おんざまゆげ

@スラッカーの思想

事故調と免責制度——再発防止には刑事責任を免責する法理が必要

 1985年8月12日、日本航空123便群馬県上野村の山中「御巣鷹山」に墜落した。死者520名(生存者4名)。航空機事故では最悪レベルの惨事だった。(日本航空123便墜落事故)

 この事故にかんしては様々な憶測(陰謀論を含めたもの)がある。事故原因がいまだにはっきりしていないからだろう。思うに、この問題の本質は日本の司法制度(事故調査における免責制度がないこと)にあるのではないか──

 今回、1月2日に起きた衝突事故(日本航空516便衝突炎上事故)も同じことが懸念されるのである。

2024年1月2日、羽田空港に着陸した日本航空516便が海上保安庁の航空機と滑走路上で衝突・炎上

 免責制度とは司法取引の一種で、事故原因を究明するという目的を優先するために、その刑事責任を免責する制度である。つまり、罪を問わないかわりに事故を引き起こしてしまった説明責任(原因究明)を果たしてもらうわけである。航空機事故のような大規模な事故の場合、事故原因は様々な要因が絡んでくる。そのほとんどは「ヒューマン・エラー」だと言われており、このような過失責任は個人的な刑罰にはそぐわないという理由もある(様々なひと・組織が有機的に関係しているため)

 したがって、生贄の羊(スケープゴート)を見つけだして処罰を与えるよりも、同じような事故が二度と起こらないようにするための事故原因の究明のほうを優先するほうが公共性に資する。免責制度は欧米では司法取引として制度化されており、その法理は公共性の原理によって正当化されている。個人の刑事責任を追求するよりも事故原因の究明のほうが公共的であるという理由からだ。

 しかし、日本の刑事司法、あるいは事故調査委員会(事故調)にはそのような免責制度がない。国交省の事故調には警察や検察のような捜査権が与えられていないため、事故の当事者からの調査協力がないかぎり事故調査(ヒアリング)することはできない。警察・検察のような強制的な聴取ができないのである。

 事故被害者や遺族のほとんどは「処罰」をのぞんでいるわけではなく、あくまでも「なぜこんな事故が起こってしまったのか」という原因を知りたがっている。そして、二度と同じような事故が起こらないという再発防止策を訴えている。だが、日本の場合、免責制度がないがゆえに事故原因を追求するすべが個人の刑事責任に訴える刑事裁判しか方法がない。だから、遺族らは事故を引き起こした責任者個人を刑事訴追するしかないのである。裁判では例のごとく「事故原因を個人に帰責することはできない」という判決によって無罪になるケースがほとんどだ。

 事故を引き起こした当事者たちは刑事責任を免れるため、うかつに事故調の調査協力には応じない。応じたとしても、刑事責任が問われそうな質問には答えないであろう。もし、免責制度があったなら事故原因と思われる様々な要因を正直に述べることができたはずであり、日航機墜落事故から38年、未だに事故原因が五里霧中、陰謀論が錯綜している現状にはならなかったはずである。

 同様に、JR西日本福知山線脱線事故(2005年)、東京電力福島第一原発事故(2011年)も免責制度によって核心に迫る事故原因を追求することができたはずなのである。しかし、免責制度がないがゆえにそれらの事故原因は個人の刑事責任を追求するという刑事裁判によってしか果たすことができなかった。

 以上の問題点を痛感する事故が実際に起こっている。2012年にシンドラー社製のエレベーターによって清掃会社の女性従業員がエレベーターに挟まれて死亡している。なんと、2006年にも男子高校生が同社のエレベーターによって挟まれて死亡していたのだ。もし、刑事責任を問わない免責制度があったなら、事故調査によって2006年の死亡事故の段階で事故原因が判明したはずであり、2012年の事故は起こらなかった(防止できた)可能性が高い。

 ある弁護士は次のようにいう。

刑事責任の追及は、見せしめにしかなりません。」

 日航機が墜落してから38年。そして今回の衝突事故。日本の刑事司法と事故調は何も変わっていない。事故によって亡くなった犠牲者とその遺族たちの気持ちを日本政府は無視しつづけているのである。誰かを処罰すること(=自己責任論)よりも、もっと大切なことがある。それは同じような事故が起こらないようにするという再発防止の究明である。個人責任よりも組織の構造的な欠陥を追求しなければならないのに、なぜか日本では免責制度を導入せず個人責任ばかりを問題視する。この傾向が続くかぎり、また同じ事故が起こり同じ被害が起きる。事故にあった犠牲者や遺族らの無念さは永遠に解消されないであろう。