おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「日常生活に潜むリバタリアニズム」— 再分配政策(生存権保障)の正当性・社会保障のあり方・分配的正義論(引用メモ)

 「日常生活に潜むリバタリアニズム(=「わたしが働いて得たお金はすべてわたしのものだ」というロジック)を批判する主張(引用メモ)を紹介する。批判対象は主にロック的所有権論=ノージックリバタリアニズムである。具体的には、租税の正義論・分配的正義論にもとづく再分配政策(生存権保障)の正当性根拠、「人」ではなく「現象」に対処するという社会保障のあり方、サンデルの「生の被贈与性」*1ロールズ正義論の核心部分(岩田 1994)についての引用である。

 

それは、ほんとうに、あなたのお金なのか?

 以下では「わたしが働いて得た報酬(お金)はすべてわたしのものだ」というロジックを批判している。まず、「所有権は自然な関係ではない」(たんなる慣習にすぎない)という点の確認。次に、「わたしの功績=わたしへの報酬」という貢献原理に対する批判である。

 『正義の倫理』(ピーター・シンガーより

所有権は、ある個人とある物事との自然な関係ではない。それは、社会的関係であり、法制度をもった社会においては、それは法律によって定義される。(p19) 

 ノーベル賞を受賞した経済学者であるハーバート・サイモンは、豊かな国々において、個々人の努力ではなく、テクノロジーや組織および政府の技量を含む社会資本に由来する所得の割合を計算した。豊かな国々と貧しい国々とのあいだには、個人の努力の違いによっては説明されえない平均所得の大きな違いがあることをみて、彼は、アメリカ合衆国のような豊かな社会における所得の少なくとも90パーセントは、社会資本によってもたらされているだろうと述べている。そして、彼は、豊かな社会について言えば、「したがって、道徳的な観点から言って、われわれは、その富をほんとうの所有者に還元するために、90パーセントの税率の均一課税を提案してもさしつかえない」と論じている。…豊かな国々に住む人びとは、社会資本の助けを借りない個人の生産性だけでは、彼らの所得のほんの一部分しか稼ぐことはできない…

 

…連邦最高裁の偉大な判事であったオリバー・ウェンデル・ホームズは、しばしば、「税金は文明にたいしてあなた方が支払う対価である」と述べている…そして、彼は、文明なしにはあなた方はお金をもてないだろうと付け加えたかもしれない。とりわけ、複雑な近代社会においては、もし、政府も税金もなければ、あなたの財産と認められるものを確定する方法はない。(p22-3)

 

「租税の正義」と所有権

 以下の引用では主に「わたしが働いて得たお金(所得)はわたしものだ」と言いうるための条件(正当性)を示している。

 まず、課税前所得(税金が引かれる前の所得)には「わたしが稼いだお金はわたしのものだ」と言いうるための正当性はない。なぜなら、「(1) 租税なくして政府なし、(2) 政府なくして市場なし、(3) 市場なくして所得なし」だからである。(1から3の順番が重要)。「わたしが稼いだお金」というのは、政府が支えている市場があってはじめて所有可能となる。この政府というのは租税によって支えられている。

「お金を稼ぐゲーム」というのは「租税→政府」というゲーム盤(プラットフォーム)があってこそ可能になる。したがって、プラットフォームへのまっとうな対価(税金)を支払わない場合はフリーライダーとなる(したがって「不当な利益」を得ていることになる)

 また、一番重要な点は、「...彼らが権原をもちうるものすべては、正当な課税によって支えられた正当なシステムのもとで、課税後に残るものである」という部分である。つまり、課税後の所得であったとしても、その所得が「不当なシステム」によってもたらされたものならそこに権原(所有権を主張できる正当性)はないということになる。

 もし、政府の再分配政策の不徹底により生存権がしっかりと保障されていないのなら、あなたが働いて得た所得は「不当な課税による不当なシステム」によって得た「不当な利益」ということになる。*2 生存権保障を可能にする再分配政策の正当性は、その不当性の是正を根拠とするのであり、「弱者を助けてやる」という施しの思想にあるのではない。(この点にかんしては『税と正義』より『貧困の放置は罪なのか』のほうがわかりやすい)

 

『税と正義』(マーフィー/ネーゲル)より

…私的所有は部分的に租税システムによって定義される法的な慣習(convention)である。...

