おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「すべての生が無条件に承認される社会」へ向けて——「生きづらさ」についての雑記(3)

 今回は「生きづらさ」と「承認」の問題を考えてみようと思います。

 前半では「承認と生きづらさの関係」「承認と自尊の関係」を考えます。

 後半では「ただ生きているだけで生が否定されてしまう社会構造」を批判的に問題にし、それにかわる「すべての生が無条件に承認される社会」へと転換するためには何が必要なのかを考察したいと思います。 *1

 

すべての生が否定されない社会

 「生きづらさ」は構造的問題

 私は「生きづらさ」を個人的な心理的問題だとは考えません。生きづらさは個人的問題ではなく社会的問題であり、「敵」は生きづらさを生みだす経済的・文化的・社会的構造であると考えます。

 そのような捉え方において生きづらさが問題になるのは、「生きづらさ」という個人的感情がいったい何に由来しているのか分からないところにあります。私たちの「生」は、社会の価値観や学校教育によって無意識のうちにある方向へと条件づけられてしまっており、生きづらさの正体はそのような「仕組まれた条件づけ」に関係していると考えられます。

 そこで必要になるのが、無意識のうちに埋め込まれた「負わされた条件づけ」を「意識された条件づけ」へと変えること——。つまり、受け容れ可能な要素は受容し、受け容れる必要のない要素は正しく異議申し立てを行うこと。これが最初に目指されるべきポイントです。受け容れ可能か不可能かを判断するためにも、生きづらさがいったい何に由来しているのかを分析することが必要になります。

 

すべての生を無条件に承認する

 現在の日本社会では、ありのままに生きていると自動的に「生」が否定されてしまう傾向にあります。「ただ生きている」ということが許されない社会です。社会に対して積極的に、何かができること、社会に役立つこと、労働能力があること、学力やスポーツ能力があること、容貌の美しさ、若く健康的な身体、明るい性格、コミュニケーション能力、人間力、生きる力…等々を証明できないと社会や他者から自動的に否定されてしまう…。

 そのような社会では、無条件に生が承認されるのではなく、ある一定の条件をクリアできた人だけが肯定的に評価され、この評価をもって条件つきでその人の生が承認される社会です。これこそが私たちの生を生きづらくしている根源であると思います。

 

… 基本的に人間は、「生産力があるか否か」「労働可能か否か」に拠るのではなく、無条件に「生きること」が保障されなければならない…


… すべてが「生産」を軸にまわっている。そして生産性を求めるあまり、人々の心に余裕がなくなり、また「役に立つ人間」「役に立たない人間」と、人間の価値にランクづけさえ、されるようになってしまっている…
堤 愛子『働く/働かない/フェミニズム―家事労働と賃労働の呪縛』p295-7

 

 だとしたら、まず出発点に置かれるべき大前提は「すべての生が否定されない社会」です。これはつまり、あらゆる人の生を無条件に承認する社会です。そこで目指される「生を無条件に承認する」というのは、すべての人の生を積極的に「すばらしい」と肯定的に価値づけることではなく、すべての人の生を平等に「否定しない」という消極的な義務のことを指します。

 

「生きづらさ」と「承認」の関係

 

「貧困」と「社会的排除/包摂」

 以下では「生きづらさ」を物質的窮乏状態(貧困問題)と社会的包摂からの排除(承認問題)の二つに分けたうえで、国の権利保障(憲法)の観点から考えてみたいと思います。

 

「生きづらさ」の二つの位相

 生きづらさを生みだす要因を「物質的レベル」と「精神的レベル」に大別することができます。物質的レベルとは「モノの豊かさ」に対応し、精神的レベルは「心の豊かさ」に対応します。また、物質的レベルに起因する生きづらさは「貧困」に対応し、精神的レベルに起因する生きづらさは「社会的排除/包摂=承認」に対応します。これは心理学者のマズローが提唱した下記の欲求階層モデルから説明できます。

 

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 分かりやすく言うと、物質的レベルの生きづらさは「お金がない→貧しさ」という感覚をともない、精神的レベルの生きづらさは「アイデンティティが承認されない」という感覚をともないます。日本のようにある程度モノの豊かさが達成された社会では、物質的レベルの生きづらさ(貧困)よりもアイデンティティのレベルにおける生きづらさ(承認/非承認)の方が相対的に深刻さを増してきます。

 

「生きづらさ」の経験領域

 以上で説明した生きづらさの二つの位相を図式化すると以下のようになります。

 

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 まず、物質的レベルの生きづらさは「カネがない」という「貧しさ」として経験されます。これは経済的な問題としての貧困問題であり、政治的には生存権憲法25条)にもとづく制度的な再分配によって対応することが求められます。

 次に、アイデンティティのレベルにおける生きづらさは「承認されない」という否定的な感覚として経験されます。この「承認されない」という否定的な感覚は、主に三つの経験領域に分けることができます。*2

 

「生きづらさ」を生みだす三つの承認領域

 一つは「尊重されない」という「軽視・侮蔑」としての経験。これは「すべての人を平等に尊重(尊敬)する」という尊重の問題です。制度的には憲法13条に規定された「個人の尊重」のことを指し、すべての人に権利として保障される基底的な承認です。

 次に「評価されない」という感覚。自分には「価値がない」「無価値だ」という経験。これは「個人の属性(先天的・後天的な性質)を社会的価値にもとづいて評価する」という評価の問題です。資本主義社会では「自由」の領域に属し、すべての人は幸福な善き生を追求する自由が保障されています。この「善き生を追求する自由」のなかに「評価されたい」という欲望も含まれることになります。

 三つめは「恋人がいない」「友達がいない」「親子関係がわるい」「夫婦仲がわるい」「居場所がない」といったような個人間の具体的な人間関係から生じる「寂しい」という経験。これは個人的な人間関係から生まれる愛情や友情の問題であり、人間関係にともなう肯定的な感情の問題です。これも自由主義社会では「自由」の領域に属し、すべての人は幸福な善き生を追求する自由(幸福追求権)が保障されています。

 

「評価」と「愛情」は保障されない

 ここで重要になってくるのは、以上で述べた生きづらさの四つの経験領域において、政治的・制度的に直接対応できるのは「貧しさ」に対する「生存権=再分配」と「尊重されない(軽視・侮蔑)」に対する「個人の尊重」だけだという点です。残された「評価されない」という評価の問題と「寂しい」という感情の問題は直接的には対応できず、間接的に対応できるのみです。

 「愛情」や「評価」は権利(義務)として要求することができません。原理的に「愛情」は再分配不可能であり、愛情を義務として課し、「すべての人に対して平等に愛情を注ぐ」ことなどできないでしょう。また、「すべての人を高く平等に評価する」ということも不可能であり、もし「高く平等に評価する」ならばこれは「評価」の自己矛盾になってしまいます。

 従って、「評価」と「愛情」は幸福な善き生の実現へ向けた自由の領域において、個々人がそのつど個人的に獲得する「善」ということになります。そもそも幸福追求権は、幸福そのものの実現を保障する権利ではなく、あくまでも個々人が自由に幸福を「追求する」ことを保障する権利でしかありません。

 

「自由のための平等な生の保障」—— 生存権憲法25条)と個人の尊重憲法13条)

 生きづらさの問題では、まずは「貧しさ」に対応した生存権が保障され、「軽視・侮蔑」に対応した「個人の尊重」が保障される。これらが保障された上で、次に「幸福な善き生を追求する自由」として「評価」や「愛情」が個人的に自由に追求される(=自由のための平等な生の保障)

 もし、個人の「評価」や「愛情」が著しく低下し、これらが「個人の尊重」を毀損するほどの社会的排除につながってしまうのなら、政府には社会的企業NPOといった非政府系の組織による民間支援(社会的包摂政策)を促す義務があります。あるいは、社会的承認機会を高めるようなリエントリー、リスタート型の社会構造に変革すべく対応を迫られます。

 「評価」と「愛情」の承認領域は、すべての人が平等に権利として保障されるような領域ではありませんが、もし「個人の尊重」のレベルに抵触するほどの「評価」不足、「愛情」不足に陥るような社会構造があるならば、「幸福な善き生を追求する自由」の侵害として異議申し立てすることができるはずです。

 それらに加えて「貧しさ」と「寂しさ」の関係で問題になるのが、生活保護スティグマ化にともなう社会的排除です。生活困窮者は生活保護を受給することと引き換えに、社会的承認機会から排除されてしまうことがあります。

 生活保護制度によって最低限度の生活が保障されていたとしても、人間関係のネットワークから疎外されている場合、「貧しさ」を解消することによって「寂しさ」を強いられるという「再分配」と「承認」のゼロサム関係が生じてしまうことがありうるのです。

 そのような「再分配」と「承認」のゼロサム関係を放置すれば、貧困の改善を目指せば目指すほど社会的な承認関係から排除されてしまう人が増加してしまいます。従って、生活保護スティグマのようになっている場合、受給者が社会的承認機会から排除されないような何らかの社会的包摂政策が必要になります。*3  *4

 

三つの承認形式

 前述の生きづらさと承認の関係から分かったのは、承認には三つの形式があるということです。「尊重」「評価」「愛情(感情)」という承認形式です。この三つの承認形式は具体的にどのようなことを指すのか。また、三つの領域はどのような人間関係に対応しているのか。具体的に考えてみたいと思います。*5

 

「尊重」としての承認(基底的承認)

 「尊重」という態度

「尊重」については前回の記事で詳細に論じました。ここではもう一度、簡単に振り返ってみます。尊重とは「respect:リスペクト」のことを言います。「尊敬」とも訳されるのですが、日本語の「尊敬」という意味には儒教的な価値観が付着しているので、「目下の者が目上の者を敬う」と言うようにタテ関係(上から目線)が忍び込んでしまいます。

 尊重とは「タテ」ではなく「ヨコ」の関係であり、「すべての人間を同じように平等に対等に見る」という規範的な態度です。このような態度は自然には身につきません。文化という人為のなかで意図的にそのような態度を作り上げることによってはじめて身につく態度が尊重という構えです。

「すべての人を同じように対等に見る」という態度は、前近代の伝統的な社会にはまったく存在していませんでした。封建的な身分制の社会では「身分」によって「尊重すべき人/尊重しなくてよい人」という区別が存在したからです。しかし、身分制を廃し、地位や階級で人間を差別しないという近代社会が到来し、「すべての人を平等に尊重する」という規範が要請されたのです。

 そのような尊重という態度や構えは、人権思想の基底的な部分を支えている根本的な規範であり、マクロ的・歴史的な人権宣言からミクロ的・具体的な人間関係の礼儀作法のレベルにまで通底する道徳(倫理)の土台を為す本質的規範であると言えます。*6

 

「尊重としての承認」の対象範囲は「すべての人間」

 尊重という承認形式は、無条件で一般的・普遍的な承認を意味します。従って、具体的な個人のなかに「普遍的人間」を見出すことが求められます。個々人はそれぞれちがっており、様々な個性を持っている。人種も年齢も性別もちがう。ありとあらゆることがちがっている。なのに、すべての人を「同じように」尊重する。これはある意味「異常」な態度であると思います。少なくとも自然には発生しない関係の持ち方です。

 尊重という態度には何らかの「抗い」が必要であることがわかります。私たちは親しい人には親しいなりの接し方をし、親しくない人には親しくないなりの接し方をする。そのような接し方はある意味、自然な行為です。

 ここで尊重という承認が求めているのは、「赤の他人」に対して極端な冷遇をしないこと、親しい人に対する慎み(親しき仲にも礼儀あり)という態度を持つことです。

 親しいからといって「言ってはいけないこと」を冗談まじりに言ってしまうこと。親だからといって子どもに暴力を振るうこと。恋人だからといって着信履歴を盗み見ること…。「他人」だからといって無視すること。「評価が低い」とか「何かができない」からといってバカにしたり見下したりすること。このような「外れた」ことをしない、「越えてはならない一線」を越えないことが「すべての人間を平等に尊重する」ということの意味です。*7

 

尊重という承認は消極的義務

 目の前の具体的な個人のなかに「普遍的人間」を見出すこと。このような明らかに自然ではない象徴変換を行うことによって、すべての個人を「人として」尊重することが可能になります。

