おんざまゆげ

@スラッカーの思想

阿部 彩『弱者の居場所がない社会——貧困・格差と社会的包摂』/すべての人が包摂される「ユニバーサル・デザイン社会」

 「社会的包摂」政策にかんする入門書

「社会的包摂」とは、(1)社会にビルトインされた「社会的排除」のメカニズムを明らかにし、(2)社会的排除のメカニズムを停止・失効させたうえで、(3)誰もが社会の中に包みこまれながら無理なく生きられる社会を目指す社会政策。

 したがって、まず問題になるのは社会的排除である。
 

 

貧困」と「社会的排除」のちがい 

 貧困や格差が問題にされる一方で、社会的排除/包摂という問題には必ずしもフォーカシングされてこなかったと著者は言う。 

 では、貧困と社会的排除はどう違うのか。

 貧困が、生活水準を保つための資源の欠如を表すのに対し、社会的排除とは、社会における人の「位置」や、人と人との「関係」、人と社会との「関係」に関するものである。簡単に言えば、貧困とは「必要なモノやそれを得るための資源(おカネやその他の手段)がない」ことであるが、社会的排除とは、「社会から追い出される」ことである。・・・何から追い出されるのだろうか? それは、制度や仕組みであり、人間関係であり、物理的な場所である。(~p5)

 

 金銭的・物質的に換算することができる生活水準が、最低生活基準以下である場合が貧困。金銭的な欠如だけではなく、金銭的に換算することができない社会の中の「居場所」、「役割」、他者との「つながり」がない状況が社会的排除

 社会的排除の視点は「金銭的・物質的な欠乏から人間関係の欠乏へと視野を広げた」概念となっている。

 また、貧困が「低い生活水準である状態」であるのに対し、社会的排除は「低い生活水準にされた状態」である。

「である状態」と「された状態」の違いに着目する。これは微妙な違いではあるが、されど決定的に重要な違いである。

 社会的排除は、誰か、または何かが、誰かに対して行う行為である。排除される側と排除する側があるのである。

 

従来の貧困の考え方は、市場経済の営みそのものは不問としたうえで、その中で発生する貧困問題は「自然の成り行き」と理解し、貧困は、その貧困の当事者側の問題であると理解するものであった。

 

すなわち、悪いのはその人の学歴が低いから、離婚したから、結婚しないから、単身世帯だから、障害を抱えているから、小さな子どもがいるから・・・など、その人に起因する理由がもとで困窮が発生していると考えるのである。

 

孤立や社会サポートの欠如についても同様である。孤立してしまった人やサポートのない人が、そのような状況になったのは、その人の家族が悪いからだ、その人の性格に問題があるからだ・・・と、あくまでも、問題の所在はその人と理解する。

 

そこには、いつも「自己責任だから」という暗黙の了解が流れている。

 

これに対して、社会的排除は、問題が社会の側にあると理解する概念である。社会のどのような仕組みが、孤立した人を生み出したのか、制度やコミュニティがどのようにして個人を排除しているのか。社会的排除に対する第一の政策は、「排除しないようにすること」なのである。

 

たとえば、なぜ、単身世帯であることが、社会的孤立につながるのか。なぜ、同居の家族以外の社会サポートが築きにくいのか。それは、社会の側から、手を差し伸べることをしていないからではないか。その人が、人とつながり合うことを躊躇してしまうような要因を、社会の側が作っていないか。社会の仕組みが、人々をより孤立へ、排除へ、貧困へ、追い込んでいるのではないだろうか。意図せずとも、社会の仕組みや制度が、人を排除に仕向けているのではないか。

 

社会的排除の概念は、社会のありようを疑問視しているのである。(~p126)

 

つながり」「役割」「居場所」

 人と人、人と社会との「関係」に着目した概念である社会的排除

 では、具体的にはいったい「何から」の排除なのか。

 包摂される単位としての「小さな社会」からの排除。つまりそれは、会社、学校、労働組合、地域、町内会、家族、クラブ、サークル・・・などである。

 それらに共通する三つの概念。

「つながり」「役割」「居場所」からの排除が問題になる。

 著者が、人間の尊厳を保つうえで不可欠なものとしてあげる「つながり」「役割」「居場所」とは具体的には次の三つである。

(1)「関係」からの排除→「つながり」からの排除

(2)「仕事」からの排除→「役割」からの排除

(3)「場所」からの排除 →「居場所」からの排除

「居場所」とは「つながりと役割がともにある場所」と定義できるので、(1)と(2)は概ね(3)に集約でき、よって著書名である「弱者の居場所がない社会」→「社会的排除」という図式になる。

 