 所有の本質が慣習であるという性格は、全く明白であるが容易に忘れ去られてしまうものである。私たちは全員、所有権の獲得、交換、譲渡を統制する精巧に組み立てられた法システムのもとに生まれ、所有というものがこの世界で最も自然なものであると思うようになる。しかし、私たちが給料を稼ぎ、家を所有し、銀行口座に預金し、老後の蓄えをし、個人的な財産を保有する現代経済、そして私たちが自分の資源を消費や投資のために使う現代経済、それは租税によって支えられた政府が提供する枠組みなしには存立することができないであろう。…私たちは、政府の介入に先立って、人々がそもそも所有しているものは何か、何が彼らのものか、といった所有物のある初期的な配分を所与のものと考えたり、あるいは正当化の必要のないものとか批判的は評価に服さないものと考えることから出発することはできない。(p6-7) 

…正当な功績という考えに基礎をおいた自由至上主義に従えば、市場は生産上の貢献と他者にとっての価値に対して、人々に正当な功績があるものを報酬として与える。

…正当な功績という概念は責任という概念を伴う。どんなやり方でも責任をもたない結果にたいして正当な功績があると言うことはできない。それゆえ、市場の結果が遺伝的、医学的、社会的(相続を含む)運によって決定されるならば、それらは誰が説明しても、道徳的に正当な功績ではない。この種の運が、資本主義経済で人がどれくらいうまくやっていけるかを少なくとも部分的に決定することを誰もが否定しないから、単純で無限定な正当な功績という概念に基礎をもつ自由至上主義は、即座に拒絶される。(p34-5)

政府なしでは市場は存在しないし、租税なしでは政府は存在しない。そして、どんなタイプの市場が存在するかは、政府が作らなければならない法と政策決定とに依存している。租税によって支えられる法体系がなければ、貨幣、銀行、企業、証券取引所、特許、あるいは現代の市場経済ーー所得と富のほとんどすべての現代的形態の存在を可能とする制度ーーは存在しえないのである。

 それゆえ、人々が課税前所得にたいして何らかの種類の権原をもつべきだと主張することは論理的に不可能なのである。彼らが権原をもちうるものすべては、正当な課税によって支えられた正当なシステムのもとで、課税後に残るものであるーー そして、このことが示しているのは、課税前所得に関連づけることで租税の正当性を評価することはできないということである。その代わりに、私たちは課税後所得を生み出す政治システムと経済システム、そしてそこにはそのシステムの本質的な部分である租税が含まれるが、そういったシステムの正当性に関係づけることで、課税後所得の正当性を評価しなければならない。租税と所有権との論理的な優先順位は自由至上主義が想定しているものでは逆転してしまっている。(p35-6) 

…日常感覚レベルでは…自分が稼いだものは制限なく自分に帰属すると感じがちなのだ。そして、それはその金に何が生じようとも、道徳的に言って完全に自分のものだという強い感覚である。…実際すべての課税は自分たちに帰属しているもとを取り上げることだという考えにまですぐに至るのである。(p38)

おそらく人々は不正に利益を得ることよりも不当に損害を被ることを懸念するから、自らの経済的成功に貢献した他の要因のいくつかがいかなる意味でも自らの責任にかかるものではなく、それゆえ、それらが正当な功績を主張できない利益を生み出したと言いうるという事実をいともたやすく無視することができる。…  … だから、私たちが市場で稼いだものにたいして何の制約もない道徳的権原をもっており、より多い市場からの見返りはある意味で報酬と見なされるという無反省な考えは、資本主義経済への参加者の日常的感覚の中では自然に生じうるのである。(p39) 

...課税前所得に自明な所有権があるという考えは意味をもたないーー所得とは税によって支えられた政府なしには存在しえないのだ。帳簿上の数字を除けば、私たち各々が最初から「持っていて」、政府が私たちから公平に取り上げなければならない課税前所得という実体はない。(p40)