 これは「すべての人間を積極的に尊崇する」という意味ではありません。ここで言われている尊重とは、積極的に尊崇したり愛情を注いだりすることではなく、単に他者の存在を「否定しない」こと、人としての「一線を超えない」こと、「慎みをわきまえる」ということです。

 つまり、他者のことを軽蔑したり侮辱したり見下したりバカにしたりしないこと、他者の権利を侵害したりしないことです。この「他者」のなかには親しい人も赤の他人も平等に入っています。これが「普遍的人間」ということです。

 尊重という承認が求めている規範は「~をしない、してはいけない」という意味で消極的です。何かを積極的にすることが要請されているわけではなく、「~しない」という控えめで強い義務が要請されています。

 すべての人に対して「等しく愛情を持って接する」ことは不可能ですが、すべての人を「等しく否定しない」ということは可能です。尊重原則はそのような消極的義務を規範的にすべての人間に課しています。

 

尊重は「自然な態度」ではない

 なぜ、すべての人間を平等に尊重しなければならないのか。眼前の具体的個人のなかには社会から評価されている人や活躍している人、とても仲の良い人や大嫌いな人、まったくの赤の他人や極悪非道な犯罪者もいます。

 なぜ、それら個人の具体性を離れたところですべての人間を同じように対等に平等に尊重しなければならないのか。しかも、大人や子どもの区別もなく、「高齢者だから」とか「障害者だから」といったような区別もない。やはりこれは、自然ではない。尊重という態度は自然の態度から見れば「異常」な接し方です。

 そのような自然な態度から異常な態度への移行は、人間が自然のなかを生きる動物から文化(社会)を生きる動物へと移行したことに対応しています。すなわち、人間は自然のなかを生きることはできず、社会のなかを生きるしかない…。

 どんな人間も人間である以上、社会のなかを生きるしかありません。ここから社会契約論的にすべての人間は「自然な態度」を改め「社会を生きる態度」への変容を義務づけられる。この「社会を生きる態度」こそが人間の倫理であり、ここからすべての人間を「人として」尊重するという規範が派生してきたと考えられます。

 

個人を「人として」見ること、個人を「個人として」見ること

 尊重という承認の「ありえなさ」や「自然ではない」ところは、まったく異なる個々人を「等しく平等に…」というところにあると思います。たとえ消極的な義務であったとしても、やはり個々人はちがった人格であり、人それぞれにユニークな個性を持っている。様々な感性を持っており、そのなかには尊敬できない人物も含まれているかもしれません。

 実は、個人を「個人として」見ることと、個人を「人として」見ることはまったくちがいます。これは重要なちがいであると思います。個人を「個人として」見ることとは、眼前の具体的な個人に備わっているユニークな人格や属性を見ているわけです。しかし、個人を「人として」見るということは、そのような具体的でユニークな人格を離れた「普遍的人間(普遍的人格性)」をその個人のなかに「見出すこと」です。

 つまりそこでは、今上天皇を見ながら「天皇は日本国民の象徴である」と言ったような高度な象徴変換がなされているのです。具体的な個人(今上天皇)のなかに普遍的人間(日本国民全体)を見出すこと。これが個人を「人として」見るという意味です。

 私たちは日々いろんな人と接していますが、たとえ些細な日常レベルであっても、一人の具体的な個人のなかに「その人そのもの」としてのユニークな人格と、すべての人に共通する「普遍的人間」を見出すことができます。つまり、個人の「かけがえのなさ」と個人のかけがえのなさを捨象した象徴的な「普遍的人間」という二重性は、一人の個人のなかに今上天皇と同じような仕方で両立しているのです。*8

 従って、具体性のなかに普遍を見ること、「かけがえのなさ」のなかに一つの普遍的共通性を見るという象徴変換がなされることによって、「すべての人間を平等に尊重する」という態度が生まれてくると考えられるわけです。

 

「かけがえのなさ」ゆえに「かけがえのなさ」を「人として」尊重する

 ここで尊重という承認形式についてまとめに入りたいと思います。尊重という承認の仕方の最大の特徴は、その射程の広さにあります。承認対象は「すべての人間」です。しかも、無条件に普遍的なレベルで行う。尊重原則は消極的義務としてすべての人間に課されている。これはあらゆる道徳理論のなかに見いだせる基礎であり基盤となる倫理です。尊重という承認はすべての社会的営みを支えている基底的承認であると言えます。

 そこで要求されているのは「すべての人間を対等に平等に尊重する」という態度です。ここで重要なことは、あらゆる個人が持っている「その人そのもの」としての「かけがえのなさ」と、その具体的な「かけがえのなさ」ゆえに浮かび上がってくる普遍的共通性としての「普遍的人間」という観念です。

 哲学者のカントは交換可能な価値を「価格」と呼び、それに対して交換不可能な価値のことを「尊厳」と呼びました。あらゆる個人が持っている個性としてのかけがえのなさ、その人そのもの、その人らしさ、唯一性や固有性。こういった交換不可能・比較不可能・数量化不可能・計測不可能・評価不可能な人間の存在そのものの価値を「尊厳」と言います。ここから「尊厳⇒尊重」と「価格⇒評価」の二つを厳密に区別することが求められ、承認形式としても「尊重としての承認」と「評価としての承認」が截然と区別されることが要求されます。*9

 私たちが具体的な個人を見るときの二つの見方には、「個人として」見ることと「人として」見ることの二重性があります。尊重としての承認は常に個人を「人として」見ることを要求するわけですが、このような態度はその具体的な個人のなかに宿っている「かけがえのなさ」としての尊厳に対する応答として生まれてくるものです。個々人のなかに宿る尊厳は「人として尊重せよ」と命じるわけです。

 その他の承認形式(たとえば愛情)は、あくまでも個人を「個人として」しか見ない承認形式です。「愛情」はある特定の個人にだけ生じる感情であり、その個人のユニークな「かけがえのなさ」ゆえに「かけがえのなさ」そのものを愛するという選別的・条件的な承認です。

 それに対して尊重という承認形式は、すべての個人を「かけがえのなさ」ゆえに「かけがえのなさ」を「人として」尊重する。つまり、「かけがえのなさ」そのものを対象にしているのではなく、「かけがえのなさ」を備えている「普遍的人間」を対象にしているわけです。承認する根拠は「かけがえのなさ」であるところは同じでも、承認対象が「個人」レベルなのか「普遍的人間」レベルなのかで「愛情」と「尊重」はまったくちがう承認形式であることがわかります。

 

「愛情」としての承認(感情的承認=本質的承認)

 「愛情」は不平等な承認

「愛情」は「尊重」に比べたらわかりやすく、人間の自然な感情にもとづく承認形式であると思います。尊重のようにすべての人が対象になるわけではなく、ある特定の個人に対してだけ生じる特別な情緒的関係が感情的承認の特徴です。

 しかし、分かりやすい半面、すべての人が権利として保障されているわけではないので、偶然性や運に左右される平等性の見込めない不平等な承認形式だと言えます。

 たとえば、親の愛情に恵まれる人/恵まれない人という格差は、残酷な現実として毎日生産され続けています。子どもは親を選べない。この選べなさは理不尽であり不条理だと思います。子に対する親の愛情は義務として課されているわけではありません。愛情は決して義務からは生じない。親子関係から生じる愛情としての承認は、親の子どもに対する自然な「気持ち」や湧き上がる「感情」に依存していることになります。

 

「恋愛的承認」と「友情的承認」

 愛情という承認が最も不平等だと感じるのは、やはり恋愛における「モテ/非モテ」にもとづく格差を感じるときです。必ずしもモテるからといって理想的な恋愛関係を築けるわけではありませんが、モテればモテるほどそのチャンスは増えるでしょう。まったくモテない人は承認のスタートラインにも立てないような敗北感を感じるかもしれません。しかし、愛情がダメでも友情という承認形式がありえます。

「モテ/非モテ」のような恋愛的承認や性的承認よりも「友情」という承認形式は熱情にコミットしない分だけ独占性(束縛)がほとんどありません。友情は嫉妬のような感情を抱かない穏やかな感情的承認です。これは「愛情」と「尊重」の中間に位置しているような承認形態であると思います。

 友達や友人関係から生じる友情の関係性は、恋人同士のようにベッタリとした二者関係で閉じたりせず、それぞれの個人的人格に対して尊重しつつ情緒的絆を保つという絶妙な距離感を前提にしています。困っているときには協力を惜しまず、そうでないときは相手の自由な時間を尊重する。友情は束縛とは無縁の関係です。

 

感情的承認は「承認強度」が最も大きい

 おそらく「尊重されること」や「評価されること」よりも「愛されること」の方が承認強度が大きいと思います。尊重という承認が「薄く広く」であるなら、愛情という承認は「深く狭い」。ゆえに「承認されている」という感覚を最も強く感じることができるのが愛情としての承認です。

 尊重としての承認が一般的・普遍的レベルであったのに対し、愛情としての承認は具体的・個別的レベルです。ある特定の個人に対して無条件に包括的にコミットする。その人でないかぎりありえないという次元において承認が達成されます。承認対象は「その人そのもの」であり、「その人のその人らしさ」であり、「その人のかけがえのなさ」にピンポイントに対応しています。

 尊重としての承認のように、わざわざ象徴変換がなされて個人を「人として」見るということはしない。どこまでも個人を「個人として」見る。そして、この唯一無二な個人そのものを承認対象と見定め、強く深く無条件に全体を包括的に承認するわけです。

 

「かけがえのなさ」そのものが承認される

 ある人の「かけがえのなさ」が承認されるには、次のような個人と個人の情緒的な相互承認関係が必要になります。

 たとえば、「部長」と呼ばれている男性が家に帰ると「パパ」と呼んでくれる「我が子」が待っている。この子はその男性にとって唯一無二のかけがえのない存在です。このかけがえのない存在である我が子が「パパ」と呼んでくれる。ならば、「パパ」と呼ばれている「この自分」も我が子と同じようにかけがえのない存在であると実感できます。「パパ」と呼んでくれるその子にとって自分は必要とされており、自分もその子を必要としている。このように「かけがえのなさ」そのものは相互性にもとづいて感情的に承認されます。

 社会から与えられたポジション(部長)という役割関係には、「その人そのもの」としての「かけがえのなさ」は無視される(必要とされていない)傾向にあります。そもそも属性(肩書きや地位)には個人の「かけがえのなさ」は必要とされておらず、社会的ポジションに就くのはある一定の条件をクリア人ならば誰でもよいのです。

 社会的評価によって個人の「かけがえのなさ」そのものが承認されることはありません。評価としての承認が対象にしているのは、個人の「属性」であって「その人そのもの」ではない。そう考えると、その人が「部長だから」という理由から承認されるのではなく、かけがえのない「その人だから」という次元において承認されるには、やはり個人的で情緒的関係にもとづく感情的承認が必要なのです。

 

「属性」の先にある「その人らしさ」

 社会を生きる個人には、必ず何らかの「属性」が引っ付いています。属性とは社会的役割としての職業や肩書き、社会的地位、サラリーマン、学生、店員…といったような役割に付随するありとあらゆるものを指します。

 また、個人の性質をあらわす能力や容姿の美醜、性別や年齢、人種や性格傾向なども含まれます。たとえば、「頭のいい人」「仕事のできる人」「スポーツ万能な人」「かわいい人」「きれいな人」「かっこいい人」「男性」「若い人」「日本人」「健常者」「明るい人」…等々です。

「自分自身」と「属性」は分けて考えることができます。ある人を承認する際に、その人がある属性を持っているがゆえに承認することと、属性を含めたその人そのものを承認することはまったくちがいます。*10

 たとえば、「かっこいいから」という理由で承認するならば「かっこいい人」は世の中にはいくらでもいますし、「若くて健康的だから」という理由で承認するならば、年をとったり病気になったら承認されないことになります。つまり、ある属性を持っていることが承認の条件となっている場合、その属性を持っている人ならば誰でもよいということになり、また、その人から属性が失われてしまえば承認そのものが取り消されることになってしまいます。

 「かけがえのなさ」そのものを承認するためには、必ずその人の属性の先にある「その人そのもの」に到達しなければなりません。先ほどの例(パパと我が子)のように親子関係でなくても、ある程度の情緒的な関係を築くことができれば属性を意識しない関係をつくることは可能です。

