おんざまゆげ

@スラッカーの思想

Dラブ/Bラブと愛情資本、そして「親ガチャ」——「無理ゲー」になったマズローの欲求階層モデル

 心理学者のマズローが提出した「欲求階層モデル」。高校の「現代社会」のような科目にも登場するような有名な図であるが、あらためてこのモデルを考えてみると恐ろしいほどの「無理ゲー」になっていることに気づいた。

     

 詳細はマズローの主著である『人間性の心理学 モチベーションとパーソナリティ』(1954年/1970年,産業能率大学出版部 1987年)に書かれている。

 まず、人間には心理的動機づけをうながす基本的欲求が5つあり、この5つの基本的欲求が低次から高次へと階段のように階層化されている。低次の〈生理的欲求〉が満たされるとつぎに〈安全の欲求〉が登場し、この〈安全の欲求〉が満たされると〈所属と愛の欲求〉が、つぎに〈承認の欲求〉が浮上してくる。最後に登場するのが〈自己実現の欲求〉となる。

 最後の〈自己実現の欲求〉に到達するためには、それ以下の基本的欲求がすべて満たされていなければならない。低次の基本的欲求でつまずいてしまったひとは、マズロー的には「病気」だと判断される。

基本的欲求がどの程度満足されたかということが、心理的健康の程度と正の相関関係をもっていると思われる。さらに一歩進めて、そのような相関関係の極限を断言することができるのであろうか? すなわち、基本的欲求の完全なる満足と理想的な健康とは同じであろうか? 満足理論は、少なくともその可能性があることを示唆するであろう。(p.103)

 

  基本的欲求の満足は《満足による健康(または幸福による健康)》(p.104)となり、《欲求不満は精神病理を生む》(p.2)とされる。さらに、臨床心理学を説明するくだりでは、《一般的に言って、自己実現を達成できずにいることは何でも精神病理として見るように学習しなければならない。それほど劇的でもなく、急迫したものでもなく、平均的な、また正常の人も精神病と同じように症例となる。》(p.442)と述べている。

 ここまでくると、マズローが構想した「人間性心理学」における人間性の理想の高さがわかってくる。マズロー自己実現的水準に到達した人間を「自己実現的人間」とよび、この水準に人間性の理想を設定している。人間の幸福は自己実現的人間のステージに限定され、それ以下のステージでつまずいてしまった「平均的人間」は《精神病と同じように症例となる》。あまりにも健常性の理想が高すぎて「パーフェクト・ヒューマンの心理学」とでもよびたくなる。

 

 では、どれだけの人間が最終ステージである〈自己実現の欲求〉にたどりつけるのだろうか。おそらく、ごくひと握りの幸運なひとだけだろう。なぜなら〈自己実現の欲求〉にたどりつくまでの4つの基本的欲求が満たされるかどうかは、どのような家庭環境に育ったかでほぼ決定されてしまうからだ。親が「毒親」で貧乏だったらと想像してみてほしい。つまるところ、マズローの欲求階層モデルも「親ガチャ」要因に強く規定されているのである。

 しかも、恐るべきことに家庭が裕福で毒親ではない「平均的な親」であったとしても自己実現的ステージにたどりつけるかどうかはわからない。なぜなら、子どもがマズローが想定している「心理的に健康で正常な発達=自己実現的人間」になるためには、まずもってその子どもを育てる親自身が自己実現的人間でなければならないからだ。ここが欲求階層モデルが超絶「無理ゲー」だと思われるゆえんである。

 

 人間が自己実現的水準に到達するためには「愛の欲求」が大きなカギを握っている。マズローは「愛」や「愛情」をBラブ(being love)とDラブ(defect love)に区別する。Bラブとは自己実現的人間に備わっている「愛する能力」であり、つぎのように説明される。

 自己実現的愛、すなわちBラブとは、全面的に思う存分、無条件で、抑制なしに、また、ある種の打算もなく、自分自身を無制限に捧げることである。(p.277)

 

 自己実現者の愛においては、平均的な人々の愛を支配しているような試練や緊張、努力はほとんどみられない。哲学用語では、生成と同様に存在の一側面であり、Bラブと呼ぶことができる。すなわち、他者の存在に対する愛である。(p.302)

 