 

『貧困の放置は罪なのか』(伊藤恭彦)より

「日常生活に潜むリバタリアニズムの根底には所有に対する次の二つの見方がある。一つは自己労働を投下して獲得した財に対して、投下した当人は正当な権原(正当な資格)をもつというものだ(簡単に言えば「働いた成果は全部自分のものであり、それに対しては所有権がある」という見方だ)。もう一つは財の獲得は自己の能力行使の結果であり、能力を行使したという功績の結果として財を得たというものだ。この二つの考え方は理論的には異なるが、単純化のために、ここでは両者をまとめて「自己の能力は自分のものであり、それを行使した結果得た財に対して、その人は正当な権原をもち、それは能力発揮の正当な功績(desert)と見なされる」としておく。そしてこの考えは自由市場における自発的交換の連鎖によってできあがった財の分配も正しいと考える市場観に拡張される。(p60)

 

 一人一人が自分の能力を行使して獲得した財と、自発的交換によって移転した財からなる財の分配結果は正しいという考え方は二つの点で誤っている。第一に自己労働に基づく自己所有という考えは、各人の労働がそもそも可能となるためには、それを支える社会制度が不可欠であるという決定的な問題を考慮しておらず、その意味で倫理的基準とはならない。第二にこの考え方は、労働と交換の背後にある個人間の差異を真剣に考えていない点でも倫理的基準とはならない(p60)

私的労働は社会的労働としてのみ実現している…  私的労働が社会的労働としてのみ実現するということの意味は次の三点にある。第一は個々人の労働が生み出した価値は社会的連関の中で実現しているということである。第二は、社会的連関の中におかれた労働が生み出した価値は、資本主義システムの下では資本という形態をとっている点だ。したがって、第三は「私が生み出したもの」は他者が生み出したものと分離することが不可能な点だ。資本主義システムにおける賃金労働者が労働の対価として得ている賃金の価値は、個人が生み出した価値と等価なものではなく、労働力商品の価格にすぎない。そして、その価格は現実には労使間の力関係だけでなく、政府が行う労働政策によって左右される。

 このような現実の労働のあり方を踏まえるならば、労働と所有についての評価は、労働が生み出している社会システム全体の評価と切り離すことはできないのである。つまり、社会システム形成に対する私の貢献が公正に評価されているかどうかが問題なのである。この評価のポイントは、私の貢献(私が生み出した価値)全てが私に帰属するべきだということではなく、私が生み出した価値が、私が生き続け、貢献=労働をし続けるために必要な社会システムの維持のためのものと、私の取り分とに公正に分割されているか否かにある。(p62)

「私のものは私のもの」という素朴な直感は、私の生み出した価値が私に直接帰属しないという現実を忘却するか、あるいは搾取と租税の全面禁止という実現不可能な要求をすることになる。つまり、価値を生み出すという行為は社会システムの中でしか実践されないという当たり前の現実を忘却しているのである。私の所有の正当性は社会システム全体の評価とは切り離せない。正当な社会システムの目標の内実に応じて、私の課税前所得が増えることも減ることもある(企業の正当な「搾取」率に応じて)。また私の課税後所得が増えることも減ることもある(政府の課す正当な税率に応じて)。私が私の正当な所有権を主張できるのは、公正な社会システムーーもちろん、公正な社会システムとは何かという問題は論争的であるがーーに対する対価を支払った後で私が手にするものなのである。… 何が私のものと言えるのかということは社会システムから切り離しては判断できないこと、社会システムが公正であり、その公正なシステムの維持に貢献している限り、私が手にしているものは公正な取り分であると言えること、この主張は所有物の自発的な交換が唯一正しい分配装置であるとのリバタリアン的見解も棄却する。(p64−5)

 分配的正義が特に重視するのは市場が個人の福祉に及ぼす機能/逆機能である。市場は考えられる最も効率的な財の分配システムであり、高い生産性を実現するシステムでもある。市場は各人の利己心のみを基礎として、その利己心を充足させる競争システムである。この競争システムをさらに進んで、各人の責任と功績が正当に評価される道徳的なものと捉えようとする人もいるが、それは誤っている。