 ある人の「その人らしさ」や「かけがえのなさ」は個人の属性には宿りません。個人の属性を捨象した先に待っている本当のその人に出会うためには、属性を突破する必要があり、この突破する推進力になるのが肯定的な感情(愛情や友情)ということになります。

 

「属性」と「自分」はちがう

 属性に依存した「評価としての承認」と、属性に依存しない「かけがえのなさ」にもとづく感情的承認のちがいについて述べたいと思います。

 まず、自己意識の持ち方(自尊の感覚)として、「社会的に価値あるものとして評価されている属性を持っている自分」という感覚と「自分はかけがえのない自分自身である」という感覚があります。前者と後者は一体のなっているわけですが、やはり後者の方が本質的です。

 前者は属性に依存していますが、後者は自分自身を拠りどころにしています。属性に依存せず自分自身を拠りどころにできる人というのは、他者から「かけがえのなさ」を承認されている人、あるいは「人として」尊重されている人です。つまり、情緒的な感情的承認によって「かけがえのなさ」そのものが承認され、なおかつ「人として」尊重されているという感覚があるからこそ、その人は自分自身を拠りどころとするような自尊の持ち方が可能になっているわけです。

 属性に依存した自尊のあり方は、その属性が「自分」から失われてしまうと、それにまつわる価値も同時に失われることになります。ここから一気に自尊の危機に陥ります。しかし、「自分」が属性ではなく自分自身を拠りどころとしている場合、たとえ属性が失われたとしても自尊は一向に危機に陥らない。たとえ属性が変化したところで自分は自分でしかないからです。そこには、変わりゆくもののなかに変わらない「何か」があり、この「何か」が自分自身の自分らしさであるという感覚があります。

 つまり、「自分=属性」ではなく「自分≠属性」だからこそ、確固たる自尊を持つことができるのです。そのためには「かけがえのなさ」そのものが承認され、「人として」尊重される必要があります。

 

「アイドル」と「属性」と「A」の関係

 社会的価値として認められた属性(若さ、かわいらしさ、かっこよさ…)は、アイドルのアイドル性そのものです。その属性をもっていた「A」は、その属性ゆえにアイドルになれました。でも、同じ理由でAはアイドルのポジションを必ず失います。若さや見た目の美しさは必ず変化していくからです。そのような属性はいずれ失われ、Aはアイドルのポジションを失うことになります。

 社会的に認められた属性に依存した価値は、「アイドルとしてのA」には関係がありますが、「A自身」の価値にはまったく関係がありません。「若いから」Aには価値があると言ってしまうと、「若さ」を失ったAには価値がないということになってしまいます。同じように、「かわいいから」Aには価値があると言ってしまうと、「かわいい」を失ったAには価値がないということになる。このように、属性に依存した価値はその属性がたえず変化し失われていく以上、そこに「A自身」の価値は存在しないのです。

「A自身」の価値はそういったものではない。「A自身」はその属性を含めて日々変化していきます。この日々変わっていくもののなかに変わらない「何か」があるはずです。それはAの属性にではなく、Aの「A性」にあるのではないでしょうか。アイドルのアイドル性は、社会的価値として認められた属性に依存していました。その属性が失われればアイドル性も失われ、アイドルとしてのポジションも失うことになります。

 それと同じように、Aの「A性」について考えてみます。まず、Aの「A性」とは、その人の「その人らしさ」という意味です。そして、Aになれるのは世界のなかでAひとりだけしかいないのだから、AというポジションはAにしか得られない。ゆえに、Aの「A性」は「A自身」に依存している。たとえAの属性が変化したとしても、それによって「A性」が失われることはないはずです。

 それが「A性=その人らしさ」ということです。これこそが何にも依存することのないA固有の価値、「A自身」の価値であり、Aの「かけがえのなさ」(尊厳)です。

 

「かけがえのなさ」と愛別離苦の感情(本質的承認)

「かけがえのなさ」とは、後にも先にも存在しない「世界にたった一つだけ」ということ、「その人はその人しかいない」という唯一無二さのことです。だから、その人がいなくなったらもうその存在に逢うことはできない。「かけがえのなさ」を持つ存在は交換不可能・代替不可能な存在です。

「かけがえのなさ」とは、その人が死んでしまったらもはや二度と逢うことができない、という愛別離苦の感情が生まれる淵源です。過去にも未来にも存在しない唯一性なる存在者がこの世界に誕生し、誕生した唯一性なる存在者どうしが奇蹟的に出会い、「この人に出会えてよかった」と思うこと。そして、愛別離苦という感情が生じること——。

 世の中の99.99%ぐらいが「ダメ」(肯定できない)としても、残り僅かの肯定可能性を信じられる根拠があるとしたら、それは奇蹟の邂逅性(出会い)にしかありえず、この邂逅性を担保しているのが存在の唯一性としての「かけがえのなさ」です。

 その意味で「かけがえのなさ」そのものを承認するという感情的承認は奇蹟的な承認であり、実存的なレベルにおける本質的な承認であることがわかります。尊重としての承認が基底的承認であったのに対し、感情的承認は本質的承認であるということができます。

 

その人はいったい「誰」なのか…  本質的承認を阻む物象化

「承認」は常に他者からの承認を必要としており、自分を自分で承認するという「自己承認」のみで自己(自尊)を構成することは不可能であると考えられています。なぜなら、人間はたった一人で自立的に生きていくことは不可能だからです。社会的存在としての人間は、必ず他者からの承認を必要とします。*11

 自己承認できないということの意味は、「自分」は自己のみで他者の力を借りることなく「自分」を明示することができない、ということです。これは自分の顔を自分で見ることができないことに似ています。

「自分」は世界に一人しか存在しない「かけがえのない自分である」ということを内心うすうす気づいてはいるのですが、実感的に確証が持てない。でも、他者からの承認があれば「自分はかけがえのない存在なんだ」という実感が湧いてくる。この「湧いてくる感じ」を自分ひとりで生みだすことができないのです。

 しかし、他者はちゃんと「自分」を見てくれるわけではない。社会空間では人と人とが出会うとき、まずはじめに認識されるのはその人が「誰であるか」(かけがえのなさ)ではなく「何であるか」(属性)だからです。その人が「何であるか」という問いは、あくまでもその人の属性的な性質(性格・身体的特徴・能力・職業など)のことであって、その人が「誰であるか」ということとは本質的に関係のないことです。

 たとえば、その人に障害があるかないか、病気か健康か、認知症になる前となった後、そういったちがいや変化はすべて「何であるか」に関わる属性的な性質のことであって、その人が「誰であるか」には本性上、関係ありません。つまり、その人に障害があり、認知症だったり、たとえ脳死状態で意識がなかったとしても、その人のことを「誰か」として呼びかける「かけがえのなさ」を持つ存在者と認めるのなら、属性的な性質がどうあろうとその人は唯一無二な「誰か」なのです。

 しかし、社会のなかで生きるということは「誰であるか」が「何であるか」という問いによってたえず価値づけられてしまう(評価される)ことを意味します。本当は「自分」の「かけがえのなさ」そのものを承認してもらいたいのに、他者からの承認の対象になるのは「誰であるか」ではなく「何であるか」という属性にいつも向かってしまいます。

 そのように「誰であるか」という問いが「何であるか」という問いに逸れてしまうこと、問いの水準を取り違えてしまう現象を物象化と呼びます。この物象化という現象は、本来、評価の対象にはなりえない尊厳を持った人間をあたかも価格を持った「モノ」のように評価の対象にしてしまうことを可能にします。

 物象化とは「かけがえのなさ」を一つの「モノ」に変換し、人間自身を交換可能・比較可能・測定可能にする装置です。「評価」という態度には、常に人間を「モノ」のように鑑定するまなざしが内在しており、この暴力的鑑定にブレーキをかけるのが尊重という態度なのです。

 そのような物象化は、本質的承認の可能性じたいを奪います。「誰」(who)と「何」(what)を混同することは、本当の「誰か」からの呼びかけに呼応できなくなってしまうことを意味します。「誰であるか」を「何であるか」に読みちがえてしまうかぎり、私たちは本当の「誰か」からの呼びかけには永遠に応えられず、本質的承認としての出会いは阻まれ続けます。「誰か」からの呼びかけに応えるには、その人が「何であるか」を問うのではなくその人はいったい「誰なのか」を問わなければならないのです。

 

「評価」としての承認(属性的=機能的=価格的承認)

条件的承認としての「評価」

 尊重としての承認は「すべての人間」を対象とした広く薄い基底的承認、義務的承認(ゆえに権利的承認)でした。愛情としての承認は感情的承認であり、情緒的な人間関係をベースにした具体的な個人の「かけがえのなさ」そのものを承認対象とする狭く深い本質的承認でした。次に説明するのは「評価」という作用にともなう承認形式です。

「評価」の対象になるのは「すべての人間」です。しかし、これは尊重とはまったくちがいます。すべての人間が評価の対象になるというのは、「すべての人が評価というゲームに参加させられてしまう」ということです。

 尊重は「すべての人間を平等に尊重する」ということですが、評価は「すべての人間を評価の対象にする」とともに、ある評価基準に応じて「高い/低い」という価値序列をつくりあげることです。*12

 従って、評価としての承認は評価が高い人は承認され、評価の低い人は承認されない、という条件的・不平等的承認になります。

 

「評価ゲーム」を要請する資本=社会

 なぜ、すべての人間は評価ゲームに参加させられてしまうのか。おそらく、私たちが学校教育の門をくぐった瞬間から評価ゲームは始まります。

 では、なぜ学校教育は評価ゲームを行うのか。これは、社会が評価ゲームを要請しているからです。ならばなぜ、社会は学校教育に評価ゲームを要請するのか。これは、経済を回すため、生産サイクルを滞りなく運営するため、すなわち「資本」に準ずる社会的要員(労働者)を確保するためです。以上のことを一言でいうなら、社会が資本主義社会だからすべての人間は評価ゲームに参入させられるわけです。

 評価としての承認は「資本主義社会だから」要請された特殊な承認形式です。伝統的な身分制の社会では、すべての人間が評価の対象になるわけではなく、「身分」によって評価すべき対象と評価すべきでない対象が差別的に分かれていました。この段階では「評価ゲーム」は成立しません。

 しかし、自由主義社会では身分制が廃止され、評価対象は「すべての人間」に拡大し、評価基準は「身分」ではなく個人の「能力=業績」にあると捉える業績主義の社会になりました。そして、資本主義社会ではその業績内容が「資本への貢献度」によって測られます。ここから私たちがよく知る「評価ゲーム」は始まったわけです。

 

評価の対象は「属性」

 評価としての承認は、あらゆる個人の「属性」をその対象とします。評価にもとづく承認は条件的であるとともに属性的承認です。愛情としての承認は「かけがえのなさ」そのものを対象としていましたが、それとは逆に評価としての承認は「かけがえのなさ」ではなく「属性」が対象になります。

 なぜ、評価としての承認対象は「その人そのもの」ではなく「属性」になるのか。これは「評価」という作用を考えるとわかります。評価というのはある一つの目的や目標を想定し、この「目的の相」のもとに人々をまなざすとき発生する作用です。つまり、ある目的を達成するために「適う/適わない」というコード(手段的まなざし)が評価の作用の淵源にあります。

「適合/不適合」を判断するためには「数量化・比較・測定・交換」できることが想定されていなければならない。ゆえに、評価とはある目的(価値)という体系にもとづいてあるものを「数量化・比較・測定・交換」できるものと見做す作用です。

 学校教育では生徒のありとあらゆることが「数値化」されて評価されます。しかし、生徒ひとり一人の存在としての「かけがえのなさ」そのものを数値化することは不可能です。人それぞれの存在じたいに「固有値」のようなものがあったとしても、これを一つの座標軸に並べることはできません。固有値をまとめ上げる軸そのものが世界に存在しないからです。

「存在」は評価の対象になりえない。人間の「かけがえのなさ」そのものを評価するというのは倫理的に許されないことですが、実はそれ以前に原理的に不可能なのです。よって、評価の対象になりえるのは人間の「属性」だけです。

 

「属性」と「存在」の倒錯現象(物象化=錯覚)

