おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「スラッカー」概念についての素描

ニート≒スラッカー

 スラッカー(slacker)という概念は日本ではほとんど定着していない言葉だ。スラッカーは「怠け者」「怠惰なひと」「何もしてないひと」「義務や責任を回避しているひと」「徴兵回避者」「働かないひと」「勤労意欲に乏しいひと」...等々の意味合いがある。しいていうなら、日本で定着した「ニート」という言葉に近い。

 しかし、「ニート=スラッカー」ではない。たとえば、日本の国民的映画である『男はつらいよ』に出てくる「フーテンの寅さん」。これをあえて英語に訳すなら「Tora a slacker」となる。「フーテン」とは「プータロー」とほぼ同義。ウィキペディアの説明では《瘋癲(ふうてん)/・精神的な疾患。→ 精神疾患 / ・定職を持たず街中などをふらつくこと。またはその人。→ 無職 / ・1960年代から1970年代の日本における和風ヒッピーの俗称「フーテン」。→ ヒッピー...》と書いてある。

寅さんは批判されず、ニートはバッシングの対象

男はつらいよ』という映画は、1969年から2019年まで続いた日本の国民的映画であり、シリーズ全50作もある人気映画である。しかし、この映画の主人公である「フーテンの寅さん」に対してニートよろしく「ちゃんと働け!」「定職につけ!」といったような批判がなされることはなかった。むしろ、寅さんの生き方は憧れの対象であり、ほんとうなら自分もあのように「フーテン」になって自由を謳歌したいと思っていたひとが多かったのではないか。だからこそ『男はつらいよ』は50年も続いた人気映画になりえたのである。

 私はここで次のように思う。なぜ、働いていないニートやひきこもりはバッシングの対象になり、スティグマ化もされたのに、「フーテンの寅さん」は批判もスティグマ化もされず逆に人気の対象になったのか——。結論から言うと、日本ではスラッカーという概念がなかったからこそ、そのようなダブルスタンダードが起こったのではないかと思っている。

生き方としてのスラッカー

 いまこそスラッカーという概念を日本に定着させるべきではないか。私がそう思った理由は二つある。ひとつは、映画『ノマドランド』が評価されアカデミー賞を受賞したこと。もうひとつは、中国に「寝そべり族」が登場したことだ。(『中国の若者に広がる「寝そべり族」向上心がなく消費もしない寝そべっているだけ主義』)。

 映画『ノマドランド』の背景には、米国におけるビート・ジェネレーションやカウンター・カルチャー(ヒッピー・カルチャー)の影響がある。一言でいうなら、メインストリーム(主流)に対する対抗の思想である。そこには、明確に示さなくても反主流・反権力・反体制・反資本主義・反消費文化・反労働・反勤労(反勤勉)という共通項があった。スラッカーの定義のひとつである「徴兵制を忌避する者」とは、1960年代から米国で巻き起こった若者(主に学生)のベトナム反戦運動に起因している。この時代の若者は、朝から何もせずに寝ているだけで「反体制」という抵抗の思想(政治性)の意味合いが加味されることになった。中国における「寝そべり族」とは明らかにこの流れをくんだものである。(ちなみに、徴兵制とは国家が国民に強制する労働(=強制労働)のアナロジーである。したがって、徴兵制のない日本では「徴兵制=勤労義務」と考えればわかりやすい。米国におけるスラッカーが「徴兵制を回避する者」であるなら、日本におけるスラッカーは「勤労義務」を回避する者となる。)

 では、日本社会には米国のカウンターカルチャー(ヒッピー文化)や中国社会における「寝そべり族」のような抵抗の思想はあったのか。「なかった」と言わざるをえない。(それに近いものとしては「だめ連」がある。)。

 日本では、若者のひきこもりやニートが社会現象(問題)になった。しかし、それらは抵抗の思想とはまったくみなされなかった。政治性はものの見事に脱色され、たんなる若者のモラトリアム、甘え、親へのスネかじり、「パラサイト=寄生虫(山田昌弘)、労働しない「ニート(玄田有史)としてしか解釈されなかった。ひきこもりという現象は精神医療におけるケアの対象である。活動家・雨宮処凛が「社会的ひきこもりは“立て籠もり”である」と主張するまでは。

 もし、日本社会に米国のカウンターカルチャーのような反体制文化が根づいていたなら、ひきこもりやニートはいまのようにスティグマ化されなかったはずである。かれらは、たんなる「働いていない怠け者」として侮蔑される存在としてではなく、抵抗の思想を体現しているスラッカーとして —— つまり、反体制・反資本主義・反勤労の体現者として —— 政治的にリスペクトされる肯定的な存在者になりえたはずなのだ。

現代的「スラッカー」概念の誕生——すべての「ダメ人間」が包摂される

 現代の「スラッカー」概念を理解するうえで重要な映画作品がある。リチャード・リンクレイター監督の『slacker(スラッカー)』(1991年)である。この映画はリンクレイター監督の出世作であり、低予算の自主映画にもかかわらず大ヒットした作品だ。日本では限定的にしか公開されず、DVDにもなっていない。この映画、その名も『スラッカー』によって「スラッカー」概念は一変したといえる。

