おんざまゆげ

@スラッカーの思想

公助が必要な理由——『イラクの子 ふたりのアリの悲劇』からわかった支援格差の現実と「日本社会の劣等性」——

 イラク戦争の最中、米軍の爆撃により運命を変えられたふたりの子ども。偶然にもアリという同じ名前を持ち、同じ病院で治療を受けたふたりの子どもの惨劇を通して、イラク戦争が罪のない一般のイラク人にもたらした辛い現実を描いたドキュメンタリー。

 

 バグダッドに近いザファラニヤに住むアリ・アバス君。ある早朝、アメリカ軍の爆撃により家は全壊、一家はバグダッドの病院に運ばれたがアリ・アバスくん以外は全員亡くなった。遺体は人間ではなく肉の断片でしかなかったという。アリ・アバスくんも体に大火傷を負い、両腕切断という大手術を受けた。しかしバグダッドが包囲され薬品が不足して治療もできない病院で、術後の感染死が心配される。世界のマスコミとイラクの市民たちが米軍に圧力をかけた結果、クウェートの病院に移送され、治療を受けられることになった。アリ・アバスくんの痛々しい映像が世界で報じられ、各国から支援のメッセージや義援金が送られてきた。そして、アリ・アバスくんは何千もの一般イラク人が体験している悲劇の象徴となった。

 

 もう一人のアリは、バグダッド郊外の農村に住むアリ・フセインくん。爆撃で家族7人が殺され、アリ・フセインくんは九死に一生は得たものの、顔面に原型を留めないほどの大怪我を負った。おじであるカリームが、同じ町にある米軍基地にアリ・フセインくんを運び、やっとのことで米軍機でアリ・アバスくんが入院しているクウェートの病院に運ばれる。そこで顔面の整形手術が行なわれたが、アリ・フセインくんの削ぎ取られた鼻は元に戻らない。片目も失ってしまった彼の将来をカリームは心から心配している。

 

 クウェートの病院では、2人のアリ以外にも爆撃で家族を失ったイラクの子どもたちが何人も治療を受けている。番組は、クウェートの病院にいる2人のアリの治療から退院までを取材し、イラク戦争が子どもたちに残した傷跡を子どもたちの肉声で伝えている。

原題:A Tale of Two Alis
制作:Shine Limited Production / Channel4 (イギリス 2003年)

BS世界のドキュメンタリーイラクの子 ふたりのアリの悲劇』]より 

 

イラクの子 ふたりのアリの悲劇』—支援の手に格差が生じた事例

 監督の意図は明確だ。米軍の爆撃によって被害を被った子どもたちはたくさんいた。だが、あえて「ふたりのアリ」を選び、同時並行的にカメラを回している。

 火傷によって両腕を切断したアリ・アバスくんと、顔面に大怪我を負って片目を失ったアリ・フセインくん。アリ・アバスくんはその姿から「悲劇の象徴」のようになり、世界各国から支援のメッセージや義援金がたくさん集まった。しかし、一方のアリ・フセインくんにはそれに比べて義援金や支援の手は圧倒的に少なかった。

 どうしてそのような支援の偏りが生まれたのか。支援とはボランティアであり善意である。なぜアリ・フセインくんにはそういった無償の愛が平等に注がれなかったのか——。

 「ふたりのアリ」の被害や症状の重さを比較考量しても意味がない。どちらがどれだけ大変か、なんて決められるはずがないからだ。アリ・アバスくんの方が被害や後遺症が大変だからたくさんの支援が集まったとは考えられない。やはり、たまたまアリ・アバスくんはメディアによって「悲劇の象徴」のように祭り上げられたから支援が多く集まったのだと思う。おそらくアリ・アバスくんはその「見た目」によって周囲の同情を集めやすかったのかもしれない。

 しかし、アリ・フセインくんはそうではなかった。だとしたら「誰かを助けたい、救いたい」といったような善意や無償の愛のようなものにも「見た目」の問題が一枚噛んでいるということになる。「ふたりのアリ」の例は、同じように苦しんでいる人がいたとしても「見た目」やメディアの報じ方によって救われたり救われなかったりする可能性があるということを示唆している。