 あらゆる個人は社会空間を生きるとき、学校や会社などに所属しながら何らかの社会的な肩書きや役割を帯びることになります。このような社会的役割にはあらかじめ社会的に設定されている価値(地位)が付与されており、かけがえのない存在だった個人がその社会的役割を帯びると、あたかもその人自身に特別な価値が内蔵しているかのような存在に仕立て上げられます。前述した物象化の原理によって「誰であるか」が「何であるか」に変換され、「属性」と「存在そのもの」が倒置されてしまうのです。

 評価としての承認は、そのような物象化による「錯覚」がともなうことによってはじめて作用する承認です。個人の属性が条件的に評価されることによって、あたかも存在そのものが承認されたと錯覚するわけです。これなしでは評価ゲームは成り立たない。私たちが周囲から評価されるためにがんばったりするのは、そのような属性と存在の混同を促す錯覚メカニズムがあるからです。

 評価すること/評価されることを「錯覚だから」という理由から却下することはできません。それを言うなら「尊重」も「愛情」も錯覚なしには成り立たない承認です。たとえば、「すべての人間を平等に尊重する」という場合、これは「動物/人間」という区別を意図的に設けており、動物は尊重の範囲外に排除されます。ここから「人間」という概念がある種の錯覚(フィクション)なしには成り立たないことがわかります。また、「愛情」は理不尽で不合理な感情の上に成り立つ錯覚そのものです。

 

社会的価値と承認資源(リソース)

 評価としての承認が錯覚にもとづく承認であったとして、この錯覚を多く体験できる人と少なくしか体験できない人がいます。評価は自由競争(=ゲーム)を前提にしているので必ず格差が生まれるわけですが、低くしか評価されない人を同じ基準を用いてあらためて高く評価しなおしたりすることはできません。評価はどんな評価であっても原理的に不平等にならざるをえないのです。

 社会的に高く評価されたいと思っている人がまず最初に考えることは、高く評価される属性を持っていなければならない、ということだと思います。この「高く評価される属性」というのは、社会的・文化的な価値パターンによって社会のなかであらかじめ決定されています。

 属性は社会的・文化的価値パターンによって構成された価値序列(階層構造)のどこに位置するかによってその高低(地位)が決定されます。たとえば、「職業」の種類もそのような社会的価値にもとづいた価値序列と階層構造を有しており、「ある人がある職業に就く」ということは「ある人がある階層構造のある位置に属する」というかたちで価値化され評価されることになります。

「社会的に高く評価される属性を持っている」ことと「社会的に高く評価される」ことと「社会的に承認される」ことはすべて連動している(属性=評価=承認)ということになります。

 そう考えると、「高く評価される属性」は社会のなかに存在する「承認資源(リソース)」であるということになります。もし「多様性のある社会」を定義するなら、そのような承認資源が社会のなかに予めたくさん用意されている社会が多様性の高い社会だと言えます。

 しかし、資本主義社会では、ある一つか二つの変数によって人々を評価し、「能力のある人」「役に立っている人」「活躍している人」「かっこいい人」と言ったように「できる/できない」や「容姿の見た目」のような少ない承認資源しか存在せず、このかぎられた承認資源をめぐる評価ゲームが展開されています。特に資本主義社会ではその性質上、労働中心主義の社会なので承認資源が「労働」だけに著しく偏っています。

 

社会的承認機会(承認資源)の少ない日本社会

「できる人」はいいとして、あることが「できない」と評価された人がそれでも「できない」なりに承認される可能性はないのでしょうか。つまり、評価の軸をもっと多元的に広げることによって、誰もがそれなりに評価され承認される機会を保障するのです。やはりそのためには、社会のなかに今とはちがうもっとたくさんの多元的な承認資源を増やすことが必要になると思います。

 今の日本社会を考えると、明らかに承認資源に乏しい(多様性がない)社会であることがわかります。なぜ、そんな状況ができあがってしまったのでしょうか。「できる」とか「持っている」といった変数がどうしてこれだけ過大に評価され、それ以外は認めないような社会構造になってしまったのか。

 まず考えられるのは、戦後の再近代化をいち早く達成しアメリカにキャッチアップするためには、多様性のある社会から一元的な社会へと急激に切り替える必要があったことです。これはいわゆる「モノの豊かさ追求モデル」と言われるもので、社会全体のリソースを経済的なモノの豊かさ(GDP上昇)に全力で傾斜させる高度成長=大量生産型の社会構造に転換することです。このような一元的な社会(同じものを大量に生産する体制)に適合するための人員(労働者)を大量に生みだすためには、社会に存在する多様な承認資源もそれと同様にある一つの承認資源へと一元化することが必要だったと考えられます。

 そのような社会構造は低成長社会になった今でも変革されることなくダラダラと惰性体のまま存在し続けています。右肩上がりの成長期には合理的に機能したあらゆる事柄が、低成長社会になればマイナスしか生まない逆機能として作用しています。

「できること」や「役に立つこと」を過大に評価することによって、人々を豊かさに向かって駆動するような「豊かさ追求モデル」はもはや有効に機能していません。だとしたら、それとはまったくちがった駆動原理が必要であり、そのためには社会のなかに今とはちがった承認資源を準備することが求められます。高度成長が見込めない低成長社会には、それに見合った多元的な承認資源が必要であり、一元的社会から多様性のある社会へと変換することによってあらゆる人の社会的承認機会を確保することこそが経済成長につながると考えられます。

 労働中心主義の社会では「労働」だけが承認資源になっており、働けない人や働く機会に恵まれない人は社会的承認機会から排除されることになります。また、低成長しか見込めないポスト近代社会では、必ずしもすべての人が働く必要はなく、少ない労働で多くの経済を回すことが可能です。よって、ポスト労働社会では労働にかわる何らかの承認資源を社会的に発明することが急務になります。

 

「かけがえのなさの抹消」はなぜ起こるのか

 かけがえのない存在だった人が「社会的役割」という衣装をまとって社会的に価値化されると、この社会的価値にもとづいてその人は評価されることになります。評価されるということは、その人は比較可能な対象になり、優劣化・序列化の対象になることを意味します。優劣や序列によって、その人は交換したり代替したりできるような対象となります。ここにおいて、その人の「かけがえのなさ」は社会的に抹消されるのです。

 そもそも優劣や序列が存在するはずのない人間に、つまり「かけがえのない存在」に、なぜそのような「区別」が存在するようになるのか。なぜ「ヨコ並び」から「タテ並び」へと変換されてしまうのか。

 かけがえのない存在(優劣や序列のない存在)だった人間は、優劣や序列が社会的に設定されている「役割」や「社会的位置(地位)」のなかに属性評価によって組み込まれ、本来の「かけがえのなさ」が抹消されます。そして、「ヨコ」から「タテ」へと変換され、あたかもその人自身の存在に特別な価値が内蔵している(していない)かのような人間に仕立て上げられるのです。

 人間の存在そのものに規定された個人の「かけがえのなさ」は、比較不能・数量化不能・測定不能・交換不能であり、存在そのものは評価不能なものです。このような測定不能で無量なもの、他者に決して譲り渡すことのできない不可譲で不可侵なものには必ず「神聖性」が宿ります。この神聖にして侵してはならない存在そのものの性質を「尊厳」と呼びます。それに対して「価格」という概念には、比較可能・数量化可能・測定可能・交換可能な「モノ」の価値を鑑定(評価)するという意味が込められています。

 人間の存在そのものは「尊厳」であって「価格」ではない。「かけがえのなさ」の抹消は「尊厳」が抹消されるわけではなく、正確に言えば、人間の尊厳じたいが一時的に忘却されてしまっている状態です。この一時的な忘却が通時的な忘却になってしまうとき、「評価の暴走=優生への傾き」が起こってしまうのです。

 

立ち向うためには「立ち向わなくてもよい場所」が必要(かけがえのなさの復活のために)

 評価としての承認を生みだすには、存在と属性の倒錯を可能にする錯覚(物象化)が必要になってくるのですが、そこには「かけがえのなさ」の抹消という大きな副作用がともないます。この副作用を打ち消すために必要とされるのが「かけがえのなさ」そのものを承認するという「愛情としての承認」です。

 評価としての承認は愛情としての承認の裏返しになっており、評価ゲームのなかでプレイヤーとして戦うためには、戦わなくてもよい場所(評価されない場所)が必ず必要になります。

 つまり、評価ゲームが成り立つ前提として「評価のまなざしが向けられない場所」が社会のなかにあらかじめ用意されている必要があるのです。個人がたった一人で「市場」という過酷な評価ゲームに立ち向かうためには、「立ち向かわなくてもよい場所」があってはじめて可能になる。それは「学校的価値」や「労働的価値」の及ばない場所、それとはまったく異なった原理によって運営されている場所です。

 一番いいのは「家族」がそういう居場所であることです。しかし、家に帰ってくれば「勉強しろ」とか「勝ち組になれ」という言葉が飛んでくる。子どもを常に学校的評価のまなざしで「できる子/できない子」と判断してしまう。これだとどこへ行っても「評価的まなざし」から自由になれず、「かけがえのなさ」が抹消された状態のまま生きることを余儀なくされます。

「評価的まなざし」をたえず浴びせかけられる存在は「黙って存在していることすらゆるされない空気」を常に感じたまま、能力主義やすべてを市場化した価値観によってどこへ行っても息がつけない息苦しさを強いられます。

 評価のまなざしから生まれ出た内面化したスティグマ(ダメな子)を、自分ひとりで脱スティグマ化するのはむずかしいことです。周囲の差別や偏見という外圧にたったひとりで立ち向かうのは不可能でしょう。

 何かに立ち向うためには「立ち向わなくてもよい場所」としての「居場所」が必要になります。そして、この居場所は「評価原則」ではなく「愛情原則」と「尊重原則」によって運営されなければなりません。そのような居場所に所属することによって個人の「かけがえのなさ」は復活可能になります。*13

 

「優生への傾き」は「存在」を評価するところからはじまる

 評価としての承認が対象にしているのは、すべての人間の「属性」でありその「機能」です。社会的価値は人間の属性とその機能に付与されているのであって、決して人間そのもの、存在そのものが評価の対象とされているわけではありません。

「存在」は評価の対象ではなく、尊重の対象です。すべての存在を平等に評価することは不可能ですが、すべての存在を平等に尊重することは可能です。尊重原則はすべての人間に義務として課され、権利として保障されます。

 なぜ、相模原障害者殺傷事件のような優生思想の暴走が起こってしてしまうのでしょうか。これはおそらく、人間の存在と属性、「存在の価値」と「機能の価値」を混同し、ある人の属性的価値や機能的価値が低い場合、その存在そのものまでが低いと「評価してしまう」ことに原因があると思います。つまり、存在そのものは評価の対象にできないのに評価の対象にしてしまうこと。そして、評価の低い存在は「生きるに値しない生」であると認定し、あたかもモノを捨てるかのように殺害可能であると判定します。

 そのような「優生」への傾きは、ある人の「質」を評価しようとするまなざしからはじまります。次に、その人の「質」を決めているのは、その人の属性によって生みだされる「機能の高さ(能力値)」だと考えます。存在そのものは評価の対象にすることはできないので、存在そのものと機能の価値を結びつけ、機能の価値の高低によって存在の価値の高低をも評価する。

 つまり、ある人の存在を「存在=機能」と見做した上で「機能(存在)」の価値を評価し、これをもって存在そのものの価値であると断定する。ここから「存在価値のない人間は生きるに値しない」と考える。これが優生思想の初歩的原理です。

 

「存在価値」と「機能価値」の倒錯現象は「優生社会=生を否定する社会」につながる

 生産性・効率性の低い人、活躍していない人、社会の役に立っていない人、できない人……。このような見方によって「存在そのもの」を否定してしまう人がいます。人間の存在そのものを機能価値でもって評価してしまうのは、根本的に倒錯した価値観であることに気づくべきです。

 生身の人間を労働力商品と見做し、この労働力商品としての人間を能力主義的に評価することは非常に暴力的で差別的なことです。資本主義を回すにはそのような暴力的なシステムを採用することが効率的だったので、「人間の尊厳」を脅かさないという条件のもとでシステムを作動させるというのが人権思想の歴史的教訓でした。

 もし、システム作動の効率性のみを追求するのなら、今すぐ奴隷制を復活させるのが一番良いはずです。しかし、それは許されない。人間を労働力商品と見做すからといって人間の存在そのものを商品として売買することは許されていないからです。