 これにたいし、Dラブとは「欠乏の愛情」であり《…愛を奪われた人間が愛を必要とし、それを渇望するが故に、また愛が欠け、この病原的な欠乏(Dラブ)を補うことを余儀なくされているが故に恋に陥る人間…》(p.301)である。

 Bラブとは「見返りを求めない愛情」(無償の愛)であり、DラブとはBラブの「無償の愛」の欠乏ゆえに「愛を奪われた人間」がその欠乏感ゆえに「過剰に求める愛」である。Bラブに恵まれなかった者はその欲求不満の欠乏状態を埋め合わせるために他者からの愛を過剰に渇望するようになる。この「欠乏の愛」がDラブである。対して、Bラブによる無条件の愛に恵まれた者は過剰な愛を求める必要がないため、最終ステージの自己実現的水準に到達しやすくなる。この「Bラブ格差」が子どもにとっては大問題となる——。

 マズローによれば、Bラブは自己実現的人間に備わっている特徴となっており、Dラブは自己実現的人間になり損ねている「平均的人間」(マズローによれば神経症や精神病と同じ症例)の特徴となる。Bラブ不足に陥っている「Dラブ人間」に必要なのは、DラブではなくBラブである。よって、親からのBラブ(=愛情資本)に恵まれなかった者が自己実現的ステージにたどりつくためには「Bラブ人間」(=自己実現的人間)からのBラブが必要となる。それが満たされなければ自己実現的人間にはなれないのだ。

 では、世の中にBラブ人間がどれだけいるだろうか。みんな愛に飢えているように見える。「モテ/非モテ」を異常に気にするのも、「承認欲求モンスター」や他者からの評判を過剰に気にするのも、すべてはBラブ不足に陥っているDラブ人間がたくさんいるからだろう。

 

 現代社会では、マズローの欲求階層モデルは親が持っている経済資本、文化資本、愛情資本、身体(ゲノム)資本などによって強く規定されてしまっている。親が持っていた各種の資本(資源)が子どもの人生を大きく左右するようになったのは、経済システムが新自由主義になって以降だと思われる。グローバル化以前の経済成長期の段階では、子どもは学校を卒業して会社に就職してしまえば基本的には欲求階層の第4ステージまでわりとすんなり上昇し、基本的欲求を満たせたからである。この頃までは会社共同体の社内結婚システムも同時に作動していたことにより、高い婚姻率と出生率を達成していた。だから、欲求階層モデルの親ガチャ性が露骨に剥き出しになることはなかったと思われるのだ。

 経済成長期にも愛情不足のDラブ人間は多く存在したと思われるが、この愛情資本格差がさほど問題にならないような経済システム・雇用システム・結婚システムが存在していた。Dラブ人間の愛情不足は、ほかの欲求要因(お金・出世・結婚・子育て)などがうまいこと満たされていたことによって問題化されずに散らされていた可能性が高い。

 しかし、そのような基本的欲求を容易に満たしてくれていた恵まれた条件が崩壊したことによって、Bラブ不足(愛情資本格差)が大きな問題となって顕在化した。これがDラブ人間の大量発生である。そして、Dラブ人間がBラブを求めてDラブ人間と恋をし、お互いのDラブでBラブ不足を補おうとする「過剰に求め合う恋愛」をすることによってさらなるBラブ不足を招いていき(Dラブ悪循環)、その結果、毒親の大量発生につながっていったと予測される。

 新自由主義マーケティング経済では、Dラブ人間は承認欲求を刺激されて資本の側から容易に釣られまくっている。いまではマッチングアプリがDラブ市場を形成し、エンタメを含めた承認市場ではDラブ人間のBラブ不足で駆動しているといっても過言ではない。

 新自由主義社会は、労働市場では柔軟で流動性の高い非正規雇用を大量生産し、労働者を安く買い叩く。結果、所属や愛・承認の欲求を満たせなくなったひとたちを今度はDラブ市場に誘いこんで二重の搾取で儲けるのである。これが「労働搾取→承認依存」の悪循環である。

 まず、わたしたちの生存権(生理的欲求と安全欲求)が満たされて、つぎに人格的承認(愛の欲求と社会的承認欲求)が満たされる。この二つの欲求の満足の先に自己実現(幸福追求の自由)が確保される。これがマズローの描いていた欲求階層モデルであった。だが、昨今これがいかに無理ゲーになってしまったのかを痛感する。欲求階層モデルはある時期までの「経済的幸運」によって成り立っていただけだったのだ。

 

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