おんざまゆげ

@スラッカーの思想

排除と搾取のメカニズム──資本主義から自由になるための条件

 資本主義は概ね(1)「賃労働で所得を獲得できないと生活できない」という世界をつくったうえで、 (2)「賃労働者から搾取する」ことによって成り立っている。マルクスは搾取される賃労働者の階級を革命主体と捉えたが、逆に「働かない者たち」(ルンペン・プロレタリアート)を革命を邪魔する存在として排除した。ルンペン・プロレタリアートとは《プロレタリアート(労働者階級)のうち階級意識を持たず、そのため社会的に有用な生産をせず、階級闘争の役に立たず、更には無階級社会実現の障害となる層を指す呼称》である。(ウィキペディアより) この点において、マルクスは資本家の利害と一致してしまった。

 資本家は搾取の効率性を高めるために生産性の高い労働者を安く買い叩こうとする。そのためには生産性の低い労働者を排除し失業者を生みだす必要がある。失業者が困窮すればするほど労働者は低賃金労働へと駆り立てられ、安い賃金で働いてくれるようになるからだ。だから、搾取を成り立たせるには必ず排除が必要になるのである。歴史的にも資本主義は農民から土地を奪い取って排除し、行き場を失った農民が都市の工場労働者として包摂され搾取するところから始まった。マルクスは搾取を問題としながらも、搾取を成立させている排除を肯定してしまったのだ。

 資本主義にとって厄介な存在は(1)「賃労働で所得を獲得できないと生活できない」という法則から逃れているひとたちである。この法則があるからこそ排除は「賃労働への駆り立て」の力をもつ。しかし、ルンペン・プロレタリアートのように賃労働せずとも生きていけるようになってしまうと安い賃金で搾取できる労働者が減ってしまう。搾取するためには排除が必要であるが、排除されたひとたちの生存が保証されてしまうと効率的な搾取に支障が出てくる。だから、排除されたひとたちの生存権ライン(最低生活費)をギリギリのカツカツに設定しておかなければならない。あるいは、排除されたひとたちに負の烙印を貼りつけて尊厳を毀損し社会的に恥辱を与える。新自由主義的な資本主義社会は(1)の法則を死守するために経済的・精神的な排除が必ず必要になるのである。

 

 勤労主義を重んじる日本社会では、社会的排除の問題を「自立支援=就労支援」に強引に結びつけようとする。その実、生活保護費を切り下げて生存権ラインを低く設定し、最低賃金が低くても働かざるをえないワーキングプアや外国人技能実習生を効率的・持続的に搾取できる社会をつくっている。これはたんに「排除と搾取の悪循環」を国レベルで推し進めているようなものだ。国レベルで(1)の法則で排除したうえで、排除された者たちを(2)低賃金労働者として社会的に包摂し搾取している。

 日本の賃労働者はどこかで「自分は資本主義に搾取されている」「自分は社畜だ」「どうせ働いても報われない」と思っている。だから(1)「賃労働で所得を獲得できないと生活できない」という法則を強く支持するようになる。賃労働していない者たちをバッシングして自分を慰めるしかないからだ。「自分たちは生きるために搾取労働に駆り立てられているのに、どうしてあいつらは働きもせず生きていけるんだ! ずるいじゃないか! 」「日本の憲法には勤労義務があるんだからちゃんと働け!」「わたしたちだって我慢して働いているんだからお前たちも我慢しろ!」...。 こうやって(2)が(1)を、(1)が(2)を規範的に支えている。バッシングしている搾取労働者は自分で自分の首を締めていることに気づかない。あるのは「わたしたちも我慢して働いているのだからお前らも働け!」という「道づれ論」である。

 排除問題と搾取問題のもつれあいのメカニズム。搾取できない非生産的なひとたちを排除し、排除されたひとたちを今度は強引に賃労働に組みいれて搾取する。この排除と搾取の悪循環は企業や一部の富裕層にとっては善循環となる。精神的に疲弊した労働者にとって、最後にしがみつくのは「勤労」という道徳規範である。「働いている自分は最低限の責務を果たしている」という感覚だけが自尊の支えになってしまうのだ。

 ならば、排除と搾取はセットで考えられるべきである。社会的包摂のしかたはたんなる賃労働への組みこみであってはならない。生存権で賃労働をしなくても基礎的な生活を保証する。これが(1)の法則を消滅させる。つぎに、最低賃金を上げて(2)を改善する。このように、排除問題の解決だけが搾取問題の低減につながる。