 機能価値と存在価値をイコールでつなぐことはそもそもできず、「何かができる/できない」「社会の役に立つ/役に立たない」という弁別とは無関係に、すべての人間の存在価値は無条件に尊重されます。尊重としての承認は、その人の評価に応じて尊重されるのではなく、無条件にすべての人間が尊重されます。

 人間の属性の機能価値を評価すること(労働力商品と見做すこと)と、人間の存在価値が無条件に尊重されることは次元がまったく異なります。このちがいを弁えず、存在そのものを評価の対象にしてしまうことは許されないし、そもそも存在じたいを評価することなどできないのです。

 資本主義社会では生身の人間が労働力商品になってしまうので、「役に立つ人」⇒「有能な人材」⇒「その人そのものに価値がある」という価値観の錯覚が生じます。相対的な機能価値と絶対的な存在価値がイコールだと思ってしまう誤謬です。

 そのまちがった価値観から「社会に役立っている機能価値の高い人」は人間としての存在価値が高いので存在が許され、「社会に役立たない機能価値の低い人」は人間としての存在価値が低いので存在が許されない、という結論を下します。ここから優生思想は「生きるに値する命/値しない命」という選別を行います。

「役に立つ人」というのは「資本(企業)にとって役に立つ人=都合のいい人=機能する人」という意味です。役に立つからと言って「その人のその人らしさ(かけがえのなさ)」にはまったく関係がない。もし、その人よりも役に立つ人がいれば別の人でも(あるいはロボットでも)代替可能なのです。

 何かの役に立つという発想は、何かの目的の手段や道具になっているということであって、他の便利な手段や道具があれば(機能的等価ならば)誰だって(何だって)よいわけです。

 働いていなくても(働いているか・働いていないかに関係なく)人間存在は無条件に尊重(承認)されるべきだと思います。ここが確保されているからこそ、労働市場における能力主義的な選別・評価(差別)が正当化されるのだと思います。

 新自由主義的な自己責任型の社会では、尊重の無条件性を無視します。労動市場における役割関係的な機能的・能力的価値と人間の存在としての価値を混同してしまい、労働市場から排除された人の存在価値までをも否定するといったような倒錯を引き起こしています。そしてここから「優生への傾き」を招き「優生社会=生を否定する社会」につながっていくのです。

 

「生きづらさ」と「自尊」の関係

 

「自尊」を構成する三つの承認形式

「尊重」「愛情」「評価」の三つの承認形式をそれぞれ詳しく論じました。この三つの承認形式が重なり合うところに人間の「自尊」の感覚が生じてくるのだと思われます。それを図にすると以下のようになります。

 

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尊重原則

 まず、「尊重原則」は「尊重としての承認」をおこなう領域圏内を指します。承認対象の範囲は「すべての人間」であり、承認対象は「人間の尊厳」です。無条件的・一般的・普遍的な承認であり、すべての人間の基礎的な部分を支える基底的承認として位置づけられます。

「人間の尊厳」とは人間存在の特徴としての「かけがえのなさ」に由来し、この「かけがえのなさ」ゆえに個人の「かけがえのなさ」を「人として」尊重するのが尊重原則です。

 この尊重原則によって生じる自尊の感覚は「自分を否定してはいけない」という感覚、つまり「自己尊重」「自己尊敬」「セルフ・リスペクト」になります。

 

感情原則

「感情原則」は「愛情としての承認」をおこなう領域圏内を指します。承認対象の範囲は「特定の親しい個人」(親密圏)であり、承認対象は個人の「かけがえのなさ」そのものです。

 誰を承認するのか(範囲)は個人どうしの出会いに左右されるので条件的で具体的ですが、承認のされ方じたいは無条件的で全面的・包括的になされる狭くて強い承認です。情緒的な結びつきによる感情的承認であり、承認強度が最も大きく、個人の「かけがえのなさ」そのものが承認される本質的承認です。

 この感情原則によって生じる自尊の感覚は、自らの「かけがえのなさ」を信じることができる「自己信頼」、あるいは「自分は自分でよい」という「自己肯定」の感覚になります。

 

評価原則

「評価原則」は「評価としての承認」をおこなう領域圏内を指します。承認対象の範囲は「社会を生きるすべての個人」であり、承認対象は個人の「属性」、あるいは「属性」の働きとしての「機能」です。この承認の特徴は、社会的・文化的な価値パターンによって評価される属性(承認資源)があらかじめ社会的に決まっているところにあります。

 評価される属性を個人が持っているかどうかが承認される条件となるため、評価としての承認は条件的承認になります。そして、評価の対象となる属性にはその機能価値にもとづいた「価格」が付与され、労働力商品の「値札」になります。従って、評価としての承認は属性的承認であり、機能的承認、価格的承認になります。

 この評価原則によって生じる自尊の感覚は「自分には価値がある」という感覚、「自己評価」の感覚につながります。

 

友情・友愛

 尊重原則と感情原則の重なり合う場所に発生するのが「友情・友愛」です。これは「親しき仲にも礼儀あり」という慎みをベースにした距離感がポイントになります。

 親しい人の「かけがえのなさ」そのものを感情的に承認すると同時に、その人とある一定の距離感を保ちながら「人として」尊重することも忘れない。「感情」の暴走や嫉妬や束縛のような愛することにまつわる負の感情にブレーキをかけるのが尊重原則の働きです。

 この領域のベースとなる基本コードは「信頼/不信」です。相手を信じられるかどうかが友情・友愛の試金石(規準)となります。

 

評価としての尊敬

 尊重原則と評価原則の重なり合う場所に発生するのが「評価としての尊敬」です。これはある特定の優れた人物(たとえばマハトマ・ガンジーなど)に対して抱く尊敬の念や敬意の念です。

 評価原則によって特定の人物の属性を評価しつつ、その特定の人物の存在の「かけがえのなさ」を人として尊重します。つまり、評価原則と尊重原則が分かちがたく結びついているところに評価としての尊敬が成立します。

 あまりにも評価が高い人物に対しては、何だか評価することじたい失礼な感じがしてくることがあります。このとき感じる「失礼な感じ」が尊重という原則を導き、評価ではなく「人として」尊重することを命じるのです。

 この領域のコードは「非凡/平凡」です。圧倒的に優れていること、単に能力があるというだけでなく人間としてもすばらしいと感じることが一つの規準になるかと思います。

 

恋愛

 感情原則と評価原則が重なり合う場所に発生するのが「恋愛」です。恋愛的承認、あるいは性的承認は、あらゆる個人をある特定の価値基準(好みのタイプ)によって評価・選別し、「この人ならよい」と合格した人だけを条件的に承認します。承認形式は愛情としての承認ですが、選別方法が評価的で条件的なのが特徴です。

 恋愛関係の初歩的段階では評価原則が有効に作用していますが、関係性が深まっていくほどに評価原則は尊重原則へとシフトし、恋愛的関係から友情的・友愛的な関係になっていくことが恋愛の成熟期(質の深まり)になります。

 恋愛関係には「関係を取り結ぶこと」と「関係を維持し続けること」と「関係の質を深めること」の三つの段階があると考えられます。そのうち「関係の維持」と「関係の質」は相互浸透的です。質が深まれば関係は続き、関係が続けば質が深まる。要は、セールスマンのように契約を取りつける能力と契約更新をしてもらえるようにあの手この手で顧客との関係を維持し深める能力の二つのスキルが必要なのです。

 この領域のコードは「モテ/非モテ」ですが、「モテるかどうか」と「関係を維持して深めることができるかどうか」は基本的には関係ないと言えます。いくらモテても関係を深めて持続可能な関係をつくることができなければ、モテることは承認関係としての恋愛にはまったくつながらないことになります。

 

承認形式の見取り図

 承認には三つの承認形式があり、その重なり合う三層構造によって自尊の感覚が生みだされ維持されています。このような三層構造のバランスが崩れるきっかけとなる承認不足や非承認の感覚は、そのまま自尊の感覚へとダイレクトにつながって行き、ここから生きづらさの感情が生じてくると考えられます。

 承認という作用には、単に「承認欲求がある」とか「自己肯定感がない」といったような漠然とした水準では捉えることのできない複合的で多層的な面があることが分かりました。とりわけ「複合的で多層的」という点が重要であると思います。単純に恋愛ができれば幸せになれるとか、金持ちになればハッピーであるとか、見た目がよければ万事オッケーというわけではないのです。

 

俯瞰的承認地図

 今まで述べてきた承認形式を一つの座標にあらわすと下図のようになります。これは承認形式の見取り図として見ることができると思います。

 

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  縦軸に「一般的↔個別的」の軸を取り、横軸に「条件的↔無条件的」の軸を取ります。縦軸は「社会」と「個人」の関係に対応し、横軸は「機能」と「存在」の関係に対応しています。

 

(1)生の無条件の承認(尊重としての承認)

 一般的で無条件的な承認として位置するのが「生の無条件の承認」です。これは尊重原則の領域に対応し、個々人の「生」は国レベルでは生存権憲法25条)によって保障され、また、憲法13条の「個人の尊重」としても保障されています。しかし、国レベルでなくとも個人間の相互尊重は倫理的に要請される基本的な義務であり権利です。

 尊重としての承認が対象にするのは、人間の生(存在)そのものであり、これによって個々人の尊厳は保障されます。「すべての生が否定されない社会」すなわち「すべての生が無条件に承認される社会」は、まずはここの領域を社会全体で今以上に豊富化し支えることが必要になってきます。

 特に重要になってくるのが、「評価原則による暴走」にブレーキをかけていかに評価の暴走を抑制させることができるかという点です。そのようなパワーバランスを保つためには、今の社会を「生の否定型社会」(評価重視型)から「生の尊重型社会」(尊重重視型)へと構造変革することが求められます。

 

(2)愛情的承認

 個別的・無条件的な承認として位置づけられるのが「愛情的承認」です。感情原則による愛情としての承認に対応します。自己の実存レベルの「かけがえのなさ」が無条件的に全面的・包括的に承認されます。この承認によって自己は存在に対する信頼を獲得し、「自分は自分でよい」という自尊の感覚を持つことができるようになります。

 しかし、愛情は義務や権利の対象ではなく、あくまでも個々人が自由に獲得する善です。幸福な善き生を実現することは個々人の自由に託されており、権利として保障されているのはそれを追求する自由だけです。

 愛情は常に不平等なものです。すべての人を平等に好きになることはできず、必ず「愛情に恵まれる人/恵まれない人」の格差が生じます。

 では、どうにもならないのか。そんなことはないと思います。(1)の生の無条件の承認が確保されているかぎり、人と人とが出会う機会と試行錯誤の自由は担保されています。つまり、幸福な善き生を追求する自由が実質的に保障されていれば、あとは試行錯誤を続けるしかない。それに加えて、社会的に「立ち向かわなくてもよい居場所」をつくり、評価原則ではなく尊重原則と感情原則が働くような居場所をどれだけつくるかが重要になってくると思います。

 

(3)属性的承認

 個別的で条件的な承認として位置づけることができるのが「属性的承認」です。評価原則に対応し、自己の属性が条件的に承認対象になります。属性は「価格」を持ち、存在は「尊厳」を持ちます。また、属性は社会的価値に準じた機能価値を持ち、これが評価されることによって「価格」が決定します。この承認によって自己評価としての自尊を獲得し、自己は「自分には価値がある」という感覚を持つことができます。

 評価は自由競争(評価ゲーム)のなかで他者との比較優位性によって判断されるため、結果的に評価はすべて不平等になります。この格差は、自己の「努力」や「能力」の結果だと見做されます。

 しかし、属性が高く評価されるか低く評価されるかを決定しているのは、あくまでも社会構造によって構成された価値パターンであり、この承認資源としての価値パターンを複数化・多元化することによって社会的承認機会(評価される機会)を今よりも増やすことが可能になります。つまり、評価の著しい格差を生んでいるのは個人の属性ではなく、社会構造が規定している社会的・文化的な価値パターン秩序なのです。

 現在の日本社会(新自由主義社会)では、評価原則が著しい暴走を起こしています。どこまでもどんな空間でも個人を「評価のまなざし」で見る、見られる。これは学校教育が始まるところからスタートします。