データで明らかになった「残酷で冷たい日本人」

 著者は2003年に「最低限これは必要である」という必需品リストの調査を行った。これは生存権憲法25条)に規定された「健康で文化的な最低限度の生活」の「最低限」とはいったいどの範囲なのかを調査するものである。

 調査は日本、オーストラリア、イギリスで行われたが、日本はどんな指標においても二つの国よりも低い数字であることが分かった。その一部は以下のようになっている。(p78より)

 ・「医者にかかれること」—— 日本 89% オーストラリア 99.9%

 ・「冷房・暖房は必要」—— 日本 67% オーストラリア 89.0%

 ・「冠婚葬祭への出席」—— 日本 60% イギリス 80%

 ・「就職の面接のための衣服」—— 日本 49% イギリス 69%

 

 それに加えて絶望的なのは、子どもの必需品に対する支持率である。

 ・子どもには「自転車は必要だ」—— 日本 20.9% イギリス 55%

 ・子どもには「誕生日のお祝いは必要だ」—— 日本 35.8% イギリス93%

 

『... イギリスの人々が、「すべてのイギリスの子どもに与えられるべき」と考えるものの多くについて、日本の人々は「すべての日本の子どもに与えられなくても、しようがない」と答えるのである。』(79)

 日本でも『自分の子どもに自転車を与えている親の割合は87%、誕生日のお祝いをあげている割合は95%である...』

 日本人は『 ... 自分の子どもにはほぼ100%与えているものでも、日本に住むほかの子がそれを欠いていても「いたしかたない」と考えるのである。』(80) 

 

 ここで蛇足ながら、いかに日本という国が絶望的に人に冷たい国なのかを示すデータを下記にいくつか記しておく。

 

●「世界で最も他人に冷たい先進国、日本」

世界で最も他人に冷たい先進国、日本 - A Successful Failure

 ・人助け指数: 異邦人、助けを必要としている見知らぬ人を助けたか?

 ・寄付指数: 宗教団体や政治団体、慈善団体等に寄付を行ったか?

 ・ボランティア指数: 組織的なボランティアに時間を捧げたか?

  上記の指数を調べた結果、日本は135カ国中90位であった。

 その他の主要各国はアメリカ1位、ドイツ28位、イギリス7位、フランス90位である。

【日本】

 ・総合:90位/135ヶ国

 ・人助け:134位

 ・ボランティア:39位

 ・寄付:62位

 

アメリカ合衆国

 ・総合:1位

 ・人助け:1位

 ・ボランティア:5位

 ・寄付:9位

 

【ドイツ】

 ・総合:28位

 ・人助け:29位

 ・ボランティア:46位

 ・寄付:27位

 

【イギリス】

 ・総合:7位

 ・人助け:24位

 ・ボランティア:33位

 ・寄付:4位

 

【フランス】

 ・総合:90位

 ・人助け:129位

 ・ボランティア:55位

 ・寄付:58位

... 世界でも有数な豊かな国の一つであるはずの日本は他人に対して冷たい国である事が一目瞭然だ。特に人助け指数が135カ国中134位とカンボジアに続き世界ワースト2位だ。大震災が起こった2011年にピークに達して以降、寄付指数は減少を続けている。逆にボランティアに費やす時間は増加傾向にあって、実は日本は3つの指標の中でボランティアが最も一般的な唯一の国である。

 

... 日本の世界寄付指数が90位と残酷な状況にある理由としては複数考えられる。寄付をアピールすることを良しとしない傾向、チップ文化の不在、ムラ社会を基盤とした文化背景、弱者救済を積極的に行うキリスト教の低い普及率、他人を思いやる心を醸成する教育の不足、長い不況にあえぐ経済、じわじわと高まる失業率、国力を奪う少子高齢化──いずれにせよ、世界で最も他人に冷たい先進国、それが今の日本なのである。

 

... 日本は生活保護などの貧困対策への反発が高い国である。前回のエントリのようにひとたび生活保護の充実を訴えれば、自己責任論が幅を効かせることになる。民間による支援の受け皿が発達している欧米と異なり、日本では民間支援を期待できる状況になく、文字通り行政による支援が最後の砦となっている。

世界で最も他人に冷たい先進国、日本 - A Successful Failure

 

 

●「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」(1位)

... 1つは、日本では「自力で生活できない人を政府が助けてあげる必要はない」と考える人が世界中で最も多くなっている点である(出典:「What the World Thinks in 2007」The Pew Global Attitudes Project)。「助けてあげる必要はない」と答えた人の割合は日本が38%で、世界中で断トツである。第2位はアメリカで28%。アメリカは毎年多数の移民が流入する多民族、多文化の国家であり、自由と自己責任の原則を社会運営の基軸に置いている。この比率が高くなるのは自然なことだ。そのアメリカよりも、日本は10%も高いのである。...

