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トランスフォビアとパス至上主義 —— セクシュアリティ・フェミニズム・クィア理論 (4)

 今回はトランスセクシュアル(TS)に対する差別と、このTS差別(トランスフォビア)の根底にあると思われる本質主義的性別二元論(=パス至上主義)について考えてみたい。

 TSトランスセクシュアルの略)の問題系は、現存の性の制度に生きるすべての人の問題系であり、個別的な話題ではなく、性制度の構造そのものに関わるもの…(竹村2013:45)

トランスセクシュアルトランスジェンダー

 まず、トランスセクシュアル(TS)/トランスジェンダー(TG)の定義から。以下が参考になる。

トランスセクシュアルトランスジェンダーとは…〉 

 私たちの社会では、人は生まれた時点での外性器の形状などをもとに「性」を判定され、それが戸籍などの法的書類に記載されるとともに、家庭でもその「性」を前提として養育されることとなる。多くの人は、自らの性を問われれば、躊躇なくこの「性」を自らが帰属する性として答えるだろう。しかし、このような身体的「性」、ないし養育上の「性」に違和感を抱き、それとは異なる性で生きたい、さらには身体的特徴を望む性に近づけたいと願う者も少数ながら存在する。これらについてはトランスセクシュアル性同一性障害、また医学的概念にとらわれない言葉としてトランスジェンダーという名称が使われる。

[野宮亜紀「日本における「性同一性障害」をめぐる動きとトランスジェンダーの当事者運動 『セックス・チェンジズ』(作品社,2005) p542]

 

 当事者の中には、性別適合手術を望む者と望まない者、望みの性で生活を送る者と送らない者、「普通」の男女として世間に溶け込みたい者と積極的なクィアアイデンティティを持つ者など、様々な立場の違いが存在する。 (同:555)

 

「風俗現象」から「医療問題・人権問題」へ

 日本社会においてTS史が大きく動いたのは90年代前半頃から。1998年10月に埼玉医科大学にて国内初の性別適合手術が実施された。2003年7月には「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が成立した。

〈TS史と「性同一性障害」〉

 医療との関わりは当事者にとって重要な問題であり、また、社会そのものの動きも、医療の動向がきっかけとなって進んできた側面がある。特に、九〇年代前半から現在に至る十年間は、診断と治療のガイドライン判定、大学病院での公式な性別適合手術の実施、法制度に関する議論の活発化と特例法の成立といった出来事が続く、日本のトランスジェンダー史の大きな転換期とも呼べる時期であった。これは「風俗現象」として語られることの多かったトランスセクシュアリティの問題が、「障害」を持つ者に関わる「医療問題・人権問題」へと転換する過程であると同時に、「性同一性障害」という疾病概念が当事者を指す言葉として一般社会に普及し、社会的逸脱とされたものが医療化によって社会の枠組の中に回収される過程であったと言える。(同:559)

 

医療化と名称問題

 当事者のなかには「性同一性障害(GID)という疾病概念を使用したくない人もいる。たとえば、能町みね子さんの『オカマだけどOLやってます。 完全版』(文春文庫 2009)には、冒頭の漫画部分に次のようなセリフがある。 あ、いちおう「性同一性障害」っていう診断は受けてるんです。でも、この名前 長いし、好きじゃない。だからオカマってことにしてます。

 野宮亜紀さんが言うには、 しかし、外部への訴求を狙う場合、言葉の浸透度を踏まえると、「トランスジェンダー」と「性同一性障害」では効果に大きな差があり、戦略的な使い分けが求められる… 》。つまり、ほんとうは「性同一性障害」という名称を使用したくないが、認知度や訴求性にかんがみて戦略的に使用するケースもあるということだ。

 わたしは非当事者なのでこのへんから躓く。いったい何とよんでいいのか、と。当事者がじぶんのことを「性同一性障害」とよんでいる場合、まったく気にせず使用している人と、あえて戦略的に使用している人がいる。いったいどっちなのか…。まずは、相手の話をよく聞いたうえで、当事者が自分のことをどのように把握しているのか、ボキャブラリーのチェイス性(じぶんのことを何とよび、どのような文脈に位置づけているか…など)も含めて注意深く判断し、“決めつけ”をしてはならないのだと思う。

