。しかし人々の感じ方は多様なので、不快感を感じる人間がいるということは、なんの公共性もありません。...

 こうした点に鑑みて、要は不快だという人間が、不意打ちを食らわないように、回避すればいいだけ。簡単に言うとアナウンスとゾーニングだけで問題は解決できる。これは今日に至る基本的な発想です。日本ではこうした先進国ならば当然踏まえているべきやり方を、まったくわきまえていない。...

電気グルーヴ作品の出荷・配信停止に反対 発起人ら会見

  したがって、わたしは以下の三つは最低限必要だと思っていますが、おおむね上野千鶴子さんの立場に同意しています。

ゾーニング規制の強化

・子どもがスマホやPCで簡単に鑑賞できてしまう問題(→フィルタリング強化)

・AV出演強要問題など(→人権問題として対処)

 

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*1:《 ... 欲望は ―― 想像力と同様に ―― 自由である ... 

 ルーマンフェミニスト社会学者の吉澤夏子さんは、一部のラディカル・フェミニストが定式化した「男女の性愛のすべては“強姦”である」アンドレア・ドウォーキンに反対の立場から「男女の性愛(不)可能性」を90年代からずっと主張しつづけている。(『フェミニズムの困難』(勁草書房 1993)など参照) 吉澤さんは『「個人的なもの」と想像力』(勁草書房 2012)において、他者の尊厳を尊重することは 他者の「個人的なものの領域」、すなわち「心の自由な空間」を尊重することである… 》と述べる。これは上野千鶴子さんの「性的妄想の自由」を強力に後押しする主張になっている。