 映画全編を見られなくても、まず以下のトレーラーをみてほしい。それだけで分かるひとには分かるはずだ。

youtu.be

 この映画には、いわゆる「変なひと」しか登場しない。最初に登場する人物は、リンクレイター監督そのひとである。かれはタクシーに乗ると、自分の見た夢の話を永遠としゃべりまくる。一方のタクシードライバーは話をまったく聞いていない。ノーリアクションである。しかし、そんなことはお構いなし。とにかくしゃべりまくるのだ。この映画では、このような空気を読まないキャラクターばかりが入れかわり立ちかわり登場してくる。なかには、陰謀論者やオタク、ケネディ暗殺事件マニア、ヘタな歌を歌い続けるストリートミュージシャン、テープレコーダーに自作のポエムを吹き込む老人、小瓶の中にマドンナの子宮細胞の粉末が入っていると息巻く女性など...... 個性豊かな「変なやつ」ばかりが登場する。登場人物の共通項は「社会の役に立ちたい」「社会にとって生産的なことをしたい」などとは微塵も思っていないこと。まさに、スラッカーの定義どおり反勤労の体現者なのだ。

 現代の精神科医がこの映画を観たならば、この映画に登場する人物はすべて自閉症発達障害統合失調症...等々とカテゴライズされ医療化されてしまうだろう。シロウトの判断ならばネットスラングの「コミュ障」や「沼」と認識されかねないひとたちばかりだ。リンクレイター監督はそのような「風変わりなひとたち」ばかりが登場する映画に「スラッカー」というタイトルを付けた。当初、この映画の仮タイトルは「もうない/まだない」だったのだが、監督はスラッカーという否定的なタイトルをそこに付けたのである。スラッカーという呼び方には「義務や責任を回避する怠け者」というネガティブな意味合いがあった。監督はそのようなスラッカーの侮蔑的な意味を変容させるべく、意図的に映画タイトルに「スラッカー」と名付けたという。

 そこでリンクレイター監督が模範としたのは、セクシュアルマイノリティを名指す「クィア」だった。クィアとは「変態」を意味し、当初は侮蔑的に使用されていた。その用語をセクマイ当事者らが逆転の発想であえて肯定的な意味合いでクィアを名乗りはじめた。我こそはクィアであると。このネガティブからポジティブへの意味変容をリンクレイター監督は「スラッカー」という概念にも適用しようと試みたわけである。

 この映画によって、資本主義社会の生産主義から排除されてしまうほぼすべての「ダメ人間」(働いていないひと・ひきこもり・ニート・障害者・病者・コミュ障・沼・オタク・空気読めない変な人・フーテン・プータロー・不器用なひと・社会不適合者・何もできないひと等々)がスラッカーというポジティブな抵抗の思想のなかに包摂され、その存在価値が生産性の軸ではない次元で肯定されることになる。

スラッカーとしての『裸の大将』

 日本にもそれに近いドラマがあった。1980年から1997年にかけて制作された『裸の大将放浪記』である。このドラマの主人公である「山下清」はドラマ内では“知的障害者”あるいは“言語障害者(吃音者)”として描かれてはいない。ドラマを視聴する私たちは、実在の山下清知的障害者で吃音者だったことを知っているが、ドラマ内で山下清に接する人たちは「このひとは知的障害者で吃音者」という見方で特別に対処するようなことはしない。例えるなら、山下清が旅すがら「お腹が減った...おにぎり...食べたいんだな...」と独り言のように発すると、初めて逢ったひとであっても「じゃあオラの家に来い」と言っておにぎりを食べさせる。そういう何気ない展開からはじまるこのドラマの内部では、山下清知的障害者で吃音者であるという認識のされ方はしないのである。たんに「ランニング一枚を着た風変わりな旅人」として扱われる。つまり、「フーテンの寅さん」同様、山下清もドラマ内ではスラッカーとして登場する。

生き延びるためのスラッカー

 もし、インクルーシブな社会が実現するとしたら、障害者は脱医療化された存在として —— リンクレイター監督『スラッカー』の登場人物やドラマ『裸の大将』の山下清のように —— 「健常者」の反対側に存在する「障害者」としてではなく、ありふれた「風変わりなひと(=スラッカー)」として包摂される社会になるはずだ。そのためには「クィア」に匹敵する「スラッカー」という概念が必要不可欠であり、スラッカー概念によって新たに編集されるナラティブ(物語り)による意味変容と価値観の転換(とくに脱・勤労主義)を引き起こすべきなのだ。

 スラッカーとは抵抗の思想であり、ひきこもりやニートの上位概念になりえる。コロナ禍を奇貨として、今こそ私たちはスラッカーとして生きるべきである。そこではスラッカーは勤労道徳に対抗する「怠惰の倫理」となる。「フーテンの寅さん」に魅了された勤労を尊ぶ団塊の世代は、スラッカーをバカにするかもしれない。しかし、「フーテンの寅さん」は「Tora a slacker」である。かれらはそこに気づいていない。「フーテンの寅さん」こそ反体制の象徴だったのである。(了)

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