 能町さんはじぶんでじぶんのことを「オカマ」とよんでいるが、人から「オカマ」とよばれたらムカつくという。これは「オタク」とか「腐女子」とか「メンヘラー」などにもあてはまる。いわゆる「カテゴリーぶっ込み問題」である。TS/TGにもそのような問題があるということを知っておいたほうがいいのかもしれない。

トランスジェンダーと医療化の問題〉

 …社会運動論においては、現象を認識し記述する枠組み(フレーム)の存在が重視され、個人が集団へと動員されアイデンティティを共有する上では、このフレームが大きな枠割を果たすとされている。埼玉医科大学の倫理委員会答申を契機として、当事者運動の流れが形作られてきたことは、当事者運動が医療の側に立つことを意味するものではなく、むしろ、当事者中心の医療を実現し、医療の枠組みを評価していくための不可欠な流れであった。しかし、これらの流れが発展し、法制度の見直しにつながっていく上で、「性同一性障害」の概念が運動としての凝集性を形作るフレームとして機能してきた可能性と、その功罪について自覚的であり続ける必要がある。(同:560)

 

当事者の人権の回復とQOLの改善 

 TS/TGの問題(偏見・差別など)を語るうえで大原則となるのは「性のあり方によって差別されることのない、多様な生き方を尊重しあえる社会」を目指していくこと…》である。(同:561) この点はくりかえし何度も言っていく必要がある。そして、野宮さんがいうように 当事者運動の射程を当事者の人権の回復とQOL(生活・生命・人生の質)の改善に置くことが何よりもまず重要である。

 

トランスフォビア

 ここでは「TERF」(trans-exclusionary radical feminist:トランスジェンダーを排除する過激なフェミニスト)の代表格であるジャニス・レイモンド『トランスセクシュアル帝国―シーメールの製造』(1979)を紹介する。といっても、パトリック・カリフィアが書いた『セックス・チェンジズ』(作品社 2005)からの孫引きになる。*1

 レイモンドのトランスフォビア言説は、ネットで散見されるトランスフォビアと同類か、あるいはそれよりも過激でぶっ飛んでいる“トンデモ”に属する。このようなトンデモ言説がフェミニストを自称する人物から出てきたのが衝撃だった。

 レイモンドはまず「女」という性を本質化し、セックス(生物学的性)が「女」ではないMTFを認めようとしない。さらに、MTFは「女性の身体をレイプしている」と暴論を吐く。

〈ジャニス・レイモンド『トランスセクシュアル帝国』〉

 わたしたちは、わたしたちが誰なのかを知っている。わたしたちが女の染色体と解剖学的構造をもって生まれてきた女であり、いわゆる正常な女になるように社会化されたかどうかには関わりなく、家父長制がこれまでも、そしてこれからも、わたしたちを女として扱うということを知っている。トランスセクシュアルは、これと同じ歴史を共有してこなかった。(『セックス・チェンジズ』:184)

 

 レイプとは(......)男権主義者による身体的尊厳の侵害である。トランスセクシュアルはみな女性の身体を人造物におとしめ、それを奪取して我が物にするという形で、女性の身体をレイプする。(......)通常のレイプは力づくだが、このような欺瞞によっても果たされる。(同:504)

 

 レイモンドに名指しで批判されたTS当事者(MTF)のサンディ・ストーンは、次のようにいう。 レイモンドの見解を私は次のように解釈した。トランスセクシュアルとは男性中心主義を標榜する悪の帝国の産物であり、女性の領域を侵害して女性の力を奪取するよう作られているというのだ。》(同:504)

 レイモンドはたんなる「ツイフェミ」のような人ではなく(似ているが…)、トランス差別の書『トランスセクシュアル帝国』は博士論文として執筆されたものだ。この書の推薦文には有名なラディカル・レズビアンフェミニストらが名をつらねている(たとえば、アンドレア・ドウォーキンやメアリー・デイリーなど。また、アドリエンヌ・リッチには謝辞が送られている)(同:174-5)。この書に抗議するかたちで、パトリック・カリフィアは『セックス・チェンジズ』を、サンディ・ストーンは『帝国の逆襲 ——ポスト・トランスセクシュアル宣言』を書いた。