 評価原則はすべての人間を「評価」という一つの価値基準(モノサシ)で一つの価値地平に並べ立てる。そして、人々を序列化・階層化・比較化・数値化し、あたかも自分自身の存在に値札が付いているかのような錯覚を常態化させます。この「評価原則の暴走」をいかに抑えるかが生きづらさの低減(自尊のバランス)のカギであると思われます。

 

(4)社会的承認(労働としての承認)

 一般的で条件的な承認として考えられるのが「社会的承認」です。これは主に労働によって達成されます。仕事で社会の役に立っている感じ、自分は社会に貢献しいるという感覚です。それに加えて、社会的地位の高い職業や誰もが知るような有名企業で働いている場合、その地位や所属や役割に付与された価値と自分自身を一体化させることによって、労働は属性的承認へと転化します。

 労働をすることによって精神的なアイデンティティ・レベルの承認を得るだけではなく、報酬(お金)という対価を受け取ることによる充足感やある種の手応えを感じることができます。物質的な具体性を手に入れることにより、生活の豊かさを享受することが可能になります。

 そう考えると、労働というのは物質的レベルの生きづらさ(貧困)と精神的レベルの生きづらさ(承認)の二つに同時に関係することができる社会的にとても重要な活動であると言えます。

 ゆえに、労働市場から排除されてしまう人たちにとっては、一気に二つの生きづらさ(貧困も承認も)に陥ることになります。また、非正規労働のように不安定な就労を余儀なくされる人たちにとっては、働いてもギリギリの生活水準をキープできるか相対的貧困レベル以下の生活を強いられるワーキングプア状態に追い込まれます。

 労働市場はすべての人に対して「まともな労働」を約束しません。働けない人はもとより、たとえ働いていたとしても貧困や承認不足に陥ります。今や労働市場ワーキングプアを前提条件に回っており、激安な労働者がいないとコンビニやファミレスや牛丼屋は回らない。激安労働でも生活できるのは労働者が親と同居しているからです。

 労働市場は「働いても食えない」条件を前提に回っています。この条件下で「働かざる者食うべからず」は成立しません。もし、そういうことが言いたいのであれば、まずは労働市場を健全化し、働いても十分に生活できるレベルが担保される必要があります。

 

 

「ただ生きている」だけで生が否定されてしまう社会

 

「評価原則の暴走」と機能価値を重視する社会

 以上の考察からいくつかのことが分かりました。生きづらさの二つの位相(物質的貧困と精神的承認)。この生きづらさに対応した政治的・制度的セーフティネット憲法25条と憲法13条)。承認に起因する生きづらさには三つの領域があり、それぞれ「尊重原則」「愛情(感情)原則」「評価原則」が重なり合う場所に自尊が構成される。

 自尊を構成する「尊重」「愛情」「評価」のバランスが崩れるとき、自尊は毀損され、ここから「生きづらさ」という感情が生まれてくると考えられます。

 

承認形式のパワーバランス

 三つの承認形式のバランスは以下のような三層構造をしています。

 

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 まず、基底的承認である「尊重」が土台を成し、その上に本質的承認である「愛情」の領域がつくられ、そのまた上に属性的承認である「評価」の領域が開かれる。つまり、尊重あっての愛情であり、尊重と愛情が十分に確保された領域(立ち向かわなくてもよい場所)があってはじめて評価のゲームが展開される。このような順番で各々の承認領域が構造化されないかぎり、自尊のバランスや恒常性は保てないと考えられます。

 また、三つのパワーバランスは相互に抑制的で補完的な関係にあります。愛情の暴走を尊重は抑制する(親しき仲にも礼儀あり)。尊重はすべての個人を「人として」承認し、愛情は個人の「かけがえのなさ」を承認する。尊重がすべての人を広く浅く承認するのに対し、愛情は特定の個人をピンポイントに狭く強く承認します。

 評価は個人の「かけがえのなさ」を抹消するかたちでその人の属性を条件的に承認する。愛情はその抹消された「かけがえのなさ」を承認することによって個人の「かけがえのなさ」の復活を可能にします。

 評価は資本メカニズムに駆動された社会的要請にもとづいており、評価原則は暴走する可能性を常に秘めています。評価の対象になりえない「存在」じたいを属性の価値によって評価してしまう物象化が起こり、存在に内在する尊厳が忘却されます。これが優生への傾きの始まりとなり、優生思想はそのような過程を経て「生きるに値しない生」の抹殺を企てます。

 このような評価原則の暴走を防ぐには、尊重原則がブレーキをかける必要があります。尊重はすべての人に対して平等に行われるものであって、人間の存在は「評価に応じて」尊重されるのではない。この逆転が起こってしまっているのが「生を否定する社会」の特徴です。

 

「評価原則」の暴走

 すべての人が否定されない社会とは、基底的承認である尊重原則が評価原則の暴走を抑止している社会です。今の日本の社会では何も考えずに社会適合的に生きていると、何らかの証明(高く評価される属性)を示さないかぎり自動的に否定されてしまう「存在否定型」の社会です。評価原則の暴走が「生の否定」につながっているのです。

 まずは、「尊重」と「評価」を明確に区別することが必要です。評価できるものは評価し、尊重すべきところは尊重する。存在そのものは評価の対象にはなりえず、評価の対象はその人の属性でしかありえない。

 属性の持つ機能価値が評価の対象であり、この属性の評価と存在そのものは区別すべきなのです。存在そのものは尊重の対象、あるいは愛情の対象にしかなりません。このちがいと原則を踏み越えるところから評価の暴走=生の否定がはじまります。

 なぜ、評価原則は暴走するのか。それは評価原則がいったいどこからやってくるのかに関係しています。評価原則は「資本」の要請です。尊重原則はすべての人間の「かけがのなさ=尊厳」を守る社会契約からの要請であり、感情原則は人間の自然な情緒的関係に由来しています。それに対して、評価原則が付き従うのは資本のメカニズムです。

 

「生身の人間」と「労働力商品」

 資本主義が成り立つための最も重要な条件は、人間の生身の身体を労働力商品と見做すことです。人間は「労働力商品である」のか、あるいは人間を「労働力商品と見做す」のか。この二つのちがい(「である」と「見做す」)は重要です。

 人間を労働力商品と見做していたことが忘却され、あたかも人間そのものが商品であるかのようになってしまうことがあります。このような物象化によって人間はモノのような存在として扱われるようになります。

 人間の存在がモノ化してしまう物象化によって、評価原則は暴走します。そもそも評価という作用を成立させるためには、必ず物象化が必要であり、人間の存在じたいをある種のモノのように鑑定するのが評価という行為です。

 人間の存在と属性の関係は、人間の生身の身体と労働力商品との関係に対応しています。つまり、評価原則は存在(生身の身体)を属性(労働力商品)と「見做す」のです。このとき「見做すこと」を忘却し、「存在(生身の身体)は属性(労働力商品)である」となってしまうこと。ここから評価原則の暴走がはじまります。

 

機能価値を重視する社会構造

 すべての生を否定しない社会とは、現状の「生を否定化する社会」を改めることです。今の社会では「ただ生きている」だけの生はその存在が否定されてしまう。社会への貢献性を積極的に証明できないかぎり、その生は社会から自動的に否定されてしまうのです。

 そこから「ただ生きているだけで否定されない社会」へと転換する。すごく単純で簡単なことですが、既存の社会の価値観はそのような構造転換に抵抗します。

 なぜなら、社会から評価されること、社会の役に立っていること、社会で活躍することがとても重視されている社会だからです。人間の存在そのものよりも属性や機能価値の高さを重視する社会構造は、下記のように存在の価値と機能価値を天秤にかけ、存在そのものよりも機能価値の重量を重くします。

 

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 そもそも存在価値と機能価値を同じ天秤上に配置して秤量化することはできないのですが、存在と属性の倒錯を可能にする物象化の錯覚現象によって、それが可能になってしまうのです。

 存在価値と機能価値が天秤にかけれら、機能価値を存在価値よりも重くすることは、下記のように機能価値が存在価値を規定することを可能にします。

 

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 存在価値と機能価値はそれぞれ分離している状態から重ね合わされ、二つが重なった部分のみが存在価値として肯定され承認されます。そして、機能価値と重なっていない存在価値の残りの部分は無価値であると評価され否定されます。これだと機能価値の大きさによって存在価値の承認範囲が条件的に確定されてしまうことになります。

 以上の説明から、物象化と評価原則の暴走は次のような過程によって行われていることが分かりました。

 まず、存在価値と機能価値を天秤にかけ、存在価値よりも機能価値の方に重きを置く(物象化)。

 次に、機能価値と存在価値が重なり合う部分のみを評価の対象とする。これにより、機能価値の大きさが存在価値そのものの評価を決定する(評価原則の暴走)。

 そして、重ならない残りの部分は無価値であると評価し、否定する。(優生への傾き)。もし、機能価値が小さければ重なる範囲がかぎりなく縮小し、存在価値が評価される範囲そのものが狭くなります。重なる範囲がゼロに近づくほどその存在は無価値であると評価され、否定されてしまいます。

 

存在を賭けた労働 けしかける自己実現イデオロギー

強制労働から自発的労働へ

 モノの豊かさを追求する時代(高度成長期)は、物質的に豊かになりたいという欲求が労働者の働く意欲(労働インセンティブ)になっていました。しかし、ある程度豊かさが達成された社会では、そのように豊かさへの渇望を煽ることによって労働インセンティブを稼ぐというやり方が通用しなくなります。

 労働の歴史を振り返ると、一つの画期的ポイントとして「強制労働から自発的労働へ」という大転換がありました。奴隷労働のように労働者の自由を奪って束縛と暴力と恐怖によって「強制的に働かせる」ところから、いつしか労働者は自らの意志で自由に勝手に「自発的に働く」ようになった。この自発性の調達を可能にするのが労働インセンティブです。

 労働インセンティブは、突き詰めると「アメとムチ」(報酬と脅迫)になります。「働かないと生きていけない状態=脅迫」と「働くと豊かになり承認される=報酬」という二つをうまく組み合わせることによって労働者を自発的労働に導いていきます。

 

労働インセンティブとしての自己実現イデオロギー

 高度成長期以降の低成長社会では、「モノの豊かさ追求モデル」から「自己実現達成モデル」へのモデルチェンジが起こります。一部の経営者や御用学者たちは「自己実現」と労働を結びつけ、承認(自己実現)と労働を深く結びつけることによって労働インセンティブを稼ごうと考えました。

 労働は単なる「食いぶち」ではなく、労働者の「存在そのもの」が承認される自己実現の過程である。このような「自己実現イデオロギー」を打ち立て、ここから労働インセンティブを絞り出そうと考えたのです。

 ここから「労働(機能価値)」と「労働者(存在価値)」と「自己実現(承認)」が分かちがたく結び付けられます。自己実現イデオロギーは「存在を承認されたい」という承認欲望を労働インセンティブ(働かせること)へと結びつける装置です。つまり、労働者は「働かないと生きていけない」という状態と「存在が承認されるためには働くしかない」という状況のなかに落とし込まれ、この状況下で自発的労働へと導かれるのです。

 

承認は常に機能価値へと流れる

 そのような自己実現イデオロギーこそが機能価値を重視する社会を生みだし、評価原則の暴走を引き起こします。前述したように存在価値と機能価値は天秤にかけられ、機能価値は存在価値よりも重視されます。このような機能価値を重視する社会構造のもとでは、承認が向かう先が「存在そのもの」ではなく、たえず属性(機能価値)へと流れていきます。

 

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 自己実現イデオロギーから生じる「存在を承認されたい」という承認欲望は、存在そのものに向けられるのではなく常に機能価値へと流れていきます。この構造のもとでは、いつまでたっても存在そのものは承認されない。ここから「存在を承認されたい」という承認欲望は「属性(機能価値)を評価されたい」という評価としての承認にすり替わります。

 そのような「すり替え」を可能にするのが先述した「機能価値が存在価値を規定する」メカニズムです。この働きによって機能価値の高さから存在価値を評価し、存在そのものが評価され承認されているという感覚をつくりだします。

 しかし、存在そのものは評価の対象ではない。存在じたいは評価不能です。だとしても、自尊の安定をつくだすために強引に評価の対象としてしまう。これが評価原則の暴走であり、この暴走を招くきっかけをつくっているのが自己実現イデオロギーです

 