 第一に、市場は任意参加の競争ではない。町内のマラソン大会のように参加しても参加しなくてもよいといった競争ではない。むしろ、全員に参加を強制するものだ。労働市場を通して自分の労働力を売らなくては、誰も生活のための賃金を得ることはできない。生活に必要な財も市場を通してしか購入できない。市場システムに参加しないということは、現代社会では不可能である。

 第二に、市場は競争システムであるから、当然、勝者と敗者が出現する。そして競争の継続は不可避的に格差を生みだす。格差が生じるのは必然である。問題は敗者の敗北の程度を市場は何も決定しない点にある。町内マラソン大会であれば、競技終了後、勝者も敗者も共に健闘を祝し、全員が幸福な気持ちで帰宅する(もちろん後味の悪いレースもありうるが)。市場競争はマラソン大会とは異なる。敗者の敗北の程度に限界は設定されておらず、場合によっては死に至る敗北もありうる。つまり、種々の事情から市場でうまく立ちまわることができず敗北した結果、生活ができなくなる人が必ず現れる。したがって、市場競争のこの暴力的帰結を是正する何らかの仕組みや制度が求められる。言うまでもなく、このような仕組みや制度の立案は簡単ではない。市場競争での勝敗を決めるのは、偶発的事件だけではなく、そもそも各人が同じ能力、同じ才能、同じ動機(やる気)をもっていない点にある。このような個人間の差異を真剣に考え、その道徳的評価を前提にしなければ、市場の暴力的帰結を是正する制度は構想できない。…通常、…政府の行う再分配政策によって果たされ、その基準が分配的正義と考えられる。

 分配的正義は単なる再分配政策の指針ではない。それは、社会的富の公正な分割を決定するための指針であり、市場がそのような分割を行えない場合に、政府政策の実行を促すのである。分配的正義は社会的富の産出過程と富の分割さらには分割の目的意識的な矯正までを射程としている。分配的正義の構想に従って社会的富が公正に分割されている場合、その場合にのみ、個人はその分割の結果、手元に残るものに正当な所有権をもつ。(p67−8)

社会保障のあり方

『「弱者」の哲学』(竹内章郎)より

社会保障が比較的進んだスウェーデンでは、貧しい人や「障害」をもった人々やその集団を社会保障の「対象」とすることを、非近代的なものとして避けるようになっている。一見したところは、こうした人々や集団を直接「対象」にして、当初からそうした人々や集団の「ためになる」社会保障をめざすことは、きわめて望ましいことのように思える。しかし、人や集団を直接対象とした場合、日本での生活保護制度の適用がまさに示しているように、保護を受ける人々は、しばしば、プライヴァシーまで犯されるような「取り調べ」まがいの「調査」を受けなくてはならず、そのために保護受給を諦めさせられて餓死する事態すら生じる。そうまでならなくとも、社会保障を受給する人々は、そうでない人々と比べられて特異視、ときには蔑視されかねない。さらには、同じく「障害者」だといわれても、まさに「個性」や「障害」に違いのある人たちであるにもかかわらず、そうした保障と引き換えに、一緒くたにされ、個々人の人間としてではなく「障害者」としてしか見られない、ということも生じやすくなる。…もちろん、こうした問題は、社会保障などが真の権利になっておらず、恩恵的慈恵的なものにとどまっているがゆえのことで、問題は、権利が真に位置づくか否かだ、という議論もあろう。しかし、そうであるにしても、真に権利として位置づけるために必要なことこそ、考えるべきだろう。(p174−5)