〈分離主義レズビアンフェミニスト

 1979年のジャニス・G・レイモンドの『トランスセクシュアル帝国』の刊行は、すでに繰り広げられていたレズビアン・コミュニティにおけるトランスセクシュアル女性についての討論の炎に油を注ぐ結果をもたらした。実際には、この論争を討論と見なすのは公正とは言いがたい。レズビアンフェミニズムのメディアで十分な発言の場を与えられていたのは、断固としてトランスセクシュアル女性を受け入れることに反対し、絶対に彼女らを女性ともレズビアンともフェミニストとも見なさない遺伝的女性たちだけだったからだ。レイモンドは、反トランスセクシュアルの立場に知的正当性の衣を着せたのである。彼女の本はトランスセクシュアルレズビアンをめぐる言説の古典であり、現在でも入手可能だが、その理由の一つは、この本が多くのフェミニスト、とりわけ分離主義レズビアンフェミニストの意見を代弁し続けているからだ。(同:174)

〈レイモンドのトランスフォビックな言説〉

 レイモンドによると、『トランスセクシュアル帝国』は1977年に博士論文として世に出たのだという。トランスセクシュアルレズビアンフェミニスト・コミュニティから締め出すことは、20年間にわたるレイモンドの有名な主張であり、彼女の生きがいでもある。彼女はただ、トランスセクシュアルについて何事か企んでいるフェミニスト理論家というだけではない。彼女は、トランスセクシュアルの性別適合をもっと難しくするために熱心に働いてきた反トランスセクシュアル活動家でもある。(同:182)

 

…レイモンドは性別適合の現実を否定し、「男性から女性に構築」や「女性から男性に構築」といった言葉遣いをしている。また、彼女はトランスジェンダー女性を「彼」、トランスジェンダー男性を「彼女」として言及する。(同:183)

 

 レイモンドは言う。「トランスセクシュアリズムとは、医療専門家が作り出した最近の現象である」。彼女は読者に、トランスセクシュアルとは傲慢で男性支配的な医療制度がでっち上げた新製品で、騙されやすい世の中を欺くものだ、と説得している。…彼女は読者に、トランスセクシュアルとは非歴史的でまったくの人工物だと思わせようとする。その目的の一つは、トランスセクシュアルに共感を集めないことだが、今ひとつには、トランスセクシュアリティフェミニズムを破壊し、レズビアンフェミニスト・コミュニティを洗脳しようとする悪辣な医師や精神科医の陰謀だ、という彼女の主張を強化することである。(同:183)

 

 レイモンドは真正のジェンダー本質主義者だ。「染色体上の性の変更は生物学的に不可能だ。もし染色体上の性が男性性と女性性の根本的要素と考えるなら、性転換を受けた男性は女性ではない」。性の染色体を最後の審判者と解釈するからこそ、レイモンドはこう言い切れる。「トランスセクシュアルは女性ではない。彼らは逸脱した男性なのである」。(同:183)

 

 このような極端な戦術とぞんざいな思想は、狂信の印だ。『トランスセクシュアル帝国』は学術的な言葉で綴られているが、レイモンドを動機づけているのは、フェミニスト理論の精緻さというより、トランスセクシュアルに対する不合理な怒りと嫌悪だ。レイモンドのトランスフォビアの一症状は、トランスジェンダー女性をどうあっても非難から逃れさせないことだ。(同:197)

 

本質主義」の意図せざる結果

 パトリック・カリフィアは、トランスフォビアを生みだす「分離主義レズビアンフェミニスト」のことを「原理主義フェミニスト」とよぶ。その特徴は、「ジェンダー本質主義・政治的レズビアン・分離主義」の三つが分かちがたく組み合わさったラディカル(過激な)フェミニストである。レイモンドもこの一派に属し、原理主義フェミニストを代表するかたちで『トランスセクシュアル帝国』は出版された。