・「成長論」から「分配論」を巡る2つの危機感 自力で生活できない人を政府が助ける必要はない!?-日経ビジネス(波頭 亮 著)より

business.nikkeibp.co.jp

 

 

社会にビルトインされた「マタイ効果」

 マタイ効果とは、『持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるであろう」(マタイ福音書13章12節)(151)』に由来した社会現象のことを言う。1970年代に社会学者のロバート・マートンは、社会に存在する貧富の格差もマタイ効果と同じ現象であることを指摘した。

『格差は自ら増長する傾向があり、最初の小さい格差は、次の格差を生み出し、次第に大きな〈格差〉に変容する」...』(151)

 トマ・ピケティが『21世紀の資本』で明らかにしたのは、マタイ効果は歴史的事実として存在しているということだった。

 資本主義に内在した「資本収益率(r)>経済成長率(g)」という不等式(歴史的必然)があるかぎり、格差は格差を生みだし続け、貧富の格差は拡大し続ける。これによって「格差は経済成長によって根絶するだろう」という定説は崩壊した。

 自由競争は格差を解消しない。資本主義は内在的に格差拡大装置を備えているからだ。その式が成り立つかぎり富の格差の拡大は止まらない。労働生産性よりも常に資本増殖スピードが上回るからだ。金持ちは経済成長よりも常に早いスピードで富を増やす。

『重要なのは、「マタイ効果」が社会に内在されているということである。つまり、社会の仕組み、ルールとして、そうなっているのである。少なくとも、現代社会では、社会のあらゆるルールや制度や仕組みが、マタイ効果が働くように作られているのである。これは、「社会のありよう」の問題なのである。』(153)

  マタイ効果に抗うにはどうすればいいのか。社会学者のダニエル・リグニーはこう述べる。『マタイ効果を逆行するシステムを作るのに必要なのは、私たち、特にマタイ効果の恩恵を受けてきた層の人々が、自分のポジションが自身の能力や努力の結果だけではなかったであろうことを認識することだと言う。』(154)

 これについては、「成功者につけるクスリ」が必要だろう。

 

ユニバーサル・デザインの社会」

 著者が社会政策の研究者を目指すきっかけとなったのは、学生時代にホームレス支援のボランティアを行った経験からだったと言う。

 ゆえに、著者の目線は一貫して「ホームレスのおっちゃん」なのである。

「ホームレスのおっちゃん」が包摂される社会。

 それが著者の主張する「ユニバーサル・デザイン社会」だ。

 私が主張したのは、障害のある人もない人も暮らしやすいようにデザインされている社会という意味での「ユニバーサル・デザインの社会」というコンセプトである。

 

ただし、ここで言う「障害」は、従来の「障害」の狭い概念ではない。人づきあいが下手だとか、手がかかる子どもがいるとか、介護が必要な家族がいるとか、「100%企業戦士」になるにはちょっとツライ・・・というようなさまざまな事情のことを言っている。このような「事情」は多かれ少なかれ、すべての人が抱えているものであり、それを無視して、皆に企業戦士となることを求めることは、結局、すべての人にとって暮らしにくい社会を作ってしまうことである。

 

そして、「すべての人が暮らしやすい」というユニバーサル・デザインこそ、社会的包摂政策の中核を占めるものである。(~p163)

 

ホームレスのかっちゃん」が包摂されるには...

「いちばんしんどい人に焦点をあわせた社会は、すべての人にとって暮らしやすい」というのが「ユニバーサル・デザイン社会」の理念であり、社会連帯への利害共通基盤がそこから導かれる。

 本書には、著者が学生時代に出逢った「ホームレスのおっちゃん」の一人である「かっちゃん」という人物が登場する。この最重要人物である「かっちゃん」が包みこまれる社会こそ「社会的包摂」の目指すべき目標地点となる。ゆえに、社会的排除/包摂という概念を使用する際に想起される具体的人物は「かっちゃん」となる。

 冒頭に登場したかっちゃんを考えてみよう。彼の反協調的な性格は、持って生まれたものであろうし、何かの事故の結果でもない。彼が、コンビニやファーストフード店で、にこやかに「いらっしゃいませ」と言っているところは想像ができないし、スーツを着てパソコンに向かうようなこともしなかったであろう。

 

しかし、彼のよさや人間としての価値は、そのような物差しでしか測ることができないのであろうか。市場で求められる職業訓練を彼に求めることは、彼が彼であることを否定し、社会が考える「理想の労働者」によりマッチした、彼とは異なる人物であることを求めることである。かっちゃんは、労働市場においては自活できるだけの「評価」を得られなかったがゆえに、路上生活をしていた。でも、彼は腕のいい大工であったし、持ち前の器用さと力の強さがあった。

 

なぜ、彼は彼のままで社会に貢献することができないのであろう。いや、彼がたとえ、「労働者」として何の価値もなかったとしても、なぜ、彼は彼のままであってはいけないのだろう。なぜ、職業訓練をして、お行儀のよい社会人にならなくてはならないのであろう(~p180)

 

「かっちゃんはかっちゃんのままで社会に認められること、すなわち、かっちゃんを承認する社会とはどのような社会なのか」が問題なのである。

 そこで著者は、労働市場の改革なくしてユニバーサル・デザイン社会の達成はありえないと結論する。

 要するに、労働市場に人間を合わせるのではなく、人間に労働市場を合わせる社会——システムがシステムとしてうまく回るように人間を改造する社会ではなく、人間が人間のままで生きられるようにシステムを改造する社会——をつくること。これがユニバーサル・デザイン社会への第一歩となる。

 現代社会においては、多くの人が労働市場における就労を活動の中心としていることを考えると、労働市場におけるユニバーサル・デザインが達成されない限り、社会のユニバーサル・デザイン化はあり得ないであろう。すなわち、どのような人であっても、「居場所」「役割」「承認」の形態としての「就労」の選択肢が提示されなければならない。そして、その労働は、「生きがい」を感じる尊厳のあるものでなければならない。(~p185)

... すべての人には、程度の違いはあるものの、「事情」「生きにくさ」「ハンディキャップ」「インペアメント」(その人なりに、何と呼んでもよいと思う)がある。

 

私はそれらを「障害」とさせない社会を、「ユニバーサル・デザインの社会」と呼びたい。それは、すべての人を無条件で「承認」することであり、「包摂」することでもある。ホームレスのかっちゃんにしても、彼が、彼にできるやり方で働き、それに対する「見返りのある」報酬を得、さらにそれに加えて、適宜の所得補填によって基本的な生活水準を保つことができれば、どんなによかったであろう。そして、パーソナル・サポートのようなきめ細かい支援によって人間関係を築くことができれば、彼が彼らしさを失うことのない就労と承認が可能であったかもしれない。(~p187)

 

... いちばんの問題は、生活保護制度の出口として、現在の労働市場における「就労」しか選択肢がなく、その就労が、必ずしも、その人の存在価値を発揮できるような、尊厳をもっていきいきと働くことができる仕事ではないことにある。無理をして就労をしても、本当の社会的包摂は望めない。理想論に聞こえるであろうが、あえて言う。彼ら(かっちゃん)が活躍できる就労を作り出すことができる労働市場への改革が必要なのである。(~p203)

 

 もし、あなたが「かっちゃん」だったとしたら、どう感じるだろうか。

 まともに生きることができるだろうか。

 生きづらくないだろうか。

「かっちゃん」が排除される社会は、すなわち、「あなた」をも排除する社会である。もし、「あなた」が社会に包摂されたいのなら、その条件として「かっちゃん」を排除してはならない。これが社会的公正としてのユニバーサル・デザイン社会の基本条件である。

 

すべての人が包摂される社会へ向けて…

 最後に、著者のまとめ的な部分を引用して終わる。

 ただ最低限の生活水準を保障するというだけではなく、すべての人が自分の存在価値を発揮でき、承認され、つながり合うためには、貧困に対する政策に社会的包摂という視点がなければいけないことを論じた。そして、変わりゆくグローバル社会の中では、従来の社会保険制度や公的扶助制度、就労支援が、人々の最低生活を保障することも、社会的包摂を約束することもできないことを指摘した。

 

なぜなら、現在の社会保険制度は、すべての人がまっとうな職業に就いていたり、または、家族のセーフティネットにより守られていることを前提としており、公的扶助制度は、最低生活は保障するものの、扶助を受けることが排除につながる要素を持っており、そして、就労支援は、人々を労働市場に戻すことだけを目的としており、戻された労働市場での社会的包摂は問題視していないからである。

 

これらの制度は、限られた「よい仕事」への競争を激化し、誰もが企業戦士のように振る舞わなければならない強迫観念を植え付け、その競争からふるい落とされる人々を、非正規労働など社会の周縁に追い込んでいく。これが、社会的排除である。そして、格差社会は、社会的排除を助長させる大きな要因となる。

 

社会的排除に抗うためには、誰もが尊重され、包摂されるユニバーサル・デザイン型の社会が必要である。誰もが自分の存在価値を発揮できるような働き方ができ、誰もが人から必要とされ、誰もが包摂される社会。それは理想論かもしれない。だが、誰もが生きにくさを感じるようになった現在、そのような包摂の視点が、これからの日本を考えるときに不可欠なのではないだろうか。(~p191)