(近代的な社会保障の在り方)…それは、「人」を直接の対象にするのではなく、貧しさや「障害(損傷や能力不全)」や「高齢」といったさまざまな事柄と、これらによってもたらされる生活の継続や維持にとっての困難という「現象」を、その対象とする、ということである社会保障の対象を「人」ではなく「人」と分離された「現象」にすれば、右であげた「人」を対象にする場合の問題点がかなり回避されるだけではない。自らの労働力以外にはたいした資産ももたない圧倒的多数の庶民にとって、貧しさや高齢をともなう生活困難や、「障害(損傷や能力不全)」による生活困難はいつでも誰にでも生じうることである。だから、そうした「現象」を社会保障の対象にする、ということは、そもそも、すべての人をあらかじめ社会保障の対象としてとらえておき、生活困難をもたらす「現象」が発生した場合には、ただちにこれに対応することにつながる。…  …「現象」のみを対象にすれば、原理的には、この「現象」が「評価」されるだけであり、諸個人おのおのに対する個人還元的な「評価」(「障害」が重い人だとか等々の、「能力の劣る」人という評価)を行なう必要がない。この点で、能力主義をはじめとする「弱者」排除における個人還元主義が入り込む余地がほとんどなくなる。(p175-6) 

 

・サンデル

 『完全な人間を目指さなくてもよい理由』(マイケル・サンデル)より

 生の被贈与性(giftedness of life)を承認するということは、われわれが自らの才能や能力の発達・行使のためにどれだけ労力を払ったとしても、それらは完全にはわれわれ自身のおこないに由来してもいなければ、完全にわれわれ自身のものですらないということを承認することである。(p30)

 

 結局のところ、どうして成功者は、社会のもっとも恵まれない人々に対して、何らかの責務を負わなければならないのか。この問いに対するもっとも説得力のあるひとつの回答は、被贈与性の観念に依拠するところが大きい。成功者に繁栄をもたらした生来の才能は、自分自身のおこないにではなく、遺伝上のめぐり合わせという運のよさに由来している。もしわれわれの遺伝的資質が天賦の才という贈られものにすぎず、われわれが自らの功績を主張できるような偉業などではないとすれば、市場経済の中でそうした遺伝的資質を用いることで獲得された報酬のすべてが自分のものだと考えるのは、誤りであり自惚れである。それゆえ、われわれは、自らには何の落度もないにもかかわらずわれわれと同等の天賦の才には恵まれなかった人々と、この報酬を分かち合う責務を有しているのである。

 このように考えてみると、連帯と被贈与性との結びつきが明らかになる。われわれの天賦の才は偶然なのだという強固な念 ーー 誰一人として自分自身の成功に対する完全な責任を有している者はいないのだという意識 ーー こそが、成功は有徳さの証であり、裕福な人々は貧困な人々よりもいっそう富の享受に値するがゆえに裕福であるのだという独善に似た思い上がりが、能力主義社会の中に醸し出されてくるのを防いでいるのである。(p95−6)

 われわれがなすべきことは、新たに獲得された遺伝学の力を用いて「曲がった人間性の材木」をまっすぐにすることではなく、贈られものや不完全な存在者としての人間の限界に対してよりいっそう包容力のある社会体制・政治体制を創り出せるよう、最大限に努力することなのである。(p102)

 