 原理主義フェミニストが登場するながれをざっくり説明すると、次のようになる。まず、第二派フェミニズムの代表格であるベティ・フリーダンが立ち上げた「全米女性機構(NOW)」(1966年)では、当初、レズビアンフェミニストを「ラベンダー色の脅威」などと称して排除していた。この段階からすでに「女性」は本質化され、「“男と一体化するレズビアン”は真の女性ではない」とされていたのだ。が、排除されていた「ラベンダー色の脅威」は、みずからを「ラディカレズビアン(Radicalesbians)と称するようになり、「女と一体化する女」宣言をおこなう。(河口:34) これが非セクシュアルな「政治的レズビアン」の出発点となる。

 次に、政治的レズビアンの過激な一派は、「男はもはや暴力的で抑圧的で本質的にはどうすることもできない」という理由から、「女は女たちだけの共同体で生きるしかない」という分離主義的立場を鮮明化する。この立場に属するのがレイモンドであり、分離主義レズビアンフェミニスト(原理主義フェミニスト)である。この過激な一派は、レイモンドの先ほどの引用からもわかるように、フリーダンがレズビアンを差別したのと同様に、今度はTSを差別し排除するようになったのだ。

 以上がざっくりとした流れである。この一連の本質主義(〇〇は真の女性ではない)をめぐる意図せざる結果において、結局のところ、「女」というセックス/ジェンダーを本質化することによって、いちばん特をしているのは本質化された「男」(がつくる家父長制社会)ではないだろうか。しかもそこには、「男」が画策したわけでもなく、勝手にフェミニストの側で分断統治がなされるという皮肉がある。この皮肉な本質主義ゲームの巻きぞえ被害をくっているのがTSである。

〈分離主義と本質主義
…レイモンドは、男性と女性は根本的に違う生き物である、という想定に基づくフェミニスト流派の一員である。…男性はその本性において、抑圧的で暴力的で、人を物のように扱い、無神経で性倒錯的、そして支配的であると決めつけられている。…女性は、本質的に平等主義者で、養育的・創造的で、高度な精神性を持ち、非暴力的で、肉欲や性的欲望よりも愛情ややさしさによって刺激を受けるとされている。

 この種のフェミニズムは、女性の自由のための闘争を、わたしたち自身を男性が支配し管理する領域から分離し、男性や男らしさの害悪を取り除く決死の闘いと見なしている。このアプローチは、女性の解放を、現在、男性が独占している特権や資産を再配分することで勝ち取れるものとは考えない。人類のほぼ半数を占める女性を、平和・正義・平等の中で暮らすために、ただ男性の権力から逃げ出すことだけを必要とするものと見なしている。…男性に対しても変化を求めるが、フェミニスト原理主義ジェンダー本質主義の考えでは、それは不可能と見なされている。(同:175)

本質主義者の「排除」と「均質化」〉

 興味深いことに、TS以外でTSを言説化しようとする人たちのうち、「男」の場合は往々にして、医学的処置をつうじて最終的には「性別」を変えようとする医学制度の内部の人間であることが多く、「女」の場合は、女性蔑視の性体制を打破しようとするフェミニストレズビアン・アクティヴィストであることが多いようだ。前者は身体の二元論を手放さず、後者は社会的な性差別の廃絶に重点を置き、自分たちの解放闘争が、TSのような「人工的女」によって「陵辱される」ことを嫌悪する。ちょうどNOW(全米女性機構)が最初レズビアンを排斥したように。(竹村 2013:56-7)

〈「純粋な身体」への固執

 それにしても、フェミニストのレイモンドが語るTSフォビックな言葉は、まるで彼女が嫌う家父長制まっただなかの男の言葉のようだ。どちらにも共通するのは、「女の身体」が純粋な形で存在する、という主張である。だが不思議なことに、「純粋さ」への固執という点では、TSもこれを共有している。「女の身体」をめぐっては、それを本質化したいセクシスト、それを解放の根拠にしたいフェミニスト、それを獲得したいMTFが、「純粋な身体」という人類未到の高峰に向かって、我先にと駆け登っているようだ。(竹村 2013:57)

