おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「小人閑居して不善をなす」──人間の自由と悪への傾き

「とうとう我らの時代がきた!」

 そう歓喜したのはわたしが中学二年の夏休み、三年生が部活の大会に破れたときのことだった。しかし、顧問の先生は言った。「お前ら三年に自由な夏休みを与えてしまうと何をしでかすかわからない。だから秋の大会にエントリーしたから夏休みも部活の練習にくること!」

 まさに「小人閑居して不善をなす」を下敷きにした性悪説である。

 

「小人」(しょうじん)とは《徳のない、品性の卑しい人》という意味で「君子」の反対語、「閑居」とは以下の二つの意味をなす。

(1) 世俗を逃れて心静かに暮らすこと。

(2) 暇でいること。何もしないでぶらぶらしていること。

 したがって、「小人閑居して不善をなす」とは《徳のない品性の卑しい人は、暇であると良くないことをする》という意味のことわざになる。(この場合、閑居の意味は(2)に限定される)。

 

 「小人閑居して不善をなす」ということわざは、いまではありふれた人間観となっている。昼間からブラブラしている男が目撃されたときに不審者あつかいされるのもそのような人間観からきているし、生活保護バッシングにおける「パチンコ問題」も「働かざる者食うべからず」という規範からよりも「働いていない者はギャンブル(という不善)ばかりしている困った人たち」という意味合いでバッシングされるケースが多い。

 思うに、ニートや無職、働いていない者たちを苦しめる「働かざる者食うべからず」という規範には、その深層部分に「小人閑居して不善をなす」という人間観があるのではないだろうか。働けるように見える人間が働いていない場合、そのひとは「小人」と見なされて「閑居して不善をなす」と勝手に判断されてしまう。「働け!(食うために)」という規範を「不善予防」という規範が深層部分で支えているのである。

 

 一方、「労働からの自由(解放)」というときに重要になってくるのは「貧すれば鈍する」ということわざだろう。この場合、「貧する」とは物質的・金銭的な問題だけではなく「自由な時間(=精神的な余裕)」をも意味している。物質的・金銭的豊かさよりも精神的・時間的な豊かさを重視する発想は、日本では1980年代後半ごろにはすでに提唱されていた。しかし、日本の労組は相変わらず賃上げばかりを要求してきた(驚くことに今もこの発想は変わらない)。

 労働時間が長くなればなるほど労働者の精神は「貧する」のであり、貧すれば「鈍する」。そして、むしろ逆に鈍すればこそ「不善をなす」のではないか。

 

 「不善をなす」という意味には二通りの解釈がある。ひとつは文字通り「不善をなす」という意味。もうひとつは「すでに不善をなしている今の現状を改められるのに改めない」という意味。つまり、わたしたちは労働をすればするほど自由な時間を失い「貧すれば鈍する」の状態にハマっていく。だからこそ、現状、様々な不善をなしているにもかかわらず「貧すれば鈍する」がゆえにそのことに気づかなくなっていくのだ。したがって、不善をなしている現状から脱却するためには労働時間を積極的に少なくする必要がある。

 

 すべての人間は「小人」である。人間はつねに悪へと傾く存在だ。この「悪への傾き」に抗うところに人間の自由がある。これがカントが考えた自由と道徳の関係である。人間は自由時間が増えたからといってただそれだけで自由な存在になれるわけではない。だが、長時間労働は自由時間を減らすことによって「悪への傾き」に抗うことすらさせない。そうやって「小人閑居して不善をなす」可能性を奪うことによって逆に不善を継続させているのである。