おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「日本的生きづらさ」と「トレース問題」——「生きづらさ」を三つの次元で考える

「生きづらさ」の淵源には二つの源流がある。「社会」と「世界」、あるいは「社会的アイデンティティ」と「実存」。

 社会的な生きづらさには「苦痛」という言葉が、実存的な生きづらさには「苦悩」という言葉が合っているように思う。

 実存的な生きづらさ(=苦悩)とは、なぜ自分は生まれてきたのか、なぜ生きなければならないのか、なぜ死ななければならないのか、なぜ私はこの私なのか、生きる意味や価値はあるのか......といったような根本的な「なぜ」に由来するこの世界に対する違和感から生まれる。社会を超える世界(あるいは宇宙)の問題である。これには宗教や哲学が対応するであろう。

 一方、社会的な生きづらさとは、資本主義社会が生みだす構造的な問題、社会の「普通規範」の押しつけ、規律訓練的な社会的主体化=服従化...等々、社会構造とそのシステムから派生してくる問題群と、ささいな人間関係、ささいな日常性に由来するこまごまとした問題群がありえる。

 社会的な生きづらさには、さらにもう一つの次元(特殊性)がある。それは「日本的な生きづらさ」と言っていいような日本社会に特有の生きづらさである。ある社会が資本主義社会であるかぎり、マルクスの理論はそのかぎりで普遍的に有効であるが、日本社会特有の問題(たとえば日本独特の「空気の支配」やムラ社会的メンタリティ、イエ制度、日本的学校化など)では無効にならざるをえない。

 以上、生きづらさの三つの次元(実存的/社会的/日本的)は、お互いに連動しあっている。

 実存的な問題が軽減されれば、社会的な生きづらさにはある程度耐えられるようになるであろうし、社会的な生きづらさが増大すれば「自分はどうしてこんな世界に生まれてきてしまったのか...」という実存的苦悩に苛まれることになる。また、社会的な承認は実存的苦悩の次元にも通じている。

 日本社会独特の生きづらさを生みだす旧弊(前近代的、あるいは中世的なモード)が変革されれば、社会の生きづらさはそのぶんだけ軽減されるはずである。

 

 最後に、「トレース問題」にふれておく。

 日本は急速な近代化を成し遂げるさいに、西洋社会を敷き写すようにしてあらゆる学問・文化・近代的制度を「輸入」してきた。しかし、それらはそのまま丸ごとトレースできたわけではなく、必ずといっていいほど特殊日本的要素が加味される。結果、近代的な諸制度はそろっているものの、蓋を開けてみればまったくもって近代的ではない中世的な日本独特のシステムが作動していたりすることが多い。ここにこそ日本社会特有の生きづらさの原因がある。

 問題なのは、そのような日本独特の生きづらさにたいして、さらなる西洋由来の理論やパッケージで解決しようとすることである。たとえば、アメリカ発のフェミニズム理論をそのまま日本にトレースしても、日本独特の家父長制=家制度の領域にはそのまま適用できない。日本独特の家父長制=家制度の害悪を剔抉するためには、日本独自の歴史(=日本的文脈条件)を見直す作業が必要になる。

 この先、日本社会を西洋型の個人主義に作り変えることは歴史的・通時的に考えて不可能であると言わざるをえない。よって、日本的文脈条件はこの先も永遠に残り続ける。トレースするさいには、日本的文脈をふまえた「すり合わせ作業」が必要なのである。

 理想的な福祉社会を考えるなら、北欧型のスウェーデンモデルはたしかに素晴らしいと思う。しかし、日本的文脈条件を考慮すると、途端に「日本じゃ無理っしょ!」となる。このように気づけばまだよい方だが、それにまったく無頓着に西洋的な個人主義に由来するリベラリズムを滔々と語るというのは「リベラル嫌い」を誘発するだけだろう。

 「夏目漱石の苦悩」にはトレース問題が関係していたであろうし、岩倉使節団が「天皇」利用を思いついたことにもトレース問題が関係していたと思われる。私たちには常に一部のピースが欠けているのだ。西洋にはキリスト教と西洋哲学があるが、日本にはそれに類するピースが欠けている。トレースできない空白地帯をどうやって何で補うのか。保守なら「日本的精神」のようなものを歴史から引っ張ってくるであろうが、リベラル・左翼にはそれができない。和辻哲郎の哲学や思想に賛同するかどうかは別にして、日本特有のトレース問題を解決するひとつの解答を試みた思想家が和辻哲郎だったと思われる。 

 

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