 

「ポスト・トランスセクシュアル」宣言

 サンディ・ストーンは、レイモンドの『トランスセクシュアル帝国』に対する応答(再批判)するかたちで論文『帝国の逆襲 ——ポスト・トランスセクシュアル宣言』(1987)を発表した。*2

 内容的にはレイモンドに対する個別的な批判というよりは、TSの新しい生き方を提起する未来へ向けた提言的、創造的な論文になっている。眼目は「パス至上主義」を批判すること、そして「TSはパスするのをやめよう」というポスト・トランスセクシュアル宣言にある。

〈ポスト・トランスセクシュアル宣言〉

 トランスセクシュアリズムの本質はパスすることにある。パスしているトランスセクシュアルは、「ジャンルを混合してはならない。私はジャンルを混合しない」というデリダの規範に従っている。だがここで私がトランスセクシュアルに言いたいのは、パスをやめ、「読まれる」方を意識的に選ぼう、そして、自分で自分を声を出して読んでいこう、ということなのだ。…そして、(あえてもう一度言わせてもらうが)ポスト・トランスセクシュアルになろう。(『セックス・チェンジズ』:526)

 

 サンディ・ストーンが「パスする」ことに批判的なのは、クィア理論の脱アイデンティティ論に依拠しているからである。パスする基準というものが、性別二元論的で本質主義的な「男/女」であるなら、みずからを苦しめている批判すべき対象(ジェンダー規範)を逆に強化してしまうのではないか。あるいは、みずからの過去を消し去ってしまうのではないか。人間のクィア存在としての多様性、多義性、多元性、混雑性を否定することにはならないか…。そのような問題提起が含まれている。

〈パスすること=「正常な」人々の間に紛れ込むこと〉

 トランスセクシュアルにとって最大の目標は、彼/彼女自身を消し去り、できるだけ早く「正常な」人々の間に紛れ込むことなのだ。…これによって社会に受け入れられはするものの、実体験の複雑さと多義性をありのままに表現する能力を喪失してしまう。…実際に生きてきた経験が、旧態依然とした社会関係を支える特定の物語にすりかえられる。(同:520)

〈パスとは混在の否定〉

 トランスセクシュアルがなしうる精一杯のこと、成功の鍵を握るものは「通用(パス)する」ことである。パスするというのは要するに、自ら選択したジェンダーでうまく生きること、そのジェンダーの「自然な」一員として受け入れられることである。パスとは混在の否定であって、以前の性役割を消し去り、もっともらしい過去を構築することに他ならない。…パスを目指す過程において、トランスセクシュアルと法医学/心理学機構が共謀し、トランスセクシュアルの身体に潜む「相互テクスト的」な生き方の可能性を締め出していることを、ここで強調しておきたい。(同:522) *3

 

 訳者の溝口彰子さんがあとがきで分かりやすく述べている。サンディ・ストーンが指摘しているパス至上主義批判は以下の後半部分に関係がある。

〈サンディ・ストーンへ送ったメール〉 

 日本におけるトランスセクシュアルをめぐる状況は過去十年ほどの間で劇的に変化しました。この数年で、GID治療は合法化され、MTFTSの政治家が誕生し、条件つきながら戸籍上の性別記載を変更することも可能になりました。これらはすべて『良い』ことですが、一方で、一般的言説の次元で、トランスセクシュアルが語られる時に、異性愛規範を強化し、ジェンダー二元論を強化する機能を果たすことが少なくありません。私はレズビアン・アクティビストとして、最終的にレズビアンというカテゴリーが消滅することになろうともジェンダー二元論から離れることが必要だと考えていますし、私たちひとりひとりが、それぞれの歴史を忘れてはいけないとも考えています。…(同:538)

ジェンダー規範と「正しい身体」〉

 ジュディス・シャピロはこう指摘する。「トランスセクシュアルが性器にこだわることを、強迫観念だとかフェティシズムだと診断したがる人たちに言うが、実のところトランスセクシュアルはただ、ジェンダー割り当てにおける世間一般の文化的基準に従っているだけなのだ」…(同:523)