ロールズ

『倫理の復権-ロールズソクラテスレヴィナス-』(岩田靖夫)より

 …人間の社会はいわば二重の不平等の重荷の下にある。すなわち、一つは自然的な不平等であり、もう一つは人間の作り出した不平等である。後者はたとえば、同じ才能をもつ者でも貧しい階層に生まれついたために、その才能を活動させることができずに終る、というような事態である。このことをなくすために、人びとは富の極端な蓄積を妨げ、教育の機会均等を可能なかぎり拡大するなどして、同じ才能をもつ者が生まれついた時の社会階層にかかわりなくその才能を発揮しうる同じ可能性をもつように、少なくとも意図としては努めてきたであろう。すなわち、このような社会的、歴史的、後天的な差異が、一個の人格にとってはいわれのない差異であるが故に、これを抹消しなければならないという認識である。こうして、ある程度の努力の末に、社会的な偶然の及ぼす力を軽減し、形式的に平等の門戸を開いたとしても、その奥に自然的な差異というどうしようもない差異が控えているのである。この差異を消去することは不可能である。それ故、自然的な自由の体制をそのまま放置すれば、時の経過とともに必然的に富や権力の巨大な不平等が生起してくる。これは、公式的に平等や機会均等の体制を設立したところで、どうすることもできない現実である。この現実に直面してわれわれは、富や権力の配分を自然的な素質の差異に無条件に委ねてしまうのは不正である、と感ぜざるをえない。だがしかし、ここで一体何が不正なのか。この点に関するロールズの考えは、私見によれば次のようにまとめられてよいであろう。われわれが男に生まれたり女に生まれたり、西洋人に生まれたり日本人に生まれたり、生まれつき頭がよかったり悪かったり、力が強かったり弱かったりすることは、当事者にとっては全くの偶然事(contingency)である。この偶然の所与、この自然のくじ運を、全く理由のない出来事として、したがって自分がそれを受けるに値しない(undeserved)出来事として受けとめないならば、そこに不正が成立するのである、と。筆者の理解によれば、この考え方のうちにロールズの全思想の核心がある。なぜなら、人間が様々の自然的差異をもって生まれついてくることが偶然(contingent)であるという認識は、少なくともロールズの言う意味においては、事実認識であるかに見えて実は倫理的決断であるからである。すなわち、天与の才能に居直って、それを当然の事実とうけとめるか、それともそれは当然ではない(換言すれば、自分には本来それが与えられる理由がないから自分はそれに居直れない)とうけとめるかは、単なる所与から出てくることではなく、その人の人生観に由来することがらであるからである。その人生観とは、つきつめて言えば、自分を一番弱い者の立場に置いてみるという決断である。なぜなら、自然のくじ運が本来不当な出来事であるという見方は、くじ運に恵まれなかった者にとってはごく自然な見方であるからである。盲目に生まれついた者、身体障害をうけて生まれついた者、不充分な知力に生まれついた者、あるいはごく些細な弱点をもってこの世に現れた者でさえ、なぜ自分たちがこのような不利益を背負わなければならないかについて、不当の意識をもたぬことはないであろう。すなわち、天与の諸条件の不当性(undeservedness)の意識は弱者の意識なのである。そして、この同じ不当性の意識を、有利な条件を与えられた者もまた、というよりもむしろそのような者こそ、もたねばならない、とロールズは言っているに等しいのである。すなわち、ある幸いの星のもとに生まれついた者が、狂気の縁に立ったニーチェが言い放ったように、なぜこれほど自分は頭がよいのか、なぜこれほど力が強いのか、なぜこれほど美しいのか、と自らに問うたならば、ニーチェの心算とはまったく逆に、これには全く理由のないことが明らかになるのであり、したがって、この理由なき事実を当然のこと(すなわち理由のあること)とうけとめるならば、それは不正であると意識しなければならないということなのである。(p36−8)

 

 

「正義」の倫理―ジョージ・W.ブッシュの善と悪

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貧困の放置は罪なのか――グローバルな正義とコスモポリタニズム

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完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

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倫理の復権―ロールズ・ソクラテス・レヴィナス

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*1: 「生の被贈与性」とは......

 人間の生は「選びえないもの」として「与えられた=贈られた」ものだと捉える価値観・信念。詳しくは [ サンデル 2010 ] 参照のこと。

 

*2: あなたが働いて得た所得は「不当な課税による不当なシステム」によって得た「不当な利益」ということになる......

 これにかんして具体的にいうなら、生活保護制度の捕捉率の低さの問題があげられる。日本の生活保護利用率は人口比で1.6%と非常に低い。捕捉率は約2割であり、受給漏れが80%以上と高い。そして、よく問題視される不正受給の割合は保護費の0.4%弱にすぎない。受給漏れが80%以上あるということは、それだけ生存権が保障されていないということになる。つまりこれは、受給漏れ80%ぶんに充てられるはずだった税金が「不正に」働いているひとの所得になってしまっており、そのぶん「不当な利益」になっているのだ。分配的正義論の立場にたつなら、不正受給のたった0.4%よりも、未捕捉率80%の「不当な利益」の方がはるかに問題なのである。(参考:日弁連「データで見る生活保護制度の今」PDFファイル