おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「複層的現実」で生き延びる

 ネットとリアルを使い分けるひとたちがいる。こういう人たちを「デジタルネイティブ」と呼ぶ。いまではネットと現実の「複層的現実」(Multi-Layered Reality)を苦もなく生きる人たちは「当たり前」になった。

「オタク」というレイヤー

 先ごろ海外の「アニメオタク」のドキュメンタリーを見た。海外ではアニメオタクはレアな存在。だから身近には存在しないアニメオタクとFacebookやZOOMを使って交流する。同じ時間に同じアニメをオンライン上でわぁーわぁー言いながら見る。鑑賞し終わったらくっちゃべって感想を述べ合う。あのシーンは良かったな...とか、他愛もないことを話す。

 ドキュメンタリーの主人公の女性が言うには、「この時間があるから私は生きている...」という。毎朝起きたとき、死にたくなる。学校なんてクソだ。でも、帰ってきてみんなでアニメを見ながらわぁーわぁーできると思ったらそれだけで一日を乗り切れる。だから生き延びている、と...。彼女は「複層的現実化」によって単層的現実では耐えられないクソさをなんとかサバイブしている。

 現代社会は「単層」などでは生きられない。ただ学校に行くだけ、仕事に行くだけ、家族と過ごすだけ......これだけでは単層すぎて生きづらい。居場所や所属場所がいくつあってもそれが単層だったら何の意味もない。

宗教というレイヤー
 複層レイヤー(複層的現実)を生きる典型が宗教である。

 福山雅治が主演した大河ドラマ龍馬伝』。長崎編の「お元」のエピソードは感動的だ。 お元は「身売り」されて長崎の芸姑として働いている。 しかし、芸姑として働くお元は世を忍ぶ仮の姿。 お元は夜の世界では芸姑として働く一方、 長崎奉行所密偵(スパイ)としても働いていた。

 しかし、密偵としてのお元も実は仮の姿だった。 お元の本当の実態は「隠れキリシタン」。このお元の複層レイヤー的実存は、 現代社会に生きる悩み多き人々にとって示唆に富む生き方モデルになると思う。

 社会空間が絶望的に生きづらい場所で、 おそらくこの先もずっとそのような状態は変わらないという世界がある。 そのようなクソ社会のなかでベタに社会的役割を引き受けて生きるのではなく、 あえて「何かのために」社会的役割を引き受ける。お元の場合だったらキリスト教のためにあえて密偵という役割や芸姑という役割を担う。

 これは「なぜ我々は働くのか」に関係の深い問題だ。 お元の場合は身売りされて仕方なく芸姑にならざるをえない境遇であったため、この世は絶望的に生きづらい場所であった。そんなお元に龍馬が言う。
「私はこの国を誰もが笑って暮らせる国に変革するんだ!」。

 しかし、お元は龍馬に「おめでたいお方(笑)」と言って一笑に付した。

 このお元の「諦観」は正しいだろう。

 社会が変わったところで、誰もが幸せに暮らせる社会など来ない。 むしろ、時代は逆の方向へと向かっている。右肩上がりの経済成長が続くという社会観や経済観なら、 ベタに社会を生きるということは可能であった。

「ベタに...」とは、「いい学校⇒いい会社⇒良い人生」というライフコースが疑われることなく信じられ、恋愛結婚して子どもをつくり家族を形成し、郊外に一戸建てのマイホームを購入。 仕事では終身雇用・年功序列のもとで出世を目指し、 老後は悠々自適に趣味に生きる…...という虚構の生き方モデルに支えられて成立している地平のことだ。

 お元の実存にとって重大だったのは、 なぜ絶望的に生きづらい場所(この世)のなかで生きなければならないのか? そして、どうやって生きていけばいいのか? ということだった。

 お元の三段階のペルソナは、次のような関係になっている。

(1)社会的な役割としての「芸姑」 (2)裏社会の役割としての「密偵」 (3)社会と裏社会の二つの役割を意味づける「社会的役割ならざる(つまり社会には還元できない)隠れキリシタン」。

 お元は(3)のためにこそ(1)と(2)の役割を生きる。(2)のようなある種のアウトサイダーとして生きられるのも、 お元が(3)であるクリスチャンとしての実存をもつがゆえだろう。

 社会を昔のようにベタに生きることができない以上、 お元のような生き方モデルを参考にしながら、 絶望的なクソ社会を生き抜いていくしかないのかもしれない。

 しかし、お元の生き方モデルは、宗教の暴走(オウム真理教や「イスラム国」など)につながるおそれが十分にありうる。危険と紙一重の生き方だ。

「複層的現実化」で生き延びる
 単層では生きづらい。単層だけでは窒息死する。単層に適応を迫る自己啓発なんてありえない。世界を複層化しないと死んでしまうだろう。そのためには現実をネタ化しなければならない。現実は規範化されているから、現実は私たちを規範という強力な磁場でがんじがらめに押し留めている。逸脱を許すまじと...。

 この規範化された現実から脱出しないと複層化した世界に飛び立つことはできない。もし、複層化した世界に脱出できたなら、現実はただのひとつのしょぼい現実にすぎなくなる。私たちが現実だと思っている現実なんて、複層化された世界の「単なるひとつ」にすぎないのだ。

 複層レイヤーを生きることができれば、そうやって現実を相対化(=ネタ化)することができる。大切なのは学校や仕事なんかではなく、仲間と一緒にアニメを見ることだ。学校なんて「たかが学校」、仕事も「たかが仕事」。世界を複層レイヤーで生きることができれば、そうやって優先順位が反転する。規範的現実のすべては「たかが...」にすぎなくなる。

 たったひとつの現実をバカまじめに生きる必要はない。逸脱はいつも許されている。逸脱したときに後ろ指をさしてくる連中は、単層しか生きていないかわいそうな人たちなんだ。そんなことを気にする必要なんてない。

単層から複層へ
 近代以前に生きていた人類は、みんな複層を生きていた。神を信じ、祭りでタブーを犯し、ドラッグをやってハイになり、日常と非日常をうまく使い分けて複層を生きていたのだ。単層だけをベタに生きるようになったのは近代に入ってからここ200年程度のことだ。

 つまり、私たちの身体は単層ではなく複層を生きる仕様でできている。近代社会は、複層化した身体を強引に単層化する。単層だけを生きるように強いる。だから、私たちは生きづらいのだ。

 単層から複層へ ——。逸脱は常に許されている。できれば、合法的でサステナブルな方法がいい。そして、複層化するには複層化した仲間が必要だ。「このレイヤー」を共有する仲間。あとはコロッと反転して、私は「このレイヤー」を生きる。仕事や学校はクソつまらない(優先順位の低い)どうでもいい現実。もはや何を言われても平気だ。とりあえず、クソ社会の住人とはネタ的にかかわればいいだけだ。