 

 西洋において身体と主体を裏づけるのは二項対立的で男性中心主義的な起源神話なのだから、ジェンダー化された主体にとって「正しい」身体は一つしかない。それ以外はみな間違った身体なのである。(同:523)

〈「パス至上主義」批判〉

 パスしているトランスセクシュアルは、総体化された一元的なアイデンティティを作り上げ、身体と主体が交錯する相互テクスト性を捨て去ることによって、あるがままの人間関係を築き上げる道を閉ざしてきたという事実に、フタをしたままでいられるらしい。パス至上主義に従い、「読まれる」ことのもつ不安定化の力を否定すれば、人との関係は偽りから始まることになる。もちろん、パスはトランスセクシュアルに限った話ではない。白人として通用するほど肌の色が薄い人、クローゼットに隠れているゲイやレズビアン、おのれの不協和音を解決するためにとりあえず不可視になることを選んだ人々には、身に覚えがあるだろう。要するに私は、ゲイ、レズビアン、非白人が推し進めてきた連帯の理論を繰り返しているだけなのだ。(同:525)

 

問題は「パス至上主義」(性別二元論)

 前々回に説明したのだが、クィア理論家は「異性愛主義」という規範モデルや「普通」という規範モデルを批判する。同一化の原理(アイデンティティ)は、それら規範モデルを本質化し、強化する働きをもつため、クィア理論は脱アイデンティティをめざす。だから、フェミニズムの最終目的も、性差を前提としたジェンダー平等ではなく、性差そのものの廃絶に設定される。

 わたしはサンディ・ストーンのポスト・トランスセクシュアル宣言は重要だと思うけど、野宮亜紀さんが当事者目線で指摘した「当事者の人権の回復とQOLの改善」が何よりもまず優先されなければならないと思っている。まずは、優先順位と先後関係をきっちり明確にしたうえで、クィア理論的な言説は述べられなければならないと思う。そのほうが効果を発揮するはずだ。だから、TS当事者の「パスしたい」という願いや希望は当然のことながら尊重されなければならない。しかし、非当事者側からの「ちゃんとパスするなら「男/女」と認めてやってもよい」というパス至上主義は批判しなければならない。

 したがって、問題にすべきは当事者の「パスしたい」という思いや願いのほうではなく、非当事者側=マジョリティ社会が突きつける性別二元論的ジェンダー規範(パス至上主義)のほうである。これは、異性愛主義という規範を批判対象にし、異性愛異性愛者を批判の対象から除外するのと同じである。クィア理論家からしたらこれは矛盾するのだろ。しかし、いきなりポスト・トランスセクシュアル宣言をめざすのはむずかしい。そこには段階的にすすむしかない。

 

性別二元論は社会の偏向性

 まず、「当事者の人権の回復とQOLの改善」が最優先である。それを確認したうえで、竹村和子さんの社会構築主義(本質主義批判)を最後にとりあげたい。竹村和子さんもサンディ・ストーン同様に、脱アイデンティティ論者でありクィア理論家である。竹村さんが一貫して主張するのは「純粋な男の身体、純粋な女の身体など存在しない。ゆえに、すべての人間はTSである」というものだ。本質的なジェンダー二元論的「男/女」など実在しないのだから、ひとはクィア連続体のどこかに位置する混雑的な存在であるほかないのである。そのような混雑的な存在であることを許さないパス至上主義は、TS当事者を(医療的処置前も後も、医療的処置をしなくても)、あるいはすべてのひとを、苦しめることになる。

〈TSとストレートの線引は不可能〉

…TSのセクシュアリティは、異性愛も含めてあらゆるセクシュアリティの幻影性、過程性(in-processness)、そして相関性のなかにあるものとして位置づけされるべきであり、TSとストレート、またTSとその他のクィアとのあいだに線引きすることなど、じつは不可能ではないだろうか。(竹村 2013:45-6)