「働かないと生きていけない」という隷属原理

 労働者を自発的労働へと駆り立てるためには、二つの労働インセンティブが機能する必要があります。一つは「働かないと生きていけない」状態であること。もう一つは「存在が承認されるためには働くしかない」という状況があること。

 前者は物質的なレベルにおける生きづらさ(貧困)に対応し、後者は精神的なレベルにおける生きづらさ(承認)に対応しています。

「働かないと生きていけない」状態をつくりだすためには、下記のように「生存」と「労働」を天秤にかけ、生存を労働よりも軽くする必要があります。

 

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 生存を軽くし、労働への傾きをつくる。軽くなった生存の分が労働インセンティブの調達に利用されるわけです。このような調達手法は、本質的には奴隷労働の頃から使用されている古典的な「ムチ」です。

 自由な労働市場という幻想は一部の人にとってのみ自由に見えるだけであり、「働かざるをえない」という状況下で仕方なく労働へと駆り立てられる人にとっては労働は自由ではなく「隷属」そのものに感じます。*14

 

隷属原理と自己実現イデオロギーの相互連関

 以上で説明した二つの労働インセンティブ、すなわち「働かいないと生きていけない」という状態(隷属原理)と「存在が承認されるためには働くしかない」という状況(自己実現イデオロギー)は互いに連動した一つのシステムを形成しています。

 存在価値よりも機能価値を重視する社会構造と、生存を軽くして労働への傾きをつくる奴隷労働型の隷属原理。この二つがうまく噛み合うことによって労働者は自発的労働へと導かれます。

 自己実現イデオロギーを軸にした承認レベルのインセンティブカニズムは下記のように説明されます。

 

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(1)機能価値に重きが置かれている分だけ、承認は存在価値を逸れて機能価値へと流れ込む。

(2)労働は機能価値の重さによって過剰な意味を与えられ、相対的に生存が軽くなる。

(3)軽くなった生存は存在価値そのものを軽くする。存在価値が軽くなった分、さらなる「存在を承認されたい」という欲求が生まれるが、承認は常に機能価値へと流れて行き「存在そのもの」は永遠に承認されない。

 以上の承認レベルのメカニズムと連動したかたちで、今度は隷属原理のメカニズムが働きます。

 

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(1)生存を軽くし、労働への傾きをつける。

(2)重くなった労働は機能価値の重要性を高め、相対的に存在価値の重さが軽くなる。

(3)軽くなった存在価値は生存そのものを軽くする。生存が軽くなった分だけ労働は重くなり、ここから新たな労働への傾きが生まれる。

 以上のように、労働の領域では物質的レベルの生きづらさ(働かないと生きていけない)と精神的な生きづらさ(存在が承認されるためには働くしかない)という二つが互いに一つのシステムとして機能し、それらは資本主義社会を成り立たせるための労働インセンティブの資源として利用されているのです。

 

すべての生が無条件に承認される社会へ

 以上、長々と書いてきましたがここでまとめに入ります。結論めいたことは適宜、要所要所で書いてきましたが以下ではその要点だけを述べたいと思います。

 

「すべての生が否定されない社会」とは…

「生が否定されない」ことを一つの比喩で説明します。

 自己否定的に「私はブスだ」とネガティブな発言をしている友達がいたとして、これをフォローする仕方には以下の三つが考えられます。

(1)君は美しい

(2)君はブスじゃない

(3)ブスでもいい

(1)はネガティブ発言を真逆のポジティブな価値で上書きするフォローです。これは見た目の「美/醜」の価値コードを受け入れた上で「醜」を「美」で上書きします。

(2)はネガティブ発言そのものを否定するフォローです(否定の否定)。ネガティブに対してポジティブを持ってくるのではなく、ネガティブそのものを否定する方法です。これも既存の価値コードを受け入れた上でネガティブだけを打ち消そうとするやり方です。(1)が足し算の発想なら(2)は引き算です。

(3)はネガティブとポジティブを決めている価値コードそのものを否定するフォローです。これは「君はブスでもいい」ということではない。対象は「君」ではなく「社会の価値観」だからです。まず「美/醜」のような社会的価値そのものを否定し、「美/醜」のコードを無効化した上で「別にブスでもいいじゃん」という方向でフォローする。

「すべての生が否定されない社会」とは、(3)を目指しつつ(2)を行うことです。そして、最終的には(3)を実現しようとします。

「できる/できない」という価値コードでいうなら、「別にできなくていい」という方向を目指しつつ「できない」にまつわる否定性を打ち消す。「役に立つ/立たない」でいうなら、「別に役に立たなくていい」という方向を目指しつつ「役に立たない」に付着している否定性を打ち消す。

「ただ生きているだけ」で否定されてしまう社会から「ただ生きているだけ」で無条件に承認される社会へと価値転換するためには、以上のように価値コードを無効化しつつ否定性を打ち消す(引き算する)必要があると思います。

 

「負わされた条件づけ」とは何か

 一言でいえば「資本」です。資本が要請する評価ゲーム。学校教育によって身体化させられる評価原則。どこにいても「評価のまなざし」に晒され、他者から評価されているかたえず不安になる。

 なぜ、評価されたいと思ってしまうのか。他者から無条件に尊重されていないからです。基底的承認レベルの不足を評価で埋め合わせようと必死になります。

 社会には「立ち向かわなくてもよい場所」がほとんどない。どこでも評価の対象にされてしまう。家庭でも学校の成績で評価され、条件つきで承認される。愛情原則や尊重原則が有効に働く場所がないのです。

「存在そのもの」は評価の対象にならないのに人間自身に値札が貼られ、「かけがえのなさ」が失われる。学校ではさんざん「評価のまなざし」を向けられ、社会では「存在が承認されるためには働くしかない」という自己実現をけしかけられ、一方で「働かないと生きていけないぞ」といって脅される。

 以上が「負わされた条件づけ」の一端ですが、そこで問題になっているのは以下のようなことです。

(1)「評価原則の暴走」を許してしまう環境。

 尊重原則や愛情原則が有効に働く居場所がなく、「評価のまなざし」から自由になれない。また、無条件に尊重されないのでその分を評価によって過剰に埋め合わせようとする。

(2)「機能価値」重視の社会構造と承認資源の少なさ。

 評価されるためには社会的に価値の高い属性を持っていることが必要になる。また、社会的・文化的価値パターンによってつくられた承認資源(価値の高い属性)が少ない。ここから一部の人だけが評価され、それ以外は評価されない「格差」が生まれる。

(3)「評価原則」の暴走。

「存在そのもの」が評価の対象になり、機能価値の高さで存在価値そのものが評価されてしまう。ここから優生社会へと傾き、「生きるに値しない命」を抹殺する優生思想につながっていく。

(4)存在を賭けた労働を強いられる。

 隷属原理と自己実現イデオロギーで「生存そのもの」を脅されながら「存在そのもの」のために働かされる。労働市場から排除されると一気に「貧困」と「承認」の生きづらさに陥る。

 

近代は「尊重」と「評価」の分離から始まる

 日本社会は外面は近代的制度によってつくられていますが、マインドやエートスは前近代だと言われています。『日本には「社会」はなく「世間」しかない』阿部謹也、『日本には「公」がない』丸山真男、『日本は「空気」が支配する国』山本七平…等々。欧米に比べると日本は明らかに特殊です。

 事実上、主権がないのに経済大国だと自負していたり、いまだに「人質司法」が行われ死刑制度が存在し、あのアメリカでも残酷だからと却下された絞首刑を毎年実行し続けています。三島由紀夫の有名な言葉を借りるなら、日本は「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国」です。

 もしかしたら日本社会では、尊重原則と評価原則の区別が明確にされないまま、いまだに尊重と評価が未分化な状態なのかもしれません。前近代の封建的な身分制社会では、身分や階級に応じて尊重も評価も為されていました。

 しかし、近代化した社会では身分制は解体され、尊重と評価は分離し、すべての人間は無条件に平等に「人として」尊重されます。そして、個人は属性の機能価値によって評価されます。もし、尊重と評価が未分化状態だと、「評価される人は尊重され、評価されない人は尊重されない」という事態が起こります。評価されるかされないか、好きか嫌いかに関係なく、無条件に尊重するという態度が近代を可能にしました。

 

評価原則に対抗する尊重原則の重要性

 学校教育を思い出してほしいのですが、なぜあれほどまでに子どもは評価の対象にされてしまうのでしょうか。来年度からは「道徳」が正式科目になり、とうとう生徒の「心」すらも評価の対象になってしまいました。

 日本社会では’70年代後半から家庭・学校・地域が「学校的価値」によって一元化されてしまう「日本的学校化」が起こり、学校の評価原則がすべての空間を支配するようになったと言われています。

 それに加えて’00年代初頭から、「人間力」や「生きる力」に代表されるような「コミュニケーション能力」全般を評価の対象とするようになり(ハイパー・メリトクラシー化)、それ以前には評価の対象とされていなかった人間の人格や存在全体までが「評価のまなざし」に晒されるようになりました。*15

「評価のまなざし」から自由になる空間が必要です。「評価する/評価される」という人間関係から自由になり、評価とは関係なく「人として」尊重されること。これが評価原則に対抗できる唯一の方法だと思います。とにかく他者を「評価」するのではなく「尊重」すること。「褒める」のではなく「感謝」すること。すべてはここからはじまると思います。

… いちばん大切なのは、他者を「評価」しない、ということです。評価の言葉とは、縦の関係から出てくる言葉です。もしも横の関係を築けているなら、もっと素直な感謝や尊敬、喜びの言葉が出てくるでしょう。…

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』(岸見一郎 2013:204-5)

 

 

脚注

*1: 今回の記事の趣旨について…

 相模原障害者殺傷事件が起こってからもうすぐ一年になります。そこで自分なりに一年間考えてきたことをまとめようと思いました。(一年分のまとめなので長くなりました。)

 長いので目次を作成し、読みやすいように小見出しと改行で多めに区切り、図を挿入しました。最初から最後まで読む人はいないと思うので大事だと思うところは嫌になるほど何度も同じことを繰り返し説明しています。

 

*2:「消極的承認」と「積極的承認」のちがい…

「尊重としての承認」は「相手を否定しない」「軽視・侮蔑をしない」という意味で消極的承認です。それに対して「評価」や「愛情」としての承認は相手を積極的に評価したり愛したりするので積極的承認です。

  

*3:「再分配か承認か」論争

「再分配」と「承認」のゼロサム的対立関係を論じた本にアクセル・ホネットとナンシー・フレイザーの『再配分か承認か?』があります。ハーバーマスの弟子として知られるホネットが「再分配も承認の一つである」と言ったところ、左翼フェミニストフレイザーが「いやいや、承認も大事だが再分配も大事だろ?」と噛みついたところから「再分配か承認か」論争が始まりました。

 トランプ時代——限られたパイ(分配資源)をめぐって「承認すべきでない人たち」を排除し、この排除作用によって自らを承認するという「排外主義」が当然とされる時代——が到来してしまった今となっては、左翼同士が細かい議論にこだわって対立していたという点で良き時代(わるく言えば牧歌的)だったと思います。

「承認」が政治の議論になるきっかけをつくったのは、チャールズ・テイラーが『マルチカルチュラリズム(承認をめぐる政治)のなかで多文化主義の重要概念として「承認」という作用を取り上げ、これが欧米の知識人らに注目されたことから始まったと言われています。しかし、日本のように同質性の高い国、たとえば、最近ようやくLGBTという概念が人口に膾炙したような文化的多様性のほんどない国にとっては「再分配か承認か」という対立構造はほとんど生じていません。そもそも日本では対立が起こるほど「再分配」も「承認」も圧倒的に少ないのが現状です。

 

*4: 「健康で文化的な最低限度の生活」には社会的承認も含まれる

 憲法25条のすばらしいところは「健康で文化的な最低限度の生活」という条文の「文化的」のなかに「社会的な承認関係」(社会的包摂)も入っているところにあります。単に物質的に満たされるかどうか(死なない程度に生存できるかどうか)が問題にされているのではなく、それ以上に「文化的」でなければならない。この「文化的」のなかに「すべての人が社会的関係によって承認される」という「包摂=承認」の概念が含まれているわけです。従って、生活保護の受給と引き換えに社会的承認関係から排除するという「再分配」と「承認」のゼロサム関係はあってはならないのです。