「人を見た目で判断してはいけない」。

 言葉でいうのは簡単だが、これは実際にはとてもむずかしい問題である。生物学的事実として、人は「視覚優位」にできている。他の感覚器官に比べて圧倒的に視覚が優位になっている。この形式的な流れにそって「見た目」が重視されてしまうのである。

 次に、「私」と「公」の区別の問題がある。プライベートな領域なら相手を「見た目」で判断したとしてもそのひとの自由だろう。恋愛はプライベートな領域であるがゆえにルックスで相手を選んでもよい。そうでなければ内心の自由がないことになる。しかし、パブリックな領域ではそれは許されない。パブリックのパブリックたるゆえん、それは公正さと公平さがもとめられる点にある。相手の人格や尊厳を尊重しなけらばならない以上、何にもとづいて(公正さ)、どのように選ぶか(公平性)は、プライベート感覚でもって決めてはいけないのである。

 たとえば、就職試験の面接で「あの子はカワイイから採用!」といったぐあいに面接官の個人的な美醜の価値観で学生を評価していたとしたら、これはルッキズム(容姿差別)になる。あるいは、学校の先生がある生徒に「君は美人だから」という理由で他の生徒たちよりも有利な評価を与えたらどうだろう。また、看護師がある患者に「あなたの容姿はキモイから」という理由で他の患者とはちがう看護を施したら……。

 人間は見た目に流されやすい。そして、人間は公の領域に私的な価値観を持ちこみやすい。このふたつによってルッキズムは容易に引き起こされる。「あのひとはかわいそうだから支援したい…」という同情や善意にもそのメカニズムは働いている。「ふたりのアリ」の支援格差はモテる/モテないといったような次元の話ではなく、もっと深刻な生きるか死ぬかのような問題にも「見た目」の同情のされやすさが関与していたということの証左である。

 人間の不完全さ。隣人愛の不可能性。どんなひとにも平等に無償の愛を注ぐことは非常にむずかしい。ここから公助の必要性が生まれる。隣人愛だけでは公正な社会をつくることはできない。だから公正としての正義が必要となる。ニーズ・オブ・ストレンジャーズ(見知らぬ他者のニーズ)を適正に満たすための装置。それが公助(福祉国家の再分配政策)である。

公助の精神が欠落した「日本社会の劣等性」

 私的な感情を公の領域に持ち込まないこと。そのときのストッパーとなるのが個人倫理であり個人的な信念(良心)である。倫理とはどこまでも個人的なものだ。「神と私との契約」というルールから「個」という観念が生みだされ人為的に生まれてきた宗教的な心の習慣が「倫理」という良心である。ご存知のとおり、日本社会にはそのような心の習慣がない。だから寄付文化も市民セクターも貧弱である。唯一あるのが「会社」という“宗教共同体”と勤労主義というカルト精神。それにぶらさがっている「家父長制的家族」である。このつながりから排除されたものは一気に無力化されていく。

 日本では「イラク日本人人質事件」(2004年)以降、自己責任バッシングが過激化していった。その流れで「自助」が強調されるようになった。グローバル経済のネオリベ化によって「会社」や「家族」が担っていたセーフティネット機能がコスト削減の対象になっていったからである。経済成長期からバブル崩壊までは会社にも家族にもそれなりの「余裕」があった。が、もはや企業福祉も家族福祉も社会保障の機能を担えなくなったのだ。だから自己責任(自助)を強調するようになったのである。日本社会は西洋社会の基準では「福祉国家」だったことは一度もなかった。たんなる企業依存の家族主義の社会だったからだ。

 「ふたりのアリ」の支援格差が示したように共助には限界がある。ましてや日本社会にはそのような共助すら乏しく、自助を迫るだけの自己責任論がいまだに跋扈している。だからこそ公助が必要なのだが、日本にはその公助を支える精神的なバックボーンが欠けている。これが「日本社会の劣等性」の正体だ。わたしたちはそのような日本社会の劣等性を知ったうえで、その劣等性にいかに巻き込まれず生き延びていくかを考え、それでもなお公助の必要性を諦めずに訴えかけていく必要がある。それだけが「アリ・フセインくん」のようなひとたちを救う道なのだとおもう。