〈TSの局所化と再差別化〉

 見慣れぬものは、「おぞましきもの」「存在してはいけないもの」と考えられがちだ。しかし見慣れぬか、見慣れないかは、社会的コードによって決定されている。そしてそのコードは、性に関わることのみならず、さまざまな社会的場面で、時代とともにすでに移り変わっていることをわたしたちは知っている。TSを性の二分法のなかに閉じこめること、TSの問題をTSだけの問題として扱うことは、それがどのようにTS「のため」であるように見えたとしても、TSを局所化し、ひいては再差別化し、それによってTSが意識・無意識にかかわらず社会に対して投げかけている問題系をふたたび閉じてしまうことになるのではないだろうか。(竹村 2013:65)

〈問題は性別二元論〉

 では、ここで問題になるのは何か。それは、医学的処置の「まえ」のTSを「生物学的に完全に正常である」とみなす性別二元論的な医学言説が、医学的処置の「あと」においてもTSが依然として経験せざるをえない差別・抑圧に、連動することである。正常/異常、男の身体/女の身体というくっきりとした峻別こそが、医学的処置以前のTSを苦しめ…処置以降のTSにさえ、孤立感や被差別感、社会的不利益を与えているのである。(竹村2013:51-2)

〈性別二元論は社会の偏向性〉

 TSは、処置前も処置後も、連続して性別二元論を攪乱する存在であり、それゆえに二元論を温存する社会においてTSが抱える問題は、医学的処置がなされて以降も、解決・解消されるとは言えない。むしろTSが、処置前のみならず処置後も引き続いて社会に投げかけている問題こそ、TSの偏向性というよりも、性別二元論の社会の偏向性、そのゆえにストレートや「正常な」性的身体と自認する者をさえ、じつは隠微に抑圧している構造を、明るみに引き出すのではないだろうか。(竹村 2013:52)

〈すべての人はトランスセクシュアルである〉

「すべての人はトランスセクシュアルである」と言うと、TSからも、それ以外からも、反発の声があがるだろう。TSからは、TSが具体的、現実的に被る社会的・心理的困難さを平準化し、あるいは比喩化するという批判が出されるかもしれない。…他方、TSでない人たちからは、TSフォビアに溢れた反応が寄せられるかもしれない。…しかしそのうえで、ここで「すべての人はトランスセクシュアルである」と言うのには理由がある。すべての人は、成人でさえも、それぞれ「男」や「女」や「なにか別の性」の身体になっている、あるいは移っている途上だと思うからだ

 自然界に存在する性的身体のヴァリエーションが、インターセックスに対する医学的見解の歴史のなかで男女に二極化されていった…しかし性的身体のヴァリエーションは、染色体や性ホルモンといった生物学上の事柄だけではなく、そういった生物学的事項の何を、どのように、どこまで具体的身体として受けとめて、社会的に生きていくかという認識上の問題でもある。(竹村 2013:53-4)

〈テクストに終わりはない〉

 人生のさまざまな局面で、人は「男の身体」や「女の身体」になっていき、また「男の身体」や「女の身体」から離れていく。そして、もしも身体が男女の二極に割り振られていない社会であれば、人はさまざまなかたちの身体になっていったり、そこから離れていったりするだろう。つまり人間にとって身体とは、「そこにつねにある」所与のものではなく、それに仮託された文化的・社会的な意味の織物であり、サンディ・ストーンが言うように、身体として読まれ、書き込まれるテクストである。書かれ、読まれるテクストに終わりはない。またデリダ的意味で、始まりもない。(竹村 2013:55-6)

〈純粋な男、純粋な女などいない〉

 TSは、一義的には「男」から「女」に、「女」から「男」になりたい人・なるための施術を選んだ人を意味する。けれどもTS自身が主張しているように、TSに当初付けられた身体の性別は「間違っている」。TSは、元「男」でもないし、元「女」でもない。TSは医学的処置の前も、また医学的処置の選択をしなくても、二極化された性を「渡っている」(トランスしている)人たちだ。そしてTSが医学的処置によって獲得する身体も、「純粋な女」「純粋な男」ではない――たとえそう望んだとしても。なぜなら、ストレートも含めて、「純粋な女」「純粋な男」という身体は、生物学の物語以外ではありえないからだ。TSは、医学的処置の前も後も、医学的処置のどんな段階でも、また医学的処置を選択しなくても、いつもTSであり、TSでしかない。しかしこのことは、「普通の女」や「普通の男」とTSを区別・差別していることではない。なぜなら性的身体は、すべての人にとってつねに過程であり、「渡って(トランス)」いる状況であるからだ。「TSになるTS」という畳語的プロセスは、すべての性的身体のなかに潜んでいるトランスセクシュアリティを浮き彫りにする。(竹村 2013:59)

