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おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"が綴る日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想。

かけがえのない無価値な存在

無価値な存在

 人は一人ひとりみんな違っている。

 同じ人間はいない。

 自分という存在は宇宙にたった一つだけ。

 そういう意味で、すべての人間は、かけがえのない存在である。

 かけがえのない存在。

 そこには「優劣」や「序列」といった「価値」が入り込む余地はない。そういう意味で「横並び」である。本当だったら、わざわざ「みんなちがって、みんないい」とか「もともと特別なOnly one」だとか言わなくてもいいはずである。なぜなら、そのような「よい」とか「特別」といった価値が介入しない領域、それが「かけがえのない存在」ということの意味だからだ。

  「良い」とか「特別」といった価値づけをしなくても、「人間は一人ひとりみんな違っている“かけがえのない存在”だ」ということだけで十分なはずだ。それ以上でも以下でもない。そもそも「かけがえのない存在」というのは、比較不能・代替不能なのだから、価値づけなどできない存在、そういう意味で「無価値な存在」(非価値的な存在)である。

 

序列化する人間

 しかし、「あの人は偉い」という言い方が端的に示しているように、「あの人この人より偉い」とか「あの人この人より上だ、下だ」とか言ったような序列が現に存在する。そもそも優劣や序列が存在するはずのない人間に、つまり「かけがえのない存在」に、なぜそのような区別が存在するのか。なぜ「横並び」から「縦並び」へと変換されてしまうのか。

 まず、「あの人は偉い」と言うときの「あの人」とは誰のことだろう。

 「あの人」は、どこか(学校や会社など)に所属していて、社会的な役割を担っている。そういう場合、「偉い」のは、所属や役割というある種の「肩書き」を帯びた人であって、その人自身ではない。したがって、「あの人は偉い」と言う場合の「あの人」とは、丸裸の人間ではなく、肩書きを帯びた人間のことである。

 そのように社会的な役割を担うということは、社会の一部として機能するということである。社会の一部として機能するということは、すなわち代替可能な存在になるということだ。

 ある社会的役割を担う人物というのは、ある条件をクリアしている人間であれば誰だっていい。その人でなければならないという必然性はそこにはない。先に社会的役割ありきであり、そこに一定条件をクリアした人間を随時当てはめるしくみになっている。

 もともと「かえがえのない存在」だった人間は、いったん所属や役割という肩書き(社会的役割)を帯びると、そのかけがえのなさは消えてしまうのである。

 

「ただの人」という言い方

 そもそも「かけがえのない存在」(優劣や序列のない無価値な存在)だった人間は、優劣や序列が社会的に設定されている所属や役割に組み込まれることによって、本来のかけがえのなさは失われ、「横並び」から「縦並び」へと変換され、あたかもその人自身に特別な価値が内蔵している(していない)かのような存在に仕立て上げられる。

 所属や役割というある種の肩書きには、その社会の社会的・文化的な価値観に応じた尊敬、地位、名誉といった価値が付与される。これによって肩書きを帯びた人間には自動的にその価値が仮象され、肩書きに付属している価値があたかもその人自身に存在しているかのように見えてくる。

 だから、肩書きがなくなれば「ただの人」になる。この「ただの人」という言い方は、「縦並び」の上から下へと転げ落ちてしまった人、という見方だ。これは「上か下か」という価値観を前提にしている見方である。

 したがって、「ただの人」という言い方は、本来の「かけがえのない存在」ということではない。これは単に、社会で機能できない、活躍できない、役立たない、という社会的価値観を適用しているだけである。

 そういう社会的価値観を適用したうえで、その人には「(社会的な)価値が無い」という意味合いで「ただの人」と表現しているのだ。

 

 

「ただの人」は「本当の人」

 しかし、そのように見なされた「ただの人」、社会的に価値が無いと断罪されたその人こそ、本来の無価値な存在としての「かけがえのなさ」が復活している状態なのではないだろうか。そういう「ただの人」、社会的に無価値と断罪されている人こそ、「本当の人」ではないか。

 前述したように「かけがえのない存在」ということに対して「よい」とか「特別」といった価値は存在しない。かけがえのある社会的存在(肩書や役割を帯びたもの)としての人間に対抗して、「かけがえのない存在は特別だ」といったような価値づけをわざわざする必要はない。私たちは素直になって、社会的に無価値な人こそ「本当の人」により近い存在なのだと認めなければならないのだ。

 優生思想はこの地点から批判されるように思う。

 以上の点を忘れなければ、少なくとも社会的にあらかじめ設定されている価値が自分にあるのかないのか、あの人にはあるのになぜ自分にはないのか、それがないとダメな人間だ、といったような問題にいちいち悩んだり振り回されたりせずにすむのではないだろうか。

 

 最後に。

 3.11の震災後に作家の辺見庸さんは、次のように述べていた。

 …原発放射能の前にさ、置いていかれて、老人ホームかなんかの人たちがそれで死んでた。で、これだけの数字が出てくると、そのようなほんとに哀切極まる死というものが軽く考えられてしまう。

 で、80歳、90歳の人だから、もういいだろうと言う。そうではないんだよ。俺は思うんだよ。そういう人たちはね生きるべきなんだよ。助けてあげなきゃならないんだよ。

 「若いから、この人は有能だから、この人は社会に役に立つから、だから生きてもらう」ということであっては「絶対違う!」。「この人は社会に何にも役にも立たない。もう放っといたって死ぬんだから」。そういう人たちは生きてもらった方がいいんだよ。少なくともそういう精神を我々はもたなければ、もう人ではないよ。(こころの時代「瓦礫の中から言葉を」より)

 

yuhodo.cocolog-nifty.com

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