おんざまゆげ

@生き延び

選挙に乗れない理由 ―― ルーマンの「冷めた理論」

 

 前回の参議院選挙(2019)では、「れいわ新選組」を支持した。でも、ぼくはまったくもって選挙というものを信じていない。

 もともとノンポリだったこともあり、選挙には熱狂できない体質である。山本太郎の演説には感動するが、だからといって何かが変わると思ったことはない。基本的にぼくは、常にノリがわるく冷めている。

 選挙を熱く語るひとに尊敬の念をいだく。ぼくもそうなりたいと思ったことがあった。なぜ、こうもノリがわるく「ノンポリ」ぎみなのだろうと思っていた頃、社会学ニクラス・ルーマンの「冷めた理論」に出会った。

 

 ルーマンが言うには、ぼくたちの投票行動と、議会における政策決定は完全に「切れている」という。しかし、ぼくたちはそのようには思っていない。投票行為における一票は議会の政策決定にたいして間接的・因果関係的に影響を及ぼしていると思っている。だからこそ「選挙に行こう」と呼びかける。

 だが、ルーマン理論によるとそうでもないらしいのだ。投票システムと政策決定システムはお互いに閉じた循環を為しており、それぞれ独自の基準で動いている。したがって、ぼくたちの「清き一票」行動は想定している目的とは何ら関係のない行為ということになる。これは、本当に冷めている。冷めきっていると思った。

 二つのシステムは、お互いに「切れている」。接続していない。こういった関係にあるシステムどうしは因果関係的に影響を及ぼすことはないが、お互いのシステムを「撹乱」することはできるという。ある候補者や政党に一票を投じれば、その後の政策決定システムを「撹乱」することにはなる。しかし、この「撹乱」というのはいったい何を帰結するのかはわからない。

 

 民主主義における投票には、もっともらしい意味があった。何かをみんなで決めざるをえないときの「正当性調達」という重要な意味である。ほんとうは間接民主制であるかぎり、そんなこと(正当性の調達!)なんてできない。にもかかわらず、正当性を調達するのが民主主義である。大それた不毛な茶番劇が行われている。それが選挙なのだ。

 ぼくは一周回って、それでも選挙に毎回行ったりしている。理由は簡単。与党(自民党公明党)が嫌いだからだ。絶対に自公政権なんてありえない。もし、投票に行かなかったら自公を承認したことになってしまう。投票に行く理由なんてその程度で十分である。