 

 

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参考文献

 ●パトリック・カリフィア (石倉由,吉池祥子訳)『セックス・チェンジズ——トランスジェンダー政治学(作品社,2005)

・サンディ・ストーン(レズビアン小説翻訳ワークショップ訳)「帝国の逆襲 ー ポスト・トランスセクシュアル宣言」(1987)−[訳者あとがきにかえて...溝口彰子]

・野宮亜紀「日本における「性同一性障害」をめぐる動きとトランスジェンダーの当事者運動」——Trans-Net Japan(TSとTGを支える人々の会)の活動史から

竹村和子「セックス・チェンジズ」は性転換でも、性別適合でもない——解説にかえて[→竹村(2013)所収]

セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

 

 

 ●竹村和子『境界を攪乱するー性・生・暴力』(岩波書店 2013)

境界を攪乱する――性・生・暴力

境界を攪乱する――性・生・暴力

 

 

上野千鶴子,竹村和子 ほか『ラディカルに語れば...−上野千鶴子対談集』(平凡社 2001)

ラディカルに語れば…―上野千鶴子対談集

ラディカルに語れば…―上野千鶴子対談集

 

  

●河口和也『クイア・スタディーズ』(岩波書店 2003) 

クイア・スタディーズ (思考のフロンティア)

クイア・スタディーズ (思考のフロンティア)

 

 

*1:パトリック・カリフィアについて

  トランスジェンダー・アクティヴィスト、理論家、レズビアンSM作家。かつては、自らを「サディスト」「レズビアン」「フェミニスト」であると述べていた。本書『セックス・チェンジズ』第一版(1997年)を執筆した時点では、パット(pat)・カリフィアの名前でレズビアンの立場を取っていたが、性適合手術を受け、本書第二版(2003年)では、パトリック・カリフィアと著者名を変え、FTMトランスセクシュアルの立場を取るにいたっている。 》(『セックス・チェンジズ』より)

 じつはカリフィア自身、元トランスフォビアだった。以下のように告白している。

 皮肉なことだが、わたし自身の個人史にも、レイモンドやミロのような深いトランスフォビアの時期があった。70年代中頃にサンフランシスコにやって来た時、わたしは分離主義者だった。わたしは成人前にカミングアウトし、話しかけてくれようとしたダイクはひと握りのレズビアンフェミニスト分離主義者だけだった。(同:212-3)

…わたしが自分の固定観念に疑問を持つようになったもう一つのきっかけとして、レイモンドの著書を加えておかないわけにはいかない。この著書と初めて出会った時、わたしは隅から隅まで読み込んだ。わたしの頭の中にあったことが全部書いてあった。しかし紙の上に印刷されると、それはとても醜いものだった。…/このことは今でも間違っていると思うし、それが本書を執筆する重要な動機の一つになった。(同:218)

 

*2: サンディ・ストーンについて

 トランスジェンダー・アクティヴィスト、映像作家、ロックの音楽エンジニア、神経学学者、社会学者、サイエンス・フィクション作家、パフォーマー…と多彩な肩書を持つ。師は『猿と女とサイボーグ』のダナ・ハラウェイ。

 

*3:「相互テクスト的」とは… 

「テクスチュアリティ」のこと。 テクスト性。テクストの語源は「織物 (texture)」であるが、テクスチュアリティとは、テクストが織物のように記号が織り合って成立する差異システムにほかならないこと、すなわち、テキストの脱中心的な多元的複数性を示す言葉である。したがって、テクストは、読者の「読み」によって、さまざまに解釈=脱構築に向かって開かれている。》(上野 2001:179-180)》