 

*5: アクセル・ホネットの「承認論」

 三つの承認形式の考え方はアクセル・ホネットが展開している承認論(『承認をめぐる闘争』など)を参考にしました。ホネットによれば、三つの領域(尊重・愛情・評価)には優先順位がなく、三つがすべて満たされないかぎり十全なアイデンティティの人格的統合が約束されないと考えます。この承認論の最大の特徴は、承認をめぐるコンフリクトを道徳的で規範的な問題として考えるところにあります。

 ホネットの場合、承認概念を単なる「心理」や「欲求」のレベルで把握するのではなく、規範や道徳の水準で捉えます。そして、「承認されない」ということを「不正の感情」「不正意識」「道徳的不正」の表れとして把握するのです。ここからホネットの承認論では「承認されない」ことは「許されない不正義」であるとして社会に向かって異議申し立てすることが可能になっています。

 

*6: 「認知としての尊敬」と「評価としての尊敬」のちがい…

「Respect:リスペクト」には「尊重」と「尊敬」という意味がありますが、前回の記事で「尊敬」には二つの意味合いがあることを説明しました。

イチロー選手の野球に対するストイックな姿勢やプロ意識は尊敬するに値する」といったように、ある特定の人物に対してだけ抱く評価をともなった尊敬の念を「評価としての尊敬」と言います。これに対して、評価をともなわない誰に対しても平等に「人として」尊重することを「認知としての尊敬」と言います。

 今回の記事で論じている「尊重としての承認」は「認知としての尊敬」のことを指しています。

 

*7:「尊重する義務」と「尊重される権利」

「尊重」とはざっくり言うと、他者の存在を「否定しない」ことです。本文でも言ったように「赤の他人」を無視したり冷遇すること。仲の良い人に対する慎みとしての「親しき仲にも礼儀あり」を破ること。人をバカにしたり見下したりする侮蔑。この三つをしないことです。

 赤の他人に対する「無視」や親しい人に対する「無礼」はどちらも相手を「軽視」するところから起こります。従って、尊重とは「軽視」と「侮蔑」をしない義務(されない権利)です。

 もう一つ重要なのは、尊重は相手の「利益」に配慮するから行うわけではないということです。尊重は利益の水準で行われるべきことではない。相手の利益になるから尊重し、不利益にならないなら尊重しなくてもよい、という利害損得の話ではありません。

 たとえば、認知症患者や意識不明の患者に対して侮蔑的な扱いをすることは本人にとって明確な「不利益」になっていない可能性があります。しかし、たとえ患者が知りえなかったとしてもそのような侮蔑的な扱いは患者の善き生を冒涜している点で許されないでしょう。

 このように、尊重は利益から行うのではなく義務によって行われるべきことです。尊重される権利は受益の権利とは水準がちがう点に注意が必要でしょう。

 

*8: 個人を「個人として」見る場合と「人として」見る場合…

 あとで説明しますが個人を「個人として」見る場合、さらに二つの見方があります。一つは「その人そのもの」。もう一つはその人の「属性」です。社会空間ではほとんどの場合、後者に目が行ってしまいます。個人を「人として」見るというのは、その人のかけがえのなさを捨象すると同時に、ある個人の属性をも捨象することを意味します。属性は評価の対象であり、尊重の対象は尊厳です。尊厳は個人の具体性(固有性や属性)を離れた抽象的な次元において尊重されます。

 

*9: 「尊厳」と「価値」のちがいについて

●「価値」について

 価値の定義は見田宗介によれば『主体の欲求をみたす、客体の性能』となります(価値意識の理論)。価値とは対象に内在している実体概念ではなく、主体の欲求や意識がつくりだす相関概念(虚構)であると考えます。

 価値とは客体それ自体(実体)ではなく、客体の属性です。属性とは客体の「性能・性質・特性・能力・力」などを指します。この属性を比較・測定すること(評価)によって価値が決まります。

『われわれは机や人間それ自体を測定したり比較することはできない。机や人間の高さなり重さなりの属性を測定し比較しうるのみである。』(前掲書)

 つまり、価値とは「高さ」とか「重さ」と同じ概念です。高さをもつもの、重さをもつものは実在しますが「高さ」や「重さ」それ自体は実在しない。だから「価値」それ自体も実在しない。高さや重さが客体の属性であるように価値も客体の属性なのです。

 

●「尊厳」について

 尊厳と価値はちがう概念です。尊厳は「神の荷姿」から派生した宗教的概念であり、例外を除いて人間以外の自然や動物には使用されません。「人間/動物」の区別を前提に成立する概念なので、どこまでも人間中心主義的で宗教的な概念です。

 カントはモノには「物件」があり人間には「人格」があると考え、この「人格」が備わっている人間にだけ尊厳があると考えました。私たちはモノ(物件)に対しては尊重したり尊敬の念を持ったりしません。しかし、人間(人格)に対しては尊重したり尊敬の念を持ったりします。このちがいを生みだすのが尊厳です。だから「人格」が備わっていないモノには尊厳がない。しかし、尊厳のないモノや動物にも何らかの価値はあります。ここが尊厳と価値のちがうところです。

 

●「尊厳」と「価値」の関係

 人格(尊厳)には価値があり物件には一切の価値がないのかというとそうではない。物件には物件なりの価値があり、この物件的な価値のことをカントは「価格」と呼びました。「価格」には個体の性能を評価する「市場価格」と個体の魅力を評価する「好感価格」があるとされます。

 先ほど見田が定義した価値概念は「価格」のことを指しています。価格は属性を評価するところから生まれる相関概念です。価格は「比較可能・数量化可能・測定可能・交換可能」な客体の属性の評価値で決まります。

 しかし、尊厳はそのような価格とはちがう。尊厳は人間の「かけがえのなさ」に由来し、交換不可能な何かです。尊厳は評価するかどうか(価値)、好きか嫌いか(感情)、欲しいかどうか(欲求)とは無関係に尊厳それ自体に不可侵性や神聖性が宿っている。このとき、尊厳を一つの価値として把握する場合、尊厳にはそれ自身において内在的に価値があると考えることができます。一言でいえば、内在的価値とは「価値を超えたもの(評価不能な価値)」のことです。

 ここから価値は「評価可能な価値」と「評価不能な価値」の二つに分ける考え方が生まれました。たとえば、マルクスは評価可能な価値を「交換価値」、評価不能な価値を「使用価値」と考えました。また、アーレントは評価可能な価値を「value:バリュー」と呼び、評価不能な価値を「worth:ワース(真価)」と呼びました。まとめると以下のような呼び方があります。

・価格(属性の価値)/尊厳(人格=かけがえのなさの価値)

・評価可能な価値/評価不能な価値

・状態の価値/存在の価値

・機能価値/存在価値

・相対的価値/絶対的価値

・量的な価値/神聖で不可侵な価値(量には還元できない価値)

・交換価値/使用価値

value(バリュー) /worth(ワース)

・instrumental value / intrinsic value

・道具的(手段的・役立つ・有益な)価値/内在的(本質的・内的・固有な)価値

 

*10:「属性」と「その人そのもの」のちがい…

 たとえば、ある人が「黒人」だったとして、「その人そのもの」と「黒人であること」は分けて考えることが可能です。黒人であるその人を好きになった場合、その人が「黒人だから」好きになったわけではない。黒人である「その人そのもの」が好きになったのです。この「好き」という次元において、その人が黒人であるかどうかなんてどうでもよく、その人がその人であるかぎり愛情的承認関係は続いていくはずです。

 

*11:「自己承認」「ネトウヨ」「トランプ支持者」「自爆テロ」の関係…

 他者からの承認が見込めない場合、自尊の恒常性を保つために自分で自分を承認しようとする「自己承認」という方法が取られることがあります。それには下記の五つがあります。

(1) ルサンチマン的自己承認  「あいつは悪い。ゆえに自分は善い」という方法によって自己承認を行う。これはニーチェが批判したルサンチマン型の自己肯定戦略で、すべての自己承認に共通するプロトタイプです。

(2) 排外主義的自己承認 「あいつは敵だ。ゆえに私たちは仲間だ」という方法によって自己承認を行う。「友/敵」図式を用いて仲間意識をつくりだし、自分はその仲間の一員であるという所属感と一体感をつくりだす。

(3) プチ・ナショナリズム型自己承認 「日本人はすごい。俺は日本人だ。ゆえに俺はすごい」という三段論法によって「日本人」や「日本」というナショナリズム、あるいは人種(白人など)と一体化して承認感覚を持とうとする。

(4) 宗教的自己承認 信仰によって「神」からの承認を得ること。

(5) スピリチュアル系・カルト型自己承認 世界四大宗教などの公式宗教以外のカルト的で非科学的なものによって承認される方法。

 ネトウヨやトランプ支持者は(1)から(3)に該当すると思います。あと、自己承認という方法を取らない場合、それでも自尊の恒常性を保つために「承認関係からの撤退(ひきこもり状態)」と「自分自身からの排除(自死セルフネグレクト)」があります。また(1)から(5)に「自死」が加わると「自爆テロ」につながります。

 経済的に豊かだった中間層が崩壊し、今まで承認資源に恵まれていた人たちが一気に社会的承認機会から排除されると、自己の自尊を保つために自分で自分を承認する「自己承認」を余儀なくされる人たちが増加します。

 そのような人たちの選択肢は「ネトウヨやトランプ支持者になる」「宗教やスピリチュアルを信じる」「ひきこもり状態になる」「自死する」「自爆テロをする」…などになり、これらすべては社会的包摂(他者や社会からの承認)の問題であると言えます。(これはナチス全体主義を生みだした構造とほぼ同型だと思います。)

 

*12: 尊重・愛情・評価のちがい…(ざっくり言うと…)

人は一人ひとりちがっています。この個々人の「ちがい」をちがいとして認めるのが尊重、「ちがい」に愛着をもつのが愛情、「ちがい」にモノサシをあてて優劣をつけるのが評価です。

 

*13: 立ち向うためには「立ち向わなくてもよい場所」が必要

 これは湯浅誠さんが言っていたことです。下記に引用します。

「たたかうためには、たたかわなくてもいい“居場所”が必要なんだ」という言い方をしていますね。… たたかう場所とたたかわなくてもいい場所、この両者は一つのグループのなかで棲みわけてもいいし、また複数のグループ間で役割分担してもいい。でも、両方必要であることはまちがいないんじゃないか。… その意味では、たたかわなくていい“居場所”は、たたかうための必要条件みたいなものだろうと思っています。十分条件ではないけど、必要条件。そして、そういう“居場所”が社会のなかから減ってきている、と感じます。

(「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へ 2008:179)

 

*14:「隷属原理」を緩和する「労働力の脱商品化」

 福祉国家の形態を分類する一つの指標として「労働力の脱商品化」があります。これは人間を労働力商品と見做す程度を政府の規制(法制度)によって意図的に緩めることを言います。モノではない生身の人間を商品(モノ)のように扱う労働市場(企業)の暴力性を弱めることを目的にしています。

 労働の脱商品化の理想状態は「働かなくても生きていける」状態をつくることです。まさにベージックインカムはそれを達成する方法になります。そこまで行かなくても、失業給付のようなセーフティネットを強化することによって隷属原理を弱めることができます。

 

*15:「日本的学校化」と「ハイパー・メリトクラシー

「日本的学校化」の詳しい説明は『まぼろしの郊外(宮台真司 2000:146-7)を参照のこと。「ハイパー・メリトクラシー」は『多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで(本田由紀 2005)で詳細に論じられています。

 

【関連記事】

「生きづらさ」低減に向けた「生存学」のアプローチ —「生きづらさ」についての雑記(1) 

どうすれば「自己尊敬」(セルフリスペクト)できるのかー「生きづらさ」についての雑記(2) 

 

【参考文献】

承認をめぐる闘争: 社会的コンフリクトの道徳的文法 (叢書・ウニベルシタス)

物象化 (叢書・ウニベルシタス)

中断された正義―「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察

二人称的観点の倫理学: 道徳・尊敬・責任 (叢書・ウニベルシタス)

道徳形而上学の基礎づけ (光文社古典新訳文庫)

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

社会保障――セキュリティの構造転換へ (自由への問い 第2巻)

弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 

「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へ

相模原障害者殺傷事件-優生思想